恐れから平安へ

ヨハネ20:19-23

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20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

 今日は「イースターの第二日曜日」です。商店ではイースター用品が半額セールに出されていますが、もうイースターが終わったわけではありません。イエスは復活ののち、40日の間弟子たちに現れ天にお帰りになりました。イースターは40日間、「主の昇天日」まで続くのです。イースターの前にレントの40日を守ったように、イースター・サンデーのあともイースターの40日をしっかり守りたいと思います。

 一、弟子たちの恐れ

 さて、イエスは日曜日の夕方、弟子たちが集まっているところに来て「あなたがたに平安があるように」(Peace be with you.)と言われました(19節)。「平安」はヘブル語では「シャローム」と言い、イスラエルの国では「おはようございます」も「こんにちわ」も「こんばんわ」もすべて「シャローム」と言って挨拶します。いろんな挨拶ことばを覚えなくても「シャローム」ひとつで済むのでとても便利です。ある日本語の訳(現代訳)では19節「彼らの中に立ち、『平安があるように』と言われた。これはユダヤ人のあいさつのことばで、『こんばんは』という意味である」と訳してありますが、イエスが言われた「平安があなたがたにあるように」という言葉には、あいさつ以上の意味があります。

 19節に「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていた」とあるように、弟子たちは、自分たちの先生が十字架にかけられたからには、今度は弟子である自分たちも狙われるに違いないと恐れていました。イエスを十字架につけたユダヤの指導者たちが、弟子たちを見つけ出して捕まえようとしているに違いないと、ビクビクしていました。イエスが亡くなられ、葬られてからすぐに安息日になりました。ユダヤ人は安息日に遠くに移動することを許されませんから、弟子たちはガリラヤに逃げ出すわけにもいかず、エルサレムで隠れて集まっていたのです。安息日があけて日曜日の朝、弟子たちはイエスのからだが墓にないことを知りました。女の弟子たちは「イエスは復活された」と告げましたが、男の弟子たちはまだそれを信じることができませんでした。イエスのからだが墓になければ、弟子たちが墓からイエスのからだを盗んだという濡れ衣を着せられ、もっとひどいことになるに違いないと、一層恐れを募らせていたのです。

 「平安」の反対は「不安」ですが「不安」が昂じると「恐れ」になります。弟子たちは平安を無くし、恐れにとりつかれていました。「夕方」暗闇が迫ってくるときにはそうした不安や恐れが増してくるものです。それで、彼らは自分たちのいた家の戸をしっかり閉めて、そこに息をひそめていました。しかし、どんなに家の戸を閉め切っても、弟子たちには平安がありません。弟子たちは隠れ家に閉じこもっていましたが、ほんとうは恐れに閉じ込められていたのです。

 今日の社会には、この時の弟子たちのように、不安や恐れに閉じこめられている人々がなんと多いことでしょうか。カリフォルニアのビバリーヒルズやマリブの高級住宅地に住んで、人々からうらやまれるような何不自由ない生活をしていても、心に平安がなく、喜びがなく、光の見えない生活をしている人が大勢います。不安から逃れ、恐れを隠そうとしてドラッグやアルコールに手を出す人々もいます。そうした人々は過去の名声が消え、人々が離れ、ひとり取り残されるのを恐れながら生きているのです。

 そんな特別な人々ばかりでなく、ごく普通の生活をしている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしょうか。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。天災が起こったら…などという恐れがあります。はっきりした原因が無くても、漠然とした不安や恐れにとらわれている人も多くいます。

 こうした不安や恐れは、そのままにしておくと、私たちの精神に大きなダメージを与えます。私たちの心を縛りつけ、身動きできないものにしてしまいます。ほんとうは神の助けにによって乗り越えられることであっても、心が恐れに閉じこめられているため、問題が何倍にも大きく見え、解決への一歩を踏み出せないことがあります。私たちには恐れを乗り越えさせ、問題の解決へと導く平安が必要なのです。

 二、イエスの平安

 イエスは、恐れに閉じ込められていた弟子たちのところ入ってこられました。「平安があなたがたにあるように」(Peace be with you.)と言って、弟子たちに一番必要なもの、「平安」をお与えになりました。イエスは締め切られたドアを通り抜けて中に入ってこられました。復活したイエスには、どんなに頑丈な鍵のかかった重いドアも妨げにはなりません。同じように、現代の私たちが、どんな恐れ、問題、困難にとりかこまれていても、それを通り抜けて、私たちのところにイエスは来てくださいます。使徒パウロはコリント第二4:8で「わたしたちは四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」と言っています。「八方ふさがり」ということばがあるように、パウロにはいつも困難や迫害が四方八方からやってきていました。しかし、パウロはくじけませんでした。たとえ、四方八方を困難にふさがれていても、イエスはその困難を通り抜けて自分の側に来ることができる。どんな問題もイエスの臨在を妨げることはできないと確信していたからです。

 ですから、イエスが与える平安は第一に、「主が共におられる平安」、「臨在の平安」だと言うことができます。イエスは十字架にかかられる前、弟子たちに約束されました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(ヨハネ14:27)イエスはこの約束のとおり、この世が決して与えることのできない平安、もっと質の高い、豊かな、力ある平安を弟子たちに与えられました。イエスが与える平安は、問題が即座に解決してホッとし、ヤレヤレと一息つくというだけのものではありません。その平安は、問題の解決だけでなく、それを解決してくださるお方を与えてくれる平安です。ですから、問題に取り組んでいるただ中でも、不思議な平安を得るのです。

