2:12 その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。
2:13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
2:14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
2:15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
2:16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
2:17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。
一、イエスの怒り
ある人々は、イエスは、泣いたり、笑ったり、怒ったりなさらず、決して感情を現さないお方だと思っています。そして、クリスチャンもまた、どんなことがあっても取り乱すことなく、感情を押し殺し、とりすまして生きている人と思われていますが、これは大きな誤解です。聖書を知らない人がそう考えるのは避けられないとしても、クリスチャンまでも、同じように誤解しているとしたら残念です。聖書を読み、現実の生活を見れば、そうでないことはすぐわかります。聖書は私たちに「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12:15)と教えているわけですから、悲しい時に泣き、うれしいときに笑い、苦しい時に嘆き、理不尽なことに出会って怒るのは、人間として、クリスチャンとしてごく自然なことなのです。神の子であるイエスも泣いたり、笑ったり、怒ったりなさいました。イエスは友ラザロの死を目の当たりにして涙を流されました。また、イエスは、イエスの弟子となった人々が開いたパーティに出席され、それを楽しまれました。イエスに反対する人たちから「食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間」とののしられたほどです(マタイ11:19)。イエスのたとえ話にはユーモラスなものがたくさんあり、人々は、きっと大笑いしたことでしょう。聖書には喜びあふれて祈っておられるイエスの姿が描かれています(ルカ10:21)。
イエスが感情豊かなお方であることを見落としているのは、人々が、いつの間にか「神には、知性や意志はあるが、感情がない」という誤った神観を持つようになってしまったからではないかと思います。詩篇94:9に「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。」とありますが、人間に豊かな感情をお与えになった神が、感情を持っておられないわけがないのです。「聖書で神が喜怒哀楽を持つように描かれているのは『擬人的』表現である。」と言う人がいますが、そうではありません。神がまことの感情をお持ちになっており、人間は、神のかたちに造られた時、その感情の一部をいただいたのです。人が神に似た者、神になぞらえて造られたのであって、神が人になぞらえているのではないのです。神に感情が無ければ、神はどうやって私たちを愛してくださるというのでしょうか。もし、私たちが神の愛がわからないとしたら、それは神を単なる理論上のお方としてしか理解しておらず、私たちを愛し、私たちとのまじわりを喜んでくださる、生きておられるお方として認めていないからです。
今朝の個所は、「イエスの宮きよめ」と呼ばれるところですが、多くの人々は、この個所を読んで、イエスがお怒りになったことを不思議に思うのです。ここに登場するイエスは、腕まくりをし、鞭を振るい、両替の台をひっくり返して、商売人を睨みつけている、荒々しいイエスです。ある人は「イエスが、こんな乱暴なことをなさったのは、イエスらしくない。ご自分の教えに反する。」などと、批判さえします。まるで、イエスには怒る権利がないかのように言う人がいますが、イエスが、私たちと変わらない感情をお持ちになっておられたなら、イエスが怒られて当然ではないでしょうか。
最近の世の中は、頭に来ることが多く、怒りたいことが一杯ですが、怒りだけで、世の中が良くなるわけではありません。逆に、怒りによって自分自身も、まわりの人々をも傷つけてしまうことがあります。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブ1:20)とある通りです。確かに「怒り」という感情は、罪に結びつきやすいもので、聖書は「怒っても、罪を犯してはなりません。」(エペソ4:26)と言い、怒りを正しく処理することはクリスチャンにとって大切なことです。
