ぶどう酒がなくなった時

ヨハネ2:1-12

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。―彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
2:12 その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。

 9月11日は、アメリカに住む者たちにとって、いいえ、世界中の人々にとって、忘れることのできない日となりました。ニューヨークとワシントンで、テロによって、一万人近い人々の命が、一瞬にして奪われたのです。きょうはそれからちょうど二ヶ月目、ニューヨークでは壊されたビルの片付けもままならず、遺体の収容もはかどっていません。炭阻菌による死者も出ました。アメリカ経済は下降の一途をたどっています。そのため仕事をなくした人々が大勢出てきています。アフガンでは、テロ集団に対する攻撃が続いています。このようなことが起ころうとは、誰も考えてもいなかったし、また、これからどうなっていくかも、誰にも分かりません。人々は不安のうちにサンクスギヴィングを、クリスマスを迎えようとしています。

 9月11日の出来事は、眠っていたクリスチャンには目覚まし時計のようなものでした。多くの人が、このことを機会に教会に帰ってくるようになりました。聖書の売上が、通常より40%も伸び、どの教会でも祈り会につどう人が増えているとのことです。もし、私たちがこの事件で目覚めないとしたら、いったいどんなことで目覚めればよいのでしょうか。私たちは、今、目覚めて祈らなければならない時を迎えています。しっかりとみことばを学び、わたしたちにゆるがない平安を与える神のことばを、この不安な時代に伝えていかなければなりません。9月11日の犠牲者とその家族を覚えて、9月14日には、特別な祈りの時を持ちました。しかし、あの時の祈りだけで終わっていいわけがありません。私たちは続けて、神のみこころを問い、賛美と感謝、悔い改めの伴った真実な祈りをささげていきたく思います。祈りのために共に集いましょう。クリスチャンが共に集う時、このことのために祈りましょう。アメリカは祈りによってここまで守られてきました。祈りには世界を救う力があります。祈りの答えをいただける時まで、心をあわせて、忍耐して、祈り続けましょう。

 一、無くなったぶどう酒

 今朝の聖書の箇所は、イエスが出席なさった婚宴でぶどう酒がきれてしまった時、イエスが水をぶどう酒に変えたという有名な箇所です。一週間も婚宴が行われた当時のユダヤでは、ぶどう酒をきらしてしまうということもあったのでしょう。今日のように電話一本で配達してもらう、24時間空いている店から買ってくるということができない時代ですから、宴会の世話役は、それはあわてたことでしょう。

 私は、ぶどう酒のなくなった婚宴というものを考えていた時、それは、今のアメリカのようだと思いました。今回のテロ事件と、その後のアメリカの状態は、婚宴の真っ最中にぶどう酒がきれたような状態に似ているように思えてなりません。アメリカは、他の国の景気が後退していく中で、づっと景気が落ちこむことなく、ここ十年ほど積極的な経済活動をしてきました。とくにシリコンバレーは好景気で、どの会社もどんどん事業を拡張してきました。今まで、アメリカは、富と豊かさという甘いぶどう酒に酔っていたのかもしれません。そしてどんなおいしいぶどう酒も、いつかは無くなるということを忘れていました。グラスに注がれたぶどう酒は飲んでしまえば空っぽになります。それはグラスの底から泉のようにわいてくるものではないのです。アメリカの景気にかげりが出てきた時に、この事件です。それは、ぶどう酒の樽に穴をあけられ、ぶどう酒が流れ出し、それが底をつき、どうしていいかわからず、右往左往してしまっているような状態なのかもしれません。

 ぶどう酒が切れてしまったような状態は、アメリカの経済ばかりでなく、私たちの人生の中でも、突然、起こることがあります。聖書は「ぶどう酒」を、「喜び」を表わすものとして使っていますが、人生から喜びが消え去ってしまうことがあるのです。婚宴の真っ只中でぶどう酒がきれてしまうというのは、結婚生活が、最初はぶどう酒のように甘い愛の喜びに酔っていても、やがてそれが冷めてきて、夫婦の間に深い溝ができ、離婚にまで至る、といったことの象徴かもしれません。結婚生活ばかりでなく、希望をもってアメリカにやってきたのに、とたんに主人がレイオフになり、外国でたちまち生活に困ってしまう、株を買って調子よく財産を増やしていったのに、株が下がって、一夜にしてホームレスになってしまう、また、子どもたちをのびのびと育てたいと思ってアメリカに来たのに、子どもがドラッグに手を出してジェイルに曳かれていくということもありえるのです。

