17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
今年二月からバプテスマの準備会をはじめましたが、それも一応終わり、後はイースターのバプテスマ式を待つばかりとなりました。私も、今から40年前のイースターにバプテスマを受けたのですが、やはり、牧師からバプテスマの準備会をしていただきました。その時のテキストブックの中に「聖別」という章があって、その章のはじめに、「聖別は聖書のなかで明らかに述べられている教義である。しかしこの教義ほど、誤解されかつ、間違って述べられているものはない。この理由からこれは特に強調される必要がある。」と書かれていました。「聖別」について十分に理解できたわけではありませんでしたが、バプテスマを受ける前に「聖別」ということを学んでおけたのは、とても役に立ちました。私にとって、バプテスマを受けてからの信仰生活は、「聖別」ということの意味を捜し求めるものだったように思います。私自身、「聖別」ということを完全に理解しているわけではなく、それを追い求めている者ですが、この大切な主題について、聖書が教えていることを、しっかりとお伝えしたいと願っています。
一、聖別の根拠
私が学んだテキストに「聖別の教えほど誤解されやすいものはない。」とありましたが、聖別についての誤解のひとつは、「クリスチャンは、自分の努力で自分を聖別しなければならない。」というものだろうと思います。「聖別」とは、「聖め、別ける」と書きますが、それはまず、神がしてくださることで、人間は自分の力で自分を「聖め、別ける」ことはできないのです。そして、神は、キリストを信じる者をすでに「聖め、別け」ていてくださるのです。主イエスは弟子たちについて「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」(16節)と言っておられました。キリストを信じる者は、聖書では「弟子」と呼ばれる他は、ほとんどのところで「聖徒」、つまり聖別された者と呼ばれています。
テモテの手紙第二2:20に「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。」とあります。ここでいう「器」とは人間のことをさしています。金や銀の器のほうが、木や土の器よりも高価です。しかし、パウロは、「ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。」と言って、器そのものよりも、それがどう用いられるかが大切だと言っています。金や銀の器であっても、それで酒をくみかわし、酔っ払って不道徳なことをするために用いられるとしたら、それは卑しいものとなり、木や土の器でも、貧しい人に分け与える食べ物を持ち運ぶために使われるなら、それは尊いことに用いられることになるのです。同じように、どんなに優れた人でも、その優れた能力を悪事に用いたなら、その人は卑しいものとなり、わずかな能力であっても、神を愛し、人を愛するために、その能力を精いっぱい使うなら、その人は尊いものとなるのです。聖別は、人の目から見て特別優れたものになるということではありません。たとえ、土の器のようであっても、その中にあった古いものをすべて捨てて、水で洗われ、火にかけられてきよめられるなら、神のために用いられるのです。土の器であればこそ、神の力や栄光がもっと現れると、聖書は言っています。聖別とは特別優れた人間になって人から誉められることではなく、その人のうちにある神の恵みを見て、人々が神をあがめることなのです。人には確かに能力の差はあります。しかし、それが人間の優劣を決めるわけではありません。頭のいい人が優れている、身体の強い人が優れている、財産のある人が優れているなどというのは、人間が勝手に作った基準にすぎません。すべての人が神によって等しく価値あるものとして造られているのです。「聖別」とは、特別すぐれたものになることではなく、神が、あるがままの私たちを、神の恵みと栄光を表わすためによりわけてくださることなのです。
テレビ「みえますか、愛」でお話した福井達雨先生のお母さんのことですが、福井先生はお母さんは、福井先生が高校生の時に亡くなりました。その三日前に、福井先生に「おまえは弱虫やから、偉い人にはなれんやろ。そやけど偉い人にならんでもええから、立派な人間になってほしい。それから、聖書のことばやけど、目に見えるものより、目にみえんもんをしっかり見て生きていきや。」と言い残したそうです。福井先生のお母さんが言った「立派な人間」というのは、見えない人間の価値を大切にすることができる人という意味だったのです。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(コリント第二4:18)との聖書のことばは、福井先生のその後の生涯を導くものとなり、福井先生は、重い知恵遅れの人たちが持っている、ほんとうの人間らしさを見つめ続け、それを失っている多くの人々に、警鐘を鳴らし続けてきたのです。私たちは、とかく目に見えるものに惑わされやすいものです。自分の目で見て判断したことがすべて正しいと思いこみがちです。ですから、心して、目に見えないものを、信仰の目で見るよう努力しましょう。神が私たちを選び、神のために生きるものとして聖別していてくださる、これは、人の目に見えるものでも、人の目に評価されるものでもありません。しかし、クリスチャンは信仰によって、そのことを見つめて生きるのです。そこに、私たちの聖別の根拠、あるいは聖別に生きる人生の出発点があるのです。
