わたしを愛するか

ヨハネ21:15-17

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 前回は、ヨハネの福音書20章から、復活したイエスが弟子たちに現われたことを学びました。ヨハネの福音書21章も、イエスは弟子たちに現れたことが書かれています。両方とも、イエスの復活のことが書かれているのですが、20章と21章ではいくつかの違いがあります。20章にはエルサレムでの出来事が、21章にはガリラヤでのことが書かれています。ヨハネ21:1に「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。」とありますが、ここで「テベリヤ」とあるのは「ガリラヤ」のことです。また20章は、弟子たちの中でもトマスに焦点をあてていましたが、21章では、ペテロに焦点があてられています。なぜ、ここでは、ガリラヤでの出来事が書かれているのでしょうか。また、ペテロが中心になっているのでしょうか。今朝はそのことを考えながら、この箇所にあるメッセージに耳を傾けましょう。

 一、弟子たちをガリラヤに帰したイエス

 イエスが復活してから一週間ほどエルサレムにいた弟子たちは、ずっとそこにはとどまらず、いったんガリラヤに帰りました。弟子たちがガリラヤに帰ったのは、彼らの判断によってではなく、イエスの導きによってでした。天使たちは、墓にやってきた女の弟子たちに「ですから急いで行って、弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこでお会いできるということです。」(ルカ28:7)と言っており、復活したイエスご自身も彼女たちに「行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」と語っています。弟子たちをガリラヤに帰したのはイエスでした。ほんとうなら弟子たちはすぐにでもガリラヤに向かうべきだったのですが、ユダヤの指導者たちを恐れて、ガリラヤへの旅行をためらっていたのです。では、なぜ、イエスは弟子たちをガリラヤに帰したのでしょうか。ふたつの理由がありました。ひとつは、弟子たちを休ませるためであり、もうひとつは、弟子たちに再出発の機会を与えるためでした。

 弟子たちが、エルサレムで過ごした数週間は、波乱万丈の数週間でした。彼らは、おそらく、エルサレムでの数週間を何ヶ月もそこにいたかのように長く感じたことでしょう。時間というのは、時計で計って長いとか短いとかいえない不思議なものです。同じ数分間でも、誰かを待っている時には長く感じますが、待たせている人には短く感じられるものです。弟子たちは、イエスと共に過ごし、イエスの力を見てきました。この方こそユダヤの王となって人々を救ってくれるにちがいないと信じていました。エルサレムに入った時には、その期待が最高潮に達しました。ところが、その期待は裏切られ、こともあろうにイエスは十字架でその最期をとげたのです。弟子たちは、失望と悲しみのどん底に叩き落されました。弟子たちにとって、金曜日、土曜日は、長い長い一日だったろうと思います。しかし、弟子たちの悲しみと嘆きは、日曜日には驚きと喜びに変わりました。イエスは復活されたのです。エルサレムでの数週間、弟子たちはまるでジェットコースターに乗っているかのようにアップ・ダウンを経験したことでしょう。キリストの十字架と復活という、歴史の中心となる大きな出来事を体験して、弟子たちの心は興奮していましたが、同時に疲れてもいました。それでイエスは、彼らにブレークを与えるため、弟子たちをガリラヤに導いたのです。

 ガリラヤ地方は、弟子たちの出身地でした。そこはエルサレムのような都会とは違って緑が多く、静かでのんびりとしたところです。あまりにも多くのできごとを次々と体験した弟子たちにとって、なつかしいガリラヤ湖の潮風は、彼らの疲れをいやしたことでしょう。イエスは、伝道をはじめたころ、弟子たちが食事をするひまもなく忙しくしているのを見て、弟子たちに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われたことがあります。(マルコ6:31)イエスは、人間の弱さをよく知っています。主の配慮はとても現実的です。イエスは、弟子たちに休みが必要なのを知っていて、それを与えたのです。イエスは主であり、私たちはそのしもべです。イエスには私たちを奴隷のように働かせる権利もあるのですが、イエスは決してそのようなことはしません。もちろんイエスは、怠けている者には叱咤激励しますが、疲れきった者たちには、必要な休みを与えてくださるのです。