 そんなに、深刻な結末にならなくても、やがてぶどう酒がにがくなってしまうこともあります。宴会の世話役は、イエスが与えたぶどう酒を味わって「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだ。」と言いましたが、この世が与えるものは、最初は甘いぶどう酒のようなものあっても、やがて苦い水に変わってしまうことが多いのです。事業に成功した人は、最初は、富や名誉を手に入れて、甘い喜びにひたっていられますが、事業を広げるために死にものぐるいの努力をしなければならず、事業に成功したことが、その人を苦しめることになることもあります。この世の成功が、人々に喜びを与えるのでなく、かえって苦痛を与え、悲しみを与えることもあるのです。エルビス・プレスリーがそうであったように、多くのミュージシャンは、トップチャートに留まりつづけるために、身も心も滅ぼしているのです。神から来る喜びでなければ、やがてぶどう酒がきれるように、なくなってしまうのです。名声や富を得て、人生の勝利者のように思われている多くの人が、実は、何の喜びもない、空っぽな人生を送っているということは、よく聞く話です。

 二、ぶどう酒を求める

 では、ぶどう酒がなくなったら、私たちの心から喜びが消え去ってしまったら、私たちの人生が渇ききってしまったら、どうしたらよいのでしょうか。まず、第一に、ぶどう酒がなくなった事実、喜びが消え去った事実を認めることです。母マリヤはイエスに「ぶどう酒がありません。」と話しましたね。自分をごまかさずに、無いものは「無い」と認めることから解決が生まれます。本当は喜びがないのに、懸命にうれしそうな「ふり」をすることほどつらいことはありません。心に満たされるものがないのに、いたずらに動き回っても疲れ果てるだけです。

 第二は、イエスに求めることです。この婚宴でぶどう酒がなくなった時、マリヤは誰にぶどう酒を求めましたか。イエスにですね。ところがイエスの答えは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」という一見、冷たいことばでした。これは、イエスが神の子の立場から、母マリヤに語ったことばです。イエスは、マリヤに、イエスを「わが子」として、ぶどう酒のことで何とかして欲しいと頼んだとしたら、それは間違いだよ、神のわざは、そのようなもので左右されるものでないと仰ろうとしたのでしょう。マリヤも、このことばを受け入れ、イエスを「わが子」として愛情をもって見るだけでなく、「わが主」として、仰ぎ見ていました。マリヤは母が子に何かを頼むという立場からでなく、イエスを信じ、イエスに従う弟子のひとりとして、主であるイエスに求めました。私たちもイエスをそのようなお方として、イエスに求めましょう。イエスを主として、イエスに求めましょう。

 第三に、マリヤは、イエスがかならず何かをしてくださると信じて求めました。ですから、マリヤは「わたしの時はまだ来ていません。」と言われても、その信仰はくじけませんでした。このことばは、イエスがご自分の主権を主張しておられることばです。現代は神の主権が忘れられやすい時代で、神が私たちの願うとおりに事をなさらないといって腹を立てる人が大勢います。神を主ではなく、しもべにしてしまっているのです。私たちは、神が、私たちの願いどおりのことをしてくださらない時でも、私たちに最善のことをしてくださると信じなければなりません。しかし、「神はみこころのままになさるのだ」からと言って、祈ることも、信じることも、待ち望むこともしないのも、間違っています。神は、主権者でみこころのままになさるのですが、同時に、不思議な仕方で、私たちの祈りや、信仰に応じて事をなしてくださるのです。神は、信仰を持ち、期待して待つものに、それに答えて、事をなしてくださるのです。ですから、マリヤは、このことばを聞いてあきらめたのでなく、むしろ、イエスがその主権を用いて何かをなさろうとしておられると感じたのです。ですから、彼女は手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」と言うことができたのです。

 神のみわざを見るためには信仰をもって待つことが大切ですね。私たちは、人生で苦しみの時には、とかく、不信仰になって、あたかもイエスがそこにおられないかのように感じてしまいがちです。しかし、実際はそうではありません。ぶどう酒がなくなってしまった婚宴に、イエスがおられたように、イエスは、私たちの苦しみの日にこそ、そこにいてくださるお方なのです。イエスは、私たちに呼びかけておられます。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」(イザヤ55:1)私たちもマリヤのように「ぶどう酒がありません。」と正直に現状を認めるものになりましょう。イエスを主と信じ、期待をもってイエスに求め、イエスから喜びのぶどう酒をいただこうではありませんか。

