ひとつとなるため

ヨハネ17:20-23

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17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 四十日のレントの期間もあとわずかとなりました。来週はもうパームサンデーで、受難週、聖週間に入ります。レントの期間、礼拝では、主イエスが、十字架に向かわれる前に弟子たちのために祈られた祈りを学んでまいりましたが、この学びも、あと一回を残すだけになりました。皆さんは、ヨハネ17章の祈りから、どのようなことを教えられたでしょうか。私は、この祈りを通して、主イエスの弟子たちへの深い愛を感じることができました。ヨハネ13:1に「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあるように、主イエスは、弟子たちを愛し通されました。主は、ご自分がこれから受けようとしている苦しみのことよりも、世を去った後の弟子たちのことを心配し、そのために心を込めて祈ってくださったのです。この祈りの後、イエスはゲツセマネの園に行き、そこで再び祈りました。主は、弟子たちにも祈りをともにしてもらいと思ったのですが、弟子たちは、イエスをひとり置いて眠ってしまいました。イエスは、弟子たちに「目を覚まして、誘惑に陥らないよう、祈っていなさい。」と言われましたが、弟子たちは、肝心な時に祈ることができなかったのです。そのため、我こそは一番弟子だと自負していたペテロは、人々を恐れて「イエスなどと言う人は知らない。」と言って、主を否定してしまいました。しかし、そんなペテロも、その失敗から立ち直って、大胆にイエスの復活を宣べ伝えるようになりますが、ペテロを立ち直らせたのは、何だったでしょうか。それは主イエスの祈りです。主イエスは、ペテロが主を否定するだろうと予告しましたが、その時、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言ってくださっていました。もちろん、ペテロも涙の祈り、悔い改めの祈りをしたことでしょうが、主イエスがペテロのために祈ってくださった祈りによって、ペテロは立ち直ることができたのです。弟子たちは、主イエスが最も大きな苦しみに直面している時に、イエスと共に祈る、イエスのために祈ることをしなかったのに、イエスは弟子たちのために祈り続けてくださっていたのです。イエスの祈り、弟子たちのための祈りが弟子たちを支えたのです。同じ主が、今も、私たちのために祈っていてくださいます。主イエスが祈ってくださっている、そのことに励まされて、私たちもまた、もっともっと祈るものとなりましょう。祈りは、単に心の中で念じるとか、手を合わせて何かの願いごとをするという以上のものです。それは、私たちの思いを言葉に出して神に語りかけることであり、具体的に、熱心に、そして時間をかけてするものです。そこから祈ることの素晴らしさが分かり、主にあって共に祈ることの喜びが生まれ、祈りの力を体験することができます。祈りの力や喜びが自分のものとなるまで、祈り続けていこうではありませんか。

 一、一致の性質

 主は、弟子たちのためにいくつかのことを祈ってくださいましたが、今朝の箇所では弟子たちが一つとなるようにと祈ってくださっています。

 「一つになる。」それは、クリスチャンの一致を表わしていますが、その一致とは、どんな一致でしょうか。「一致する」「団結する」といっても、いろんな一致のしかた、団結の形があります。戦前に育った方々は、一致、団結というと、戦争に勝つために、お国のために一つになるということを思い起こすかもしれません。それは、権力によって無理やり作られた一致で、心からのものではありませんでした。戦後に育った人たちは、一致、団結というと組合運動を連想するかもしれません。労働団体が大きな組織を作って、給料や待遇の改善を経営者側に要求するのですが、そこでの一致、団結は利害関係に基づいたもので、人と人との深いつながりによるものではありません。政治の世界や企業の世界での一致、団結はたいていの場合は、利害関係によるもので、つながったり、離れたり、あちらについたり、こちらについたりというものです。