 私たちは生きるかぎりさまざまな問題にぶつかります。そのひとつひとつにジタバタしても本当の解決にはなりません。からだの病気の場合でも、病気から生じる症状を手当するだけでは病気を治すことはできません。症状の原因となっているものを治し、体質そのものを変えて行かなければなりません。それと同じように、人生の問題も救い主イエスを心に迎え、このお方と共に生きるのでなければ、本当の解決にはならないのです。主が共におられることからくる平安だけが私たちの心と思い、そして、からだも生活も守ってくれるのです。問題のただ中にあっても、それが私たちの感情をひどく傷つけないように、そのことで私たちの理性がゆがんでしまわないようにしてくれるのです。どんな問題に取り囲まれていようと、心にイエスの与えてくださる平安を持つとき、それは、私たちを取り囲む問題の壁を内側から突き崩し、溶かし、消していくのです。

 私はあるとき、見ず知らずの人からですが、小さなカードをもらいました。その上半分には

Dear Jesus, I have a problem ... It's me.
と書かれていました。私たちは誰も「私には問題がない。あっても、それは大したものではない」と思いたいものです。本当の平安を知らない人は「自分は大丈夫」という「気休め」に頼るしかないので、問題を否定しようとします。ですから、このカードの言葉のように、「私には問題があります」と正直に祈ることができる人、そして、その問題の原因は、他の何事でも、他の誰でもない、「私」ですと言うことができる人はとても幸いだと思います。

 このカードの下半分にははこう書かれていました。

Dear Child, I have the answer ... It's Me.
そうです。どんな問題の答えもイエスにあります。そして、その答えはイエスご自身です。イエスが共にいてくださること、これが平安そのものなのです。

 イエスが与える平安は、第二に、罪の赦しからくる平安です。弟子たちの恐れにはユダヤ人に捕まえられるのではないかという恐れとともに、主が復活して自分たちのところに来られたとしても、自分たちには主に会わせる顔がないという恐れもあったことでしょう。弟子たちはイエスを裏切り、否定し、見捨ててしまったからです。主が一緒にいてくださらなければ平安がないのに、その主と一緒にいることのできない罪深い自分がここにいる。弟子たちはそうした矛盾の中にいたのです。

 罪のあるところ、神との和解ができていないところには本物の平安はありません。平安のように見えたとしても、それはたんなる「安心」であり「気休め」に過ぎません。私たちが病気を恐れるのは、死が怖いからです。そして、死が怖いのは、やがて、ひとりで神の前に立たなければならないことを感じているからです。神の審判のとき私たちの学歴や業績、地位や財産などは何の役にも立ちません。神は外面ではなく、内面を裁かれるからです。「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」(マタイ7:22)と言ったとしても、神との正しい関係に生きていなければ、だれひとり神の国に入ることはできません。私たちにとっての究極の不安、恐れは、聖なる神の前に立つことができないという不安、恐れです。これははっきりと自覚していなくても、ぼんやりとしてであっても、ほとんどの人が感じていることです。

 ですから、私たちに必要なのは「罪の赦し」から来る平安です。復活されたイエスは、弟子たちの罪を責めるためではなく、弟子たちを赦して、もういちどご自分の弟子とし、さらに強くするために来られました。弟子たちは、罪の赦しから来る平安を与えられました。罪の赦しの権威は神のほか誰にも与えられていませんが、イエスは地上で人々の罪を赦し、ご自分が神の御子であることを示されました。ところが、イエスはその権威を弟子たちにお与えになりました。23節に「あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」とある通りです。これは驚くべきことです。いったい人間に、しかも、弱く、失敗しやすい弟子たちにそんな大きな権威が任せられていいのでしょうか。なぜ、弟子たちにそれが与えれたのでしょうか。それは、弟子たちが一番、罪の赦しの意味を知り、それを体験していたからです。福音の中心はイエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しです。この世に罪の赦し以上の幸いはありません。イエスが弟子たちにお与えになった罪のゆるしの「権威」とは、福音を語る「責任」のことと言って良いでしょう。もし、私たちが福音を語るなら、人々はそれによって罪の赦しを知りますが、口を閉ざすなら、人々は罪の赦しを知らないままになってしまいます。罪の赦しを受けた人は、誰も、罪の赦しの福音を語る責任があるのです。また、罪の赦しの福音は、罪を赦され、罪の赦しから来る平安を味わい、その幸いに生きている人だけが伝えることができるものです。私たちに罪の赦しを受ける特権と、それを他の人に分かち合う責任があることを覚えていましょう。

 恐れに閉じ込められていた弟子たちに、主イエスは「平安があなたがたにあるように」(Peace be with you!)と語りかけられました。それで、初代教会では、クリスチャンは礼拝のために集まったとき、互いに「平安があなたがたにあるように」(Peace be with you!)と挨拶を交わしました。この平安は、主が共にいてくださることから来ますので、「主がともにおられますように」(The Lord be with you!)という挨拶も交わされました。イースターのシーズン、主が私たちに「平安があなたがたにあるように」(Peace be with you!)と語りかけてくださっている、その声を聞きましょう。主の平安をいただき、他の人々にも「平安があなたがたにあるように」(Peace be with you!)と語りかけて、平安を分かちあい、平安を祈りあっていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスが神と人との仲立ちとなり、和解となって、十字架に死なれ、復活されて、私たちのために平安を勝ち取ってくださったことを感謝します。主が勝ち取ってくださった罪の赦しを受け、神との平和に生きることができますよう、私たちを導いてください。私たちには、日々、刻々、平安が必要です。「平安あれ」と言って、私たちのところに来てくださる主イエスを迎え入れ、主とともに歩む私たちとしてください。そして、その平安を多くの人々に証しし、人々と分かち合うことができますよう助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/27/2014