20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
今日は「イースターの第二日曜日」です。イースターにちなんだ品物は、商店から姿を消してしまいましたが、もうイースターが終わったわけではありません。イエスは復活ののち、40日の間弟子たちに現れ、弟子たちを教えました。そして天にお帰りになりました。今年(2009年)は5月21日がイースターから40日目で「主の昇天日」になります。じつはこの日まで「イースター」が続いているのです。イースターの前にレントの40日を守ったように、「主の昇天日」まではイースターの40日なのです。弟子たちは「主の昇天日」から10日後のペンテコステに聖霊を受け、キリストの証人になりました。キリストとともに十字架への道を歩み、そののち復活されたキリストとともに過ごすことなしにはペンテコステはなかったのです。今年の年間聖句は「地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)です。レントの40日に十字架を深く思いみた私たちはイースターの40日も主とともに歩んでペンテコステを迎えたいと思います。私たちは一足飛びにペンテコステを迎え、キリストの証人になることはできません。レントの40日とともにイースターの40日をもしっかりと歩んでいきたいと思います。
一、平安のない社会
イエスはイースターの日の夕方、弟子たちが集まっていたところに来て「平安があなたがたにあるように。」と言われました。「平安」はヘブル語では「シャローム」と言い、イスラエルの国では「おはようございます。」も「こんにちわ。」も「こんばんわ。」もすべて「シャローム」と言って挨拶をします。いろんな挨拶ことばを覚えなくても「シャローム」ひとつで済むのでとても便利です。しかし、イエスが弟子たちに言われた「シャローム」は挨拶としての「シャローム」ではありませんでした。
最近といっても、1996年のことですから13年も前になりますが、フィリップ・ヤンシーが "The Jesus I Never Knew"(『誰も知らなかったイエス』)という本で、イエスを身近な人のように描いてから、ひとびとはイエスを神々しいお方というよりも「隣の兄ちゃん」のように気安い人として心に思い描くようになりました。若くて、陽気で、快活な「アメリカン・ジーザス」が喜ばれるようになったのです。そういう目でこの箇所を見ると、「平安があなたがたにあるように。」ということばも、「ハーイ、みんな元気。ぼくも復活して元気だよ。」といった調子で読まれてしまいかねません。しかし、この箇所がそんな軽いものでないことは、聖書を読む人なら誰もが分かります。イエスが復活して最初に弟子たちに語ったことばが「平安あれ。」であったのは、イエスが14:27で「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」と約束しておられたからです。イエスはここで、この世が決して与えることのできない平安、もっと豊かな平安、もっと質の高い平安、もっと力ある平安を弟子たちに与えておられるのです。
私たちは毎日、平安が必要です。イスラエルで朝も、昼も、夜も「シャローム」と言って挨拶をかわすように、一日のうち、朝も、昼も、夜も、何度も平安が必要です。朝、祈って平安を得て職場に出かけて行っても、途中で乱暴な車にヒヤッとさせられて心が乱れることがあるでしょう。取引先が急に商談をキャンセルしてきてがっかりすることもあるでしょう。家に帰ればこどもが学校でトラブルがあったと聞かされ心配することもあるでしょう。一日中平安を保っていることは難しいので、私たちはいつも平安が必要ですが、この時の弟子たちはふだんよりももっと平安を必要としていました。イエスが亡くなられ葬られてからすぐに安息日になりました。ユダヤ人は安息日には旅行をしませんでしたから、弟子たちもガリラヤに逃げ出すわけにもいかず、エルサレムのある家に隠れていました。安息日があけて日曜日の朝、弟子たちはイエスのからだが墓にないことを知りました。女性の弟子たちは「イエスは復活された。」と告げましたが、男の弟子たちはまだそのことを信じることができませんでした。イエスのからだが墓になければ、弟子たちが墓からイエスのからだを盗んだという濡れ衣を着せられ、もっとひどいことになるに違いない。イエスを十字架にかけた人々が今度は弟子たちをも捕まえ十字架にかけようとしているかもしれないと恐れていました。「平安」の反対は「不安」ですが「不安」がこうじると「恐れ」になります。弟子たちは平安を無くし、恐れにとりつかれていました。「夕方」暗闇が迫ってくるときにはそうした不安や恐れが募ってくるものです。それで、彼らは自分たちのいた家の戸をしっかりと閉めて、そこに息をひそめていたのです。しかし、どんなに家の戸を閉め切っても、弟子たちには平安がありませんでした。弟子たちは隠れ家に閉じこもっていましたが、じつは恐れに閉じ込められていたのです。
今日の社会には、このときの弟子たちのように、不安や恐れに閉じこめられている人々がなんと多いことでしょうか。ビバリーヒルズやマリブの高級住宅地に住んで、人々からうらやまれるような何不自由のない生活をしていても、心に平安がなく、喜びがなく、光の見えない生活をしている人が大勢います。不安から逃れ、恐れを隠そうとしてドラッグやアルコールに手を出す人々もいます。そうした人々は過去の名声が消え、人々が離れ、ひとり取り残されるのを恐れながら生きているのです。