 しかし、イエスが、弟子たちのために祈ってくださった一致は、外側からの強制による一致や利害関係による一致ではありません。神が、クリスチャンに与えてくださった一致は、もっと霊的なもの、信仰的なものです。主イエスは、21節で「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。」と言い、22節で、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」と言っておられます。クリスチャンの一致は、父なる神と主イエスの間にある一致と同じであるというのです。では、父なる神と主イエスの間にある一致とはどんな一致でしょうか。それは、まずなによりも、愛の一致でした。父は御子を愛し、御子は父を愛しておられます。次にそれは、こころざしの一致でした。父はこの世を愛し、この世を救おうとされました。御子は父なる神のおこころを実行するために、この世に来られ、その命さえも投げ出されたのです。クリスチャンの一致も、父と御子の間にある一致と同じで、神を愛する愛、互いに愛する愛、人々を愛する愛によって結びあわされ、神とキリストから託された使命を果たすためにこころざしを一つにしているのです。使徒パウロはピリピの手紙で「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」(ピリピ2:2)と言っていますが、キリストによって与えられた愛とこころざしの一致がクリスチャンの一致です。

 二、一致の保持

 クリスチャンの一致は、人間の努力で作り出すものではなく、それは、すでに神によって与えられているものです。父と父から生まれた御子の間に一致があるように、ひとりの父なる神から生まれた神の子たちの間には、おのずと一致があるのです。聖書は「一致を生み出せ。」とは教えていません。むしろ、「一致を保ちなさい。」と教えています。一致は、すでに与えられているのですが、一致を壊そうとする力も働いています。ですから、一致を壊そうとするものを斥けて、一致を守る努力が私たちには必要なのです。主イエスは、弟子たちが、一致を壊そうとするものに直面することをご存知で、クリスチャンの一致のために祈ってくださったのです。

 では、何がクリスチャンの一致を壊すのでしょうか。それは外からやってくるのでしょうか。それとも内側から起こって来るのでしょうか。初代教会は外側からは、迫害によって苦しめられ、内側からは間違った教えに悩まされました。初代教会への迫害は、最初はユダヤ人から、次にはローマ帝国からのもので、それは理不尽で、すさまじいものでした。しかし、クリスチャンは迫害されればされるほど、一致し、団結していきました。外からの迫害は、クリスチャンの一致を損ないませんでした。一致を損なったのは、内側から起こった、誤った教えでした。ユダヤ主義や、ギリシャ哲学のひとつであるグノーシス主義が教会の中に入ってきて、クリスチャンの一致を壊していきました。それらは、神の言葉からキリストの十字架を取り除いたり、哲学や、民間の言い伝えなどを付け加えようとするものでした。そして、誤った教えが入って来たところには、必ずと言っていいほど、人間的な誇りや競争心、偏見や狭い心も入ってきて、それらが一致を妨げたのです。残念ながら、初代教会を悩ませた誤った教えは、姿を変えて現代にいたるまで続いており、今も教会の一致を損なおうとしています。ですから私たちは目を覚まして祈っていなければなりません。

 主イエスは「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(20節)と祈られました。これは、最初の弟子から次の弟子、次の弟子からその次の次の弟子へと、神のことばが伝えられていっても、神のことばが決して曲げられず、薄められずに、すべての世代のクリスチャンが、真理において一致していくようにとの祈りでもありました。初代教会や、宗教改革時代の教会と、21世紀の教会ではまったく環境が違います。しかし、21世紀に生きる私たちも、初代教会の歴史を学び、宗教改革の出来事を聞く時、不思議に心が燃やされ、初代のクリスチャンや宗教改革を戦った人々と、おのずと同じ思いが与えられるのです。時代が変わっても変わらない一つの真理を守り、一つの信仰に結びあわされ、真理と信仰のための一つの戦いを戦っていく、そんな一致を私たちは守り抜いていきたいものです。

 三、一致の目的

 主は、私たちのために一致を祈ってくださいました。それは、この世の表面的な一致ではなく、愛とこころざしにおける一致でした。この一致を与えられたクリスチャンは、それを真理と信仰によって守っていくよう、求められています。キリストは、クリスチャンがこの一致を保つことができるようにと、祈ってくださいましたが、クリスチャンが一致を保つのは、いったい何のためでしょうか。