二、聖別の目的
聖別についての次の誤解は、「聖別とは、世間離れした生活をすることだ。」というものでしょう。「世の中は汚れている。だから、クリスチャンは世の中から一歩も二歩もしりぞいた生活をしなければならない。」というのです。確かに、聖書は、クリスチャンはこの世に没頭した生活をしてはいけないと教えています。コリント第一7:29-7:1には、「兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」とあります。また、コリント第二6:14-18には「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。』汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」とあります。しかし、聖書に「妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。」とあるのは、離婚しなさいとか、別居しなさいということではありませんね。初代教会に迫っている迫害のことを思って、身を引き締めなさいと言っているのです。クリスチャンは神の民、天国を目指す旅人なのだから、この世のことに夢中になって天国のことを忘れてはならないと教えているのです。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」というのも、世の人々の誰とも交わってはいけないと言っているわけではありません。主イエスはそんなことはなさらなかったし、こう教えた使徒パウロも、そのようにはしませんでした。主イエスは、すすんで罪人の友となりました。使徒パウロは、「ユダヤ人にはユダヤ人のように…律法を持たない人々に対しては、…律法を持たない者のように…弱い人々には、弱い者に…すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(コリント第一9:20-22)と言っいます。どんな人のところにも、彼のほうから、進んで手を差し伸ばしたのです。この箇所は、神を信じる者たちが、この世の悪事と手を組んだり、偶像礼拝に荷担することがないようという戒めです。もし、この世の人といっさい交際しないということなら、パウロ自身が言っているように、「この世界から出て行かなければならな」(コリント第一5:10)くなるでしょう。悪は避けなければなりません。誘惑から遠ざかるべきです。しかし、それは、神を信じる者たちが、自分たちだけの世界に閉じこもることを意味しているのではありません。クリスチャンはこの世から出て行くのでなく、もっと積極的に、使命を持ってこの世に出ていくのです。
そのことを、主イエスは、「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」ということばで表わしました。「あなたがわたしを世に遣わされたように」とありますが、父なる神は、そのひとり子をどのように世に遣わされたでしょうか。御子は、父なる神と等しい栄光を持っておられたのに、人間とまったく変わらない姿で地上に生まれてくださいました。それは、人間の持っているもろさや弱さ、そして数々の悩みや苦しみを共有するためでした。ですから、クリスチャンが世に遣わされているというのは、クリスチャンが人々とかけ離れたところに逃れているのでなく、もっと積極的に、人々と苦しみや悩みを共にし、クリスチャンの持っている希望と救いを分かちあうためなのです。
ヤコブの手紙1:27に「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」とありますが、このことばは、クリスチャンの世に対する立場をよく言い表わしていると思います。クリスチャンは、世の汚れに染まることを避けながら、積極的に世に出て行きキリストをあかしするのです。教会は世という海に浮かぶ船のようなものです。船は陸にあっても役にたちません。海の真中に進み出てこそ役に立つのです。そのように教会は、そして、クリスチャンは、この世という大海原に進み出なければなりません。しかし、船の中に水が入ってきたら、どうでしょう。船は沈みます。船は水の中入っていかなければなりませんが、水は船の中に入ってきてはならないのです。同じようにクリスチャンはこの世に生きていますし、この世の中に入っていきます。そこに遣わされているからです。しかし、教会やクリスチャンの中に世が入ってきてはならないのです。もしそうなったら、船のようにこの世の中に沈みこみ、何の役にも立たなくなってしまいます。自分たちが世からとりだされたことをしっかり覚えながら、世に遣わされていく、遣わされたものとしての使命に生きる、これが聖別です。
三、聖別の手段