 三、新しいぶどう酒の味わい

 婚宴でぶどう酒が切れた時、イエスは、手伝いの者たちに、「水がめに水を満たしなさい。」と命じました。その家には大きな水がめが六つあったのですが、その六つとも、水がめの縁いっぱいまで水を満たしました。それが終わると、イエスはその水を汲んで宴会の世話役のところに持っていくように言います。世話役はぶどう酒がなくなってやきもきしているのに、そんなところに水を持っていったら「馬鹿にするな」と言われてしまいます。しかし、手伝いの者たちは言われるままに水を汲みました。するとどうでしょう。汲んだのは水のはずなのに、それは器の中でぶどう酒に、しかも、最高のぶどう酒に変わっているのです。これは、イエスがなさった最初の奇跡でした。婚宴の世話役は、このぶどう酒がどこから来たか知りませんでしたが、水を汲んだ者たちは知っていました。それは水がめから来たのです。なんでもないただの水から出来たのです。イエスのおことばどおりにした時に、水がぶどう酒になったのです。ですから、このぶどう酒は、どこから来たかという時、「イエスから来た」と言っていいのです。

 本来、すべての良いものは、神から来ます。この世界をつくり、そこに命あるものを生み出されたのは神です。確かに農夫はぶどうを植え、それを育て、ぶどうの収穫が終わるとそれを酒舟で踏んで、ぶどう酒を作ります。しかし、この地上に四季を与え、ぶどうを豊かに実らせ、それを味わい深いものにしてくださるのは神です。イエスは、水をぶどう酒に変えることによって、ご自分が天地を創造し、この地上に生命を生み出された神であることをお示しになったのです。

 「ぶどう」は神の民、イスラエルを象徴する果物でした。イエスが味気のないただの水をぶどう酒に変えられたのは、イエスが、神を信じる者の人生を、豊かに祝福してくださるということを表わしています。多くの人が、イエスを信じ、イエスのおことばに従って、イエスのくださる、新しいぶどう酒、豊かな人生の喜びを体験しています。ビル・ジョーンズ氏といえばアメリカ有数の印刷会社の社長だった人ですが、かって、日本に行って、こんな証しをしたことがあります。「私は、事業の成功に酔っていた頃、家内との関係が悪化し、離婚寸前にまで追いつめられていました。そうです、自分の人生も家庭も、もうこれでおしまいだと思っていたそんな頃、私はキリストの福音に接したのです。私は自分のみじめな状態を率直に主に告白しました。すると主は、人間的な愛に破綻していた私の心に、聖なる神の愛、敵をも愛する十字架の愛を注いでくださいました。そして私の家庭を、破壊寸前から救ってくださいました。主はたしかに、生きておられる救い主です。」地上のぶどう酒がなくなった時、多くの人はそこで絶望してしまいます。しかし、神を知るものはそこからスタートします。つきることのない天のぶどう酒を求めるのです。苦い水のようになった人生も、再び、味わい深いもの、命のあふれる、豊かなものとなるのです。

 これは今から百年ほど前の話ですが、犯罪を犯して四年間も刑務所にいた男がノルウェーにいました。ところが、彼は刑務所の中で導かれてクリスチャンになりました。彼の生活は誰もが驚くほど変わりました。出所後、彼はドイツに渡って神学校で学び、宣教師となってインドに行きました。神は彼に特別な語学の賜物をお与えになり、彼は32か国語を自由に話せるようになり、インドで文字の無い民族のことばを文字に表わし、文法書を作るなどして、大きな貢献をしました。この人が、サンタール伝道会の創始者スクレフルードです。イエスは、刑務所に服役していた囚人でさえ、多くの人に救いをもたらす宣教師につくり変えてくださるお方なのです。水をぶどう酒にかえる奇跡は、多くの人の人生に今も続いています。同じ主イエスが、あなたの生涯に働いていてくださるのです。この世が与えるものが無くなった時こそ、さらにすぐれた神の恵みを味わう時です。この時こそ、天来のぶどう酒を求め、それを味わうものとなりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、9月11日から二ヶ月がたちました。まだまだ人々の傷は癒えず、世界は困難に直面しています。この期間、私たちは祈りの中に時を過ごし、いままであたりまえだと思っていた平和や安全が、あなたからの大きな賜物であったことに気づきました。当然のように楽しんでいた自由や豊かさが、あなたからの特別な贈り物であったことを教えられました。私たちに、ぶどう酒がきれてしまったことを認めさせてください。そしてマリヤのように信仰をもって、あなたにぶどう酒を求めさせてください。水を汲んだしもべたちのように、あなたのおことばに従うことによって、天来のぶどう酒が、あなたから来ることを知ることができるようにしてください。今も、罪人を聖徒に変えるという、水をぶどう酒に変えることにまさる奇跡をなしてくださる、主イエス・キリストの御名で祈ります。

11/11/2001