聖書は、怒りを処理する方法のひとつとして、「神の怒りにまかせる」ことを教えています。神が怒ることをなさらないとしたら、「神の怒りにまかせなさい。」(ローマ12:19)との聖書の教えは無意味になってしまいます。人間の怒りは、私たちの判断を狂わせてしまうことがありますが、神の怒りは、正しい怒りであり、完全な正義に基づいています。イエスは完全なお方であり、イエスが持っておられた感情は、罪の影響を受けていない、純粋な感情でした。ここでのイエスは正しい怒りでした。この世の悪や不正義に対して、私たちが怒る前に、イエスは怒っておられるのです。
世界に悪がはびこっているのを見ると、私たちは、時として、神は、ほんとうに悪をお裁きになるのだろうかと思ってしまうことがあるのですが、ここで、イエスがお怒りになっておられるのを見て、神が、この世の悪を決して見過してはおられない、この世界に、かならず、正義や公平をもたらしてくださるのだということを確認することができます。私たちは、心に怒りを覚える時、私たちよりももっと悪を憂い、不正を憎んでおられるイエスが、すでに怒っておられることを知って、自分のちっぽけな怒りを神に明渡し、神の正しい怒りにおまかせしていきたく思います。
二、イエスの愛
この個所から、次に見ておきたいのは、イエスの愛です。実はイエスの怒りの背後には愛があるのです。よく怒る頑固な人ほど深い愛を持っていることがありますね。私たちが、私たちを理不尽に攻撃してくる人たちに対して怒りを覚えるのは、私たちが守るべきもの、愛すべきものを持っているからこそです。イエスが、神殿を商売の場所にしているのに我慢ができなかったのは、イエスがそれほどに神の家を愛しておられたからでした。
イエスが十二歳の時、はじめて神殿にのぼった時のことは、ルカの福音書にあり、皆さんもよくご存知でしょう。ユダヤでは十三歳になると成人とみなされ、ユダヤの成人はみな年に三度神殿に行くことになっていましたから、ヨセフ、マリヤは、イエスが成人になる前に、神殿で礼拝することを教えようとしたのでしょう。宮もうでが終わって、帰路についてから、ヨセフ、マリヤはイエスがいないことに気づきました。地方からの巡礼は団体旅行で、男女ふたつのグループに分かれて旅行していました。ですから、ヨセフのほうではイエスはマリヤと一緒にいるものと思い、マリヤのほうではヨセフと一緒、だと思いこんでいましたので、ふたりは、イエスがいないのに気がつかなかったのでした。ふたりが神殿に引き返してみると、イエスはそこにいたのです。その時、イエスは両親に「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)と言われましたね。これは、その時のヨセフ、マリヤには理解できないことばでしたが、イエスは、ご自分が神の子であるとの自覚をはっきりと持っておられ、この時から神殿をご自分の父、神の家として、特別に愛しておられたのです。イエスのなさった「宮きよめ」は、イエスの神への愛から出たものです。
また、「宮きよめ」は、イエスの神への愛と共に、神の民、イスラエルに対する愛から出たものです。私は、イエスの「宮きよめ」の個所を読むたびに、「さばきが神の家から始まる」(ペテロ第一4:17)というみことばを思い起こします。イエスは、やがて世界を裁かれるお方ですが、そのイエスはまず、神の家をさばかれたのです。しかし、このことは、イエスのイスラエルに対する愛を表わしています。もし、イエスがイスラエルをお見捨てになったのなら、イエスは神殿がどうなっていても、意に介さなかったでしょう。イエスは、神の民を愛するゆえに、神の民のシンボルである神殿が汚されていることに我慢ができなかったのです。イエスは、神の民がこの世のものに汚されず、本当の意味できよいものであることを願っていらっしゃったのです。イエスの振われた鞭は、神の民への愛の鞭でした。
神は、ご自分に近い者たちから、ご自分の愛する者たちから、懲らしめを与え、訓練し、きよめようとなさいます。だれも、懲らしめや訓練を好みませんが、神からの懲らしめ、訓練は、神の私たちへの大きな愛なのです。神からの警告や、懲らしめが無いのは、幸いなことではなく、もしかしたら、「神は彼らを良くない思いに引き渡された」(ローマ1:28)とあるように最も恐ろしい刑罰かもしれません。今、試練の中にある方々は、その中で神の愛を見失うことがないように、ヘブル人への手紙の次のみことばを心にとめましょう。「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』…霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:5-6, 10-11)
