祈りの奉仕

ヨハネ17:14-21

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17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。
17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。

 一、祈りの力

 ある宣教師が宣教報告会をしました。多くの人がアッピールにこたえ、宣教の働きのために献金の約束をしました。ある人たちは宣教地に行って手伝いたいと申し出たほどです。その宣教報告会はとても活気にあふれた集まりになりました。集まりが終わって、みんながその宣教師と握手をするため列に並びました。ひとりの高齢の女性の番になったとき、彼女は言いました。「私はこんな年齢になって、今は息子の世話になっている身です。経済的なサポートや実際的なことは何一つできなくなりました。祈ることしかできません。申し訳けありません。」それに対して宣教師は「祈ることしかできませんなどと言わないでください。私がいちばん必要としているのは、あなたの祈りなのです」と答えました。人々がアッピールにこたえたのが、外国の珍しい話を聞いて一時的な興奮を覚えたからで、そこに、キリストの福音やたましいの救いのために祈る祈りが乏しかったことを、その宣教師はすでに感じとっていました。それで、その宣教師は、本気で祈ってくれる人を見つけて、喜び、感謝したのです。

 私たちも「祈ることしかできません」と言うのでなく、「祈ることができます」と言うようにしましょう。祈りには力があるからです。クリスチャンが「祈っているだけじゃだめだ」などというのも適切なことばではありません。より多く、より深く祈るなら、それは必ず結果をもたらすからです。使徒1:14に「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた」とあります。教会が誕生する前の姿です。教会は、百二十名の人々が九日の間祈りに専念した結果誕生しました。もちろん教会は聖霊によって生み出されたのですが、同時に、祈りによって誕生したと言っても良いでしょう。使徒2:42には「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。初代教会は祈る教会でした。使徒たちが「私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」(使徒6:6)と言ったように、教会ではなによりも祈りが大切にされました。使徒ペテロが投獄され処刑されようとしたとき、教会は何をしたでしょうか。助命嘆願活動でも、監獄襲撃計画でもありませんでした。それは教会あげての祈りでした。使徒12:5は「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」と言っています。そして、その祈りの結果については、皆さんもよくご存知の通りです。教会はいつの時代も「祈りの家」でしたし、今もそうなのです。

 使徒パウロはエペソ6:18-19で「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください」と、人々に祈りを要請しています。宣教師であったパウロは、宣教の力が祈りから来ることを知っていました。パウロはピリピ1:19に「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです」と書いています。「祈ることしか…」とか、「祈っているだけでは…」ということばを聞いたら、パウロも、きっと