聖別についての第三の誤解は、聖別されるには、「特別な体験をしなければならない」というものです。ある人は、断食をしたり、徹夜の祈りをしたり、あるいは、罪を洗いざらい告白して悔い改めなければならないと言います。別の人は、あのカンファレンスに行けば良い、この先生に祈ってもらえば良いと言います。さらには、「何もしなくていいのだ。ただひたすらに聖霊の火が下るのを待てばいいのだ。」と言いう人もいます。実際、そう主張する人たちが集まりをする時には、集会場の外に、聖霊が下るのをじっと待つための椅子がたくさん置かれ、人々はそこでじっとしており、聖霊が下ると、そこから飛び上がって集会場に飛び込んでくるというようなことも、過去にはありました。私はそれぞれの体験は、その人にとって真実なものだったと思います。しかし、その人がした体験がすべての人に当てはまるとは思いません。神は、ひとりびとりに異なった方法で働かれるのです。特殊な体験を、聖別そのものの体験と同一視してはなりません。それらは、聖別の体験へと導く手段にすぎません。聖別にいたる手段と、聖別そのものとを混同してはなりません。そして、どんな場合でも大切なのは、聖書に基づいた信仰です。私たちは、体験から信仰へと導かれなければなりませんし、また信仰から体験へと導かれなければなりません。体験のない信仰はもしかしたら知的な理解だけで終わってしまっているかもしれませんし、また、聖書に基づいた信仰に導くことのない体験は、一時的なもので終わってしまいます。
神は、私たちを信仰に導くのに、さまざまな特別な手段をお用いになりますが、神がすべての人に共通して与えられた手段は、聖書、祈り、またバプテスマ(洗礼)や聖餐です。これらは、神学の言葉で「恵みの手段」と呼ばれてきました。聖別を理解し、それが、自分のものとするために必要なのは、なによりも信仰です。神は私たちをきよいものにしたいと願っておられ、そしてきよめることがおできになる、それを信じるのが信仰で、その信仰から、きよめられることを願う祈りが出てきます。神のみこころと、私たちの願いとが出会う時、信仰を通して、神の力が私たちのうちに働くのです。クリスチャンはすでに聖別されています。しかし、それで終わりでしょうか。いいえ、この世の誘惑の中で、それに打ち勝って生きていくため、また、この世に遣わされて使命を果たしていくためには、聖別されつづける必要があるのです。
しかし、聖別を信じ、それを願う信仰はどこから来るのでしょうか。聖書は「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)と教えています。主イエスが「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17)と言われたように神のことばが、私たちをきよめるのです。「教会はキリストの花嫁である。」ということを学んだ時、エペソ5:26を開きました。そこには「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためである。」とあって、キリストは、みことばにより、教会をきよめてくださるとありました。聖書が神のことばとして語られ、神のことばとして聞かれる時、そこにきよめが起こり、それを理解し、体験し、そして成長させていくことができるのです。
みなさんは、「ケズイック・コンベンション」をご存知でしょうか。英国の美しい湖水地方にあるケズイックという町で行われている、クリスチャンのための集会で、毎年、世界各地から7、8千人もの参加者が集まります。1875年から、2回の世界大戦で6回休会したほかは、今日まで125年以上もずっと続いている伝統のあるもので、ケズイック・コンベンションによって、多くの人々は聖別、あるいはきよめを理解し、体験し、実践してきました。そこでは人々の心を掻き立てるような音楽があるわけでまなく、有無を言わせず神に従わせるような説得的なメッセージがあるわけでもありません。そこでは、聖書がひもとかれ、それが諄々と説かれていくだけなのですが、しかし、実は、ここにケズイックの秘密があるのです。ケズイックでは聖書が常に聖書全体の文脈の中で、まっすぐに語られます。神のことばが神のことばとして語られ、聞かれるのです。その結果、聖霊が働き、人々が信仰によって、聖別の道を歩みはじめて行くのです。
神が、私たちをみことばによって聖別してくださるのなら、私たちにとって一番大切なことは、みことばに聞く時を聖別することではないでしょうか。日ごとの祈りの時間を大切にしましょう。週ごとの礼拝の日を聖別しましょう。「一日の15分が人を変え、一週のうち一時間が人生を変える。」と言われますが、それは本当です。特別な体験を求める前に、ここで、この場で神のことばに真剣に耳を傾け、聞いた神のことばにに応答していきましょう。神はみことばによって私たちをきよめ、わたしたちは、みことばの与える信仰によってそれを受け入れ、実践へと導かれるのです。
(祈り)
父なる神さま。あなたは、キリストを信じる者を、この世から取り出してあなたのものとしてくださいました。クリスチャンはキリストに属する者、天に国籍を持つもの、あなたのために聖別されたものです。ここに聖別の根拠があります。そして、クリスチャンが聖別されたのは、この世に遣わされて、あなたの愛と恵みをあかしし、キリストの救いを告げ知らせるためでした。これが聖別の目的でした。そしてあなたは、あなたのみことばによって聖別されたものをさらに聖別し続けてくださいます。みことばは聖別の手段です。聖別の根拠、目的、手段の三つを心にとめ、聖別された人生を送る私たちとしてください。ご自身を聖別し、その命さえもささげてくださったキリストのお名前によって祈ります。
3/21/2004