三、イエスの死と復活
「宮きよめ」の中に、イエスの怒りと愛を見ましたが、最後に、イエスの死と復活を見ておきましょう。
神殿から商売人を追い出したイエスに、ユダヤ人は詰め寄って言いました。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」すると、イエスは彼らが、びっくり仰天するようなことを言われました。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」この言葉は、ユダヤ人にはあまりにもショックなことばだったようで、イエスが十字架につけられる前、裁判の席で「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」(マタイ26:61)という証言が聞かれ、十字架にかけられたイエスを人々は「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)と言ってののしったほどです。「神殿をこわす」という言葉は、まったく聞き捨てならない言葉で、ユダヤ人はイエスを神殿破壊者と考えたのです。
しかし、事実は、逆でした。イエスは神殿を愛し、神殿を守ろうとしたのですが、ユダヤ人のほうがまことの神殿を破壊したのです。このことばの意味は、お分かりですね。まことの神殿とは、イエスのからだでした。神殿とは、神の住まい、神がそこにおられる場所のことです。そうなら、イエスのからだこそ、そこに神がおられる神殿でなくてなんでしょうか。「ことばは人となって、私たちの間に住まれた。」(1:14)とありましたね。イエスは、神がそこに宿られる神殿であって、神が私たちと共にいてくださることを、文字通り、身をもって現してくださったお方です。エルサレムにあった神殿は、イエスに比べれば、影であり、シンボルでしかなかったのです。
人々は、イエスを十字架につけ、まことの神殿を壊してしまいました。しかし、イエスは死んでしまわれただけの方ではありません。十字架の死から三日目に、死を打ち破って復活されました。イエスは、そのおことばどおり、神殿を三日で建て直されたのです。弟子たちは、イエスの復活の後このことばの意味を、悟りましたが、イエスは、その時のために、イエスは前もって、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と仰ったのです。
イエスの「宮きよめ」にはイエスの十字架と復活の預言が含まれていたのですが、イエスのからだが神殿であるというテーマは、実は、イエスの十字架と復活で終わらないのです。イエスは、復活から四十日して天にお帰りになりました。イエスは、復活のからだ、栄光のからだをもって天に帰られました。イエスのお体は、今、どこにあるのでしょう。天にですか?その通りです。しかし、同時に地上にも残していかれました。それは教会であり、教会は「キリストのからだ」と呼ばれています。教会につらなるクリスチャンひとりびとりも「聖霊の宮」です。イエスが「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」と言われたことばには、イエスの死と復活の上に建てられる、キリストのからだである教会も指し示されていたといって言い過ぎでありません。地上の神殿は、このときから四十年、紀元70年に完全に破壊されてしまいました。しかし、キリストのからだである教会は、迫害の中でも着実に建てあげられていったのです。
教会のかしらはキリストです。教会は、いろいろな困難にぶつかるでしょう。くずれそうにもなるでしょう。個々のクリスチャンも、さまざまな問題に悩むことがあり、倒れてしまいそうになるでしょう。しかし、キリストは言われます。「わたしは、それを建てよう。」今朝、この言葉を励ましとして、キリストのからだに建て上げられていく喜びを味あわせていただきましょう。
(祈り)
父なる神さま、イエスの宮きよめの記事の中に、あなたの大きな愛と、約束と、励ましを見出すことができ、感謝いたします。私たちが神の宮、聖霊の宮であり、あなたが私たちのうちに住んでいてくださることを、今一度覚えさせてください。私たちも、みずからを神の家の材料として、キリストのからだの器官としてささげます。私たちを、あなたの宮として、ゆるがない神の家として建てあげてください。神の家の礎、私たちのかしらであるキリストの御名で祈ります。
11/18/2001