そんな特別な人々ばかりでなく、ごく普通の生活をしている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。不景気が続いて仕事を失ったらどうしょうか。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。…などという恐れが私たちの回りにもあります。どんなにお金を持っていても、家族や友人に取り囲まれていても、健康であっても、また家のセキュリティをどんなに厳重にしても、それで私たちは不安から解放され、恐れから守られるのではありません。私たちには恐れから解放してくれるものが必要なのです。聖書は私たちがかかえている問題を決して小さく、軽く見てはいけないと教えています。からだの場合でも、精神的、霊的なことでも、「この程度なら大丈夫」と思われていても、大変なことになる場合があるからです。しかし、ほんとうは神の助けにによって乗り越えられる問題であるのに、心が恐れに閉じこめられてしまっているため、問題が実際の何倍も大きく見え、解決への一歩を踏み出さないでしまうこともあります。私たちには恐れを乗り越えさせ、問題の解決へと導く平安が必要なのです。
二、キリストの与える平安
恐れに閉じこめられていた弟子たちのところに、イエスは入ってこられました。この箇所では、イエスが締め切ったドアを通り抜けて中に入ってこられたように書かれています。イエスは霊として復活したのでなくからだをもって復活しました。イエスは弟子たちにそのからだを見せ、手の傷跡、脇腹の傷を見せました。弟子たちの前で食事もしました。イエスはまさしくからだを持っておられましたが、そのからだは死なないからだ、栄光のからだ、復活のからだでした。時間や空間に縛られないものだったのです。ですからイエスは戸が厳重に締められていてもそこを通り抜けることができました。一つの場所から別の場所へと瞬間に移動することができ、また弟子たちの見ている前で天に昇っていくこともできたのです。
このことは、たとえ私たちが恐れに取り囲まれていたとしても、どんな問題に、どんな困難にとりかこまれていたとしても、そこにイエスは来てくださるということを、私たちに確信させてくれます。イエスを寄せ付けない壁などないのです。使徒パウロはコリント第二4:8で「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」と言っています。「八方ふさがり」ということばがあるように、パウロにはいつも困難や迫害が四方八方からやってきていました。しかし、パウロはそれでくじけませんでした。たとえ、自分が四方八方を困難にふさがれていても、イエスはその困難を通り抜けてそこに入ってくることができる。どんな問題もイエスの臨在を妨げることはできないということを確信していたのです。
ですから、イエスが与える平安は第一に、「臨在の平安」つまり「主が共におられる平安」であるということができます。平安が来たから一挙に問題が消えてなくなるという場合もあるでしょうが、そうでないときもあります。イエスが与える平安とは、問題が即座に解決してホッとするというようなものではなく、問題を解決してくださるお方を私たちの人生に迎えることによって与えられる平安です。私たちは生きるかぎりさまざまな問題にぶつかります。そのひとつひとつにジタバタしても本当の解決にはなりません。からだの病気の場合でも、病気から生じる症状を手当するだけでは病気を治すことはできません。さまざまな症状があらわれてくる原因となっているものを治し、体質そのものを変えて行かなければなりません。それと同じように、人生の問題も救い主イエスを心に迎え、このお方と共に生きるということがなければ、本当の解決にはならないのです。主が共におられることからくる平安が、この平安だけが私たちの心と思いを、また私たちのからだをも守ってくれるのです。問題のただ中にあっても、それが私たちの感情をひどく傷つけないように、そのことで私たちの理性がゆがんでしまわないようにしてくれるのです。実際的なことにおいても、さまざまな失敗から守られ、私たちのからだに危害が加えられないように守られます。どんな問題に取り囲まれていようと、この平安を心に持つとき、それが、私たちを取り囲む問題の壁を内側から突き崩し、溶かし、消していくのです。
皆さんはこの平安を体験していますか。「弟子たちは主を見て喜んだ。」(20節)とありますが、自分の生活の中に主を見ているでしょうか。主が共におられることを確信しているでしょうか。それは肉眼で主イエスを見るということではありません。やがての日にはイエスをこの目で見、イエスの声をこの耳で聞くことができるようになりますが、今はそうではありません。私たちはイエスの顔や姿を写した写真や肉声を録音したテープを持ってはいませんが、イエスのことばを持っています。神のことば、聖書です。神のことばを聞き、読み、心に蓄えることによって、その中にイエスを見、イエスの声を聞くのです。以前、アーカンソーに行ったとき、手で書き写された韓国語の聖書を見ました。文字に濃淡をつけてあるので、すこし離れてみるとひげを蓄えた人の顔が浮かんで見えるのです。それはイエスの顔を描いたものでした。イエスは聖書のどの部分にもご自分の臨在を示しておられます。私たちはそれを見逃してはいけません。聖書のどのページにもイエスの顔が浮かんで見えてくるように読まなければならないのです。神のことばによってイエスが共におられることを確信し、平安を保っていくのです。