 今日の社会はとてもデマンディングです。ここシリコンバレーではなおのことです。「さあ、これだけの勉強をしなさい、これだけの業績をあげなさい、これだけの生活水準を保ちなさい、これだけ体重を減らしなさい、…」などと、たえず私たちに要求を突きつけてきます。日本で生まれ、日本で育った者たちにとって、言葉も文化も違う国での生活は、それを楽しんでいるように見えても、どこかで神経をすり減らしているものです。多くの人はそうしたプレッシャー、ストレスにあえいでいます。こころの重荷をおろすことのできる場所、たましいの休み場が必要なのです。そして、それはイエス・キリストにあります。イエスは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)「私は、毎日の生活と仕事で精一杯なのに、この上、キリストを信じて従うなどという重荷は負いたくない。」と言う人もいますが、イエスを信じることは、重荷を負うことではなく、むしろ、重荷をおろすことなのです。イエス・キリストを信じた私たちは、そのことを今、体験していますね。

 イエスは続けてこう言っています。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29-30)「くびき」というのは、文字どおり、首にかける木のことです。たいていは、これを二頭の牛にかけ、そこに鋤や鍬をとりつけて、畑を耕すのです。しかも、若い牛にくびきをかける時には、かならず、もう一頭の牛は、くびきに慣れた牛にするのだそうです。くびきに慣れた牛が、若い牛を導いて、疲れないようにしてくれるのです。キリストは、このくびきに慣れた牛のように、私たちのくびきの一方を担いでくれるのです。「人生は重き荷を負うて坂道を登るがごとし」と言われるように、どの人にも人生の重荷があり、負わなければならないくびきがあります。しかし、キリストのくびきを負うなら、今までひとりで背負ってきた重荷が一度に軽くなるのを体験することができます。イエスのもとに行って休み、重荷を軽くしていただきましょう。

 二、弟子たちと食事をともにしたイエス

 さて、イエスが弟子たちをガリラヤに導いたもうひとつの理由は、弟子たちに新しい出発をさせるためでした。ガリラヤは、弟子たちの故郷であっただけでなく、そこは、彼らの信仰の出発点でもありました。イエスに出会い、イエスの弟子となって従いはじめた場所でした。ヨハネの福音書21章のはじめの部分を読むと、弟子たちは一晩中漁をしたが、一匹も魚がとれなかったとあります。ところが、岸辺に立っていたイエスのことばに従って、もういちど網を降ろしてみると、たくさんの魚がとれたのです。実は、これとほぼ同じことが、弟子たちがイエスに従いはじめたころにも起こっているのです。その時も、弟子たちは一晩中漁をしたにもかかわらず、一匹の魚もとれませんでした。しかし、イエスのことばに従って沖に出て網をおろしてみると、網が破れるほどの魚がとれたのです。(ルカ5:1-11)弟子たちは、この時から「何もかも捨てて、イエスに従った」のでした。この体験は、彼らの信仰の原点でした。イエスは、復活の後、弟子たちに、彼らが三年前に体験したのと同じ奇蹟を行いました。それは、彼らを信仰の原点に立ち返らせ、信仰を新しくさせるためでした。イエスは、弟子たちに再出発の機会を与えたのです。

 岸辺でイエスは、弟子たちのために炭火をおこして待っていました。イエスはパンをさき、魚をわけて、弟子たちと一緒に食事をしました。この食事について、学者たちは、これは「和解の食事」であると言います。古代では、人を食事に招くのは仲直りのしるしだったのです。弟子たちはイエスを裏切り、見捨てました。そんな弟子たちをイエスは赦し、受け入れ、ここで「和解の食事」を提供しているのです。ふつう、和解の食事というのは、罪を犯した人が、そのために被害をこうむった人を招くものなのですが、ここでは、弟子たちに裏切られ、見捨てられたイエスの方から和解の食事が提供されています。イエスのほうから弟子たちの罪を赦し、彼らを受け入れているのです。ここに、イエスの大きな愛と恵みがあります。私は、ガリラヤ湖に行った時、イエスが弟子たちと食事をしたと伝えられている場所に行きました。そこには平らな大きな岩がありました。私はその岩に手を触れて、私たちを赦して受け入れ、私たちにやり直すチャンスを与え続けてくださるイエスの大きな愛に感謝し、再献身の祈りをささげたことでした。

 三、ペテロに愛を問うたイエス

 イエスは、弟子たちすべてに再出発の機会を与えてくださいましたが、弟子たちの中でも中心となるべきペテロには、特別の機会を与えました。それが、イエスのペテロへの質問でした。食事の後、イエスはペテロに「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問いました。「ヨハネの子シモン」というのはずいぶん、改まった呼び名です。彼はすでにペテロという名で知られていたのですが、ここでは正式な名前で呼ばれいます。たとえば桜井先生に「パスター・ジム」と呼びかければ、親しみを表わしますが、「タカシ・ジェイムス・サクライ」と呼ぶと、先生はきっと目を丸くされることでしょう。だれでも、こんなふうに呼ばれれば、立ち上がって、背筋を伸ばし、緊張して返事をしなければならなくなりますね。しかも「わたしを愛しますか」というとき使われていることばは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)というところで使われているのと同じことばです。大きな愛、真実な愛、献身的な愛、犠牲的な愛を指すのです。イエスは、ペテロに、真剣に「わたしを、こころから、命がけで愛するか。」と問いかけているのです。