 主イエスは、このことについてこう言っておられます。「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(21節)「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(23節)イエスのおこころの中には、ご自分の弟子たちへの深い思いやりがありました。教会への愛がありました。しかし、それだけではなく、弟子たちを苦しめ、教会を迫害するであろう「この世」に対する愛の思いもありました。今は神を知らず、救い主を受け入れず、クリスチャンたちを苦しめている世の人々も、やがて、イエスがキリストであることを知るようにと、主は願い、そうした人々のために祈っておられるのです。主は、なんと大きな愛をもっておられたことでしょうか。キリストのこのこころを知る者は、自分たちに与えられたキリストとのまじわり、互いの一致を喜び楽しむだけでなく、より多くの人々がこの一致の中に入って来るようにとの祈りに導かれていきます。

 今日は、主のご受難を覚えて聖餐を守りますが、聖餐はイエスはキリストであると信じ、主であると告白して、バプテスマ(洗礼)を受けた人々によって守り行われます。聖餐は、それ以外の人々を受け入れない、いわば「閉じられた」儀式です。聖餐によって、クリスチャンは、神に赦され、受け入れられ、愛されていることを確認し、キリストの恵みを味わいます。それは、クリスチャンに与えらた特権です。しかし、聖餐は、クリスチャンがその特権を味わうためだけのものではありません。聖餐の守り方を定めたコリント第一11:26は「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と教えています。「主の死を告げ知らせる」とありますが、誰に向かって告げ知らせるのでしょうか。キリストがなぜ十字架で死なれたのか、まだ、そのことを知らない、この世の人々にむかってです。聖餐は、聖餐にあずかった者たちが、そこからこの世に出て行って、人々に救いのメッセージを語り伝えるためのものであると言うのです。クリスチャンは、信仰によって一つの輪を作っています。しかし、それは誰をもそこに入ってこさせない狭い輪ではありません。キリストの救いを求める人々を取り込んでいく大きな輪、開かれた輪です。ほとんどの教会で、聖餐式は、まだクリスチャンでない人もいる礼拝で行なわれます。まだクリスチャンでない方々に、キリストの死を告げ知らせ、キリストとの交わりの中に入り、クリスチャンの一致の中に加わって欲しいという願いをもうって、そうしているのです。

 主は、この世の罪深さをご存知でした。主は、クリスチャンに、この世から聖別されなさいと言われ、神は、クリスチャンに「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」(ヨハネ第一2:15)と命じておられますが、同時に、神は「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)のです。この世は、キリストを斥け、キリストを十字架の死に追いやり、キリストに従う者たちを苦しめました。しかし、神はまったく世を斥けることをせず「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ」(テモテ第一2:4)ます。今は、神に敵対していても、キリストに無関心であっても、やがてキリストを信じるようになる人々のために、キリストは祈り、そのために、クリスチャンが一つになって、キリストをあかしするよう求めておられます。私たちも、私たちの、配偶者や子どもたち、また、まわりの人々を、「やがてキリストを信じるようになる人々」として愛し、その救いのためにさらに祈りに励んでいこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、キリストを信じる者を一つにしてくださいました。自分たちの属するところを見出せないでいる多くの人々の中で、私たちは、神の家族に属し、天に国籍を持ち、キリストのものとされていることを、喜び、楽しんでいます。主が私たちの一致のために祈られたように、私たちも、この一致が保たれ、成長するよう、祈ります。主が、将来、この交わりの中に加えられる人々のために祈られたように、私たちも、さらに多くの人々が私たちの交わりの中に入ってこられるよう祈ります。私たちから一致を妨げるものを取り除き、私たちの一致によって、あなたの愛を、キリストの救いを、さらに力強くあかししていくことができるよう、助けてください。私たちのために祈っていてくださる主イエス・キリストのお名前で、この祈りをささげます。

3/28/2004