イエスが与える平安は、第二に、「聖霊による平安」です。イエスは弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい。」(22節)と言われました。これは、神が最初の人間アダムを創造されたとき、その鼻に「いのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)ことを連想させます。コリント第一15:45には「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」とあります。人は罪のために霊的な命を失いました。そのために、神とのコミュニケーションができなくなってしまいました。神のことが分からないのです。霊的ないのちがないからです。霊的ないのちがなければ、神のために生きることができません。霊的に死んだ人のすべてが道徳的にひどい生活をするというわけではありませんが、神のいのちに生かされていない人は、どんなに良いことをしたとしてもすべて自分が中心になって行い、決して神のためではないのです。自己達成はできてもその心が神に向かってきよめられ、神への愛を育てることができないのです。イエスはそんな人間にご自分のいのちを分け与え、再び生かすために、十字架に死に三日目に復活されたのです。聖霊はイエスの復活のいのちで私たちを生かしてくださるお方です。イエスが言われた「聖霊を受けよ。」ということばはやがて、ペンテコステの日に成就します。そのペンテコステの日に使徒ペテロが「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と説教したように、悔い改めて、イエス・キリストを信じるとき、このことは私たちのうちにも成就するのです。私たちは聖霊を受け、聖霊は私たちにイエスのいのちを、イエスの平安を与えてくださるのです。聖霊は私たちが神に平安を要求することのできるクレーム・チェックのような働きをなさいます。聖霊をいただいている者はすべて、イエスの与える平安を確信をもって求めることができ、そしてそれを受け取ることができるのです。
イエスが与える平安は、第三に、「罪の赦しからくる平安」です。神は「悪者どもには平安がない。」(イザヤ48:22、57:21)と言っておられます。その通りです。罪のあるところ、神との和解ができていないところには本物の平安はありません。平安のように見えたとしても、それはたんなる「安心」であり「気休め」に過ぎません。私たちが病気を恐れるのは、死が怖いからです。そして、死が怖いのは、やがて、ひとりで神の前に立たなければならないということを感じているからです。神の審判のとき私たちの学歴や業績、地位や財産などは神に受け入れられるのに何の役にも立ちません。神はつねに私たちの外面ではなく、内面を裁かれるからです。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」(マタイ7:22)と言ったとしても、罪ある者はだれひとり神の国に入ることはできません。私たちにとっての究極の不安、恐れは、聖なる神の前に立つということなのです。これははっきりと自覚していなくても、ぼんやりとしてであっても、ほとんどの人が感じていることです。
ですから、私たちに必要なのは「罪の赦し」です。赦しを願い求めるへりくだった心であり、その心を持った人に罪の赦しを与える権威です。イエスはそれを弟子たちに与えました。ガリラヤからイエスにつき従ってきた弟子たちの多くはもと漁師であり、その中には人々から嫌われていた取税人もいました。イエスは、そんな人々に「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)というとてつもない権威を授けたのです。自分に罪はないと言う高慢な人々は、弟子たちの語る福音に耳を傾けず、神が弟子たちに与えた権威に逆らいました。しかし、自分の罪を知り、神のことばに従って罪の赦しを願った人々は、弟子たちのところに来ました。へりくだる者たちは赦しを受け、本物の平安を得ました。どの人にも罪の赦しが必要です。イエスが「平安あれ。」と言われたその「平安」とは罪の赦しという究極の平安なのです。たんなる「安心」や「気休め」に頼ることなく、へりくだって、この究極の平安を求めようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたが聖書で約束しておられる平安はすべて、主イエスによって私たちに与えられます。主イエスは神と人との仲立ちとなり、和解となって、私たちのために平安を勝ち取ってくださいました。主イエスご自身が私たちの平安です。主イエスは「平安あれ。」と言って、私たちのうちに来てくださいます。この主を心に、人生に迎えます。主イエスとともに歩みます。私たちがへりくだって主イエスの平安を得、この平安によって問題に取り組み、この平安を多くの人々に分け与えることができるように導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
4/19/2009