 イエスは、ぺテロに同じ質問を三度繰り返しています。これは、もう、お気づきかもしれませんが、ペテロがイエスを三度否定したことに関係があります。ペテロは、最後の晩餐の席で「たとい全部の者があなたのゆえにつまづいても、私は決してつまづきません。たとい、いっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マタイ26:23,35)と大見得を切りました。ところが、それから数時間もたたないうち、イエスが捕らえられて大祭司のところに連れていかれた時、ペテロは人々を恐れて、「私はイエスの弟子ではない。イエスなんか知らない。」とイエスを三度も否んでしまったのです。そのようなペテロに、イエスは、三度、「わたしを愛するか」と問いかけました。それは、ペテロを過去の失敗から完全に解放するためでした。ペテロが過去の失敗をいつまでも引きずらないで、前に向かって進み出すためでした。

 私たちの神は赦しの神です。私たちの聞いている福音は罪の赦しの福音です。なのに、なんと多くの人が過去の罪や失敗にいつまでもこだわり続けていることでしょうか。神が赦してくださっているのに、自分を赦していない人がなんと多く、神が受け入れてくださっているのに、自分を受け入れていない人がなんと多いことでしょう。自分を赦せない、自分を受け入れられないという人は、きまって、他の人をも赦し、受け入れることができないでいます。そして、そのことで苦しみ、悩んでいるのです。そこから解放されるために、私たちにはイエスのことばが、イエスの問いかけが必要なのです。それに聞き、それに答えることによって、救いと解放がやってくるのです。

 イエスは私たちにも「あなたはわたしを愛するか」と問いかけています。「あなたは、わたしにちゃんと従ってこれるか。あなたはわたしのために一所懸命働くか。」イエスは、そのように問うておられるのではありません。イエスが私たちに求めるのは、私たちの立派さや能力ではなく、主を愛する愛です。ペテロは、かって「たとい全部の者があなたのゆえにつまづいても、私は決してつまづきません。」などと言って失敗していますので、「私はあなたを愛します。」とは言わずに、「私があなたを愛することは、主よ、あなたがご存じです。」と言っていますが、私たちは、ストレートに「主よ。あなたを愛します。」とお答えして良いと思います。ハーベスト・クルセードという若者向けの伝道集会のため、あるスタジアムに行ったことがあります。スタジアムのこちらのセクションからあちらのセクションへと "We love Jesus, Yes, we do. We love Jesus. How about you?" と大声で叫びあったのを思い出しますが、素直に "I love you, Lord." と言うことができるのが、アメリカのクリスチャンの素晴らしいところだと思います。私たちも臆病にならず、「主よ、あなたを愛します」と言い表わしましょう。

 イエスへの愛を言い表わしたペテロに、イエスは「わたしの子羊を飼いなさい。」「わたしの羊を牧しなさい。」「わたしの羊を飼いなさい。」と言いました。ペテロが再び、十二弟子の中でリーダとなり、教会に仕えることを許してくださったのです。私たちも、もうすぐ、新年度の理事、執事、そして教団総会代議員を選びます。教会に仕える人々をを必要としています。ある人から「私に執事の資格があるでしょうか。」と質問されましたが、今朝の聖書に、その答えがあります。イエスは、教会の世話をすることを、イエスを愛すると言い表した人に任せています。教会の奉仕者には、いくつかの資格が必要でしょうが、その中でなによりも大切なことは、イエスへの愛です。イエスへの愛のゆえに、奉仕をする時それは決して重荷とはなりません。奉仕がイエスへの愛を表わすためになされるなら、それはかならず実を結ぶものとなるのです。「主よ、あなたを愛します。」そう言い表わして、教会に仕えましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、疲れ果てたものに力をあたえ、背いた者を受け入れ、失敗したものをもう一度立ち上がらせてくださる、私たちの救い主、イエス・キリストを、こころから感謝いたします。疲れた者を主イエスのくださる平安へと招いてください。みずからの罪を悔いるものに、主イエスとの親しまじわりを与えてください。失敗から立ち返ろうとする者たちを、あなたへの愛で満たして、再びあなたに仕える者としてください。復活の力で、私たちを生かしてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。

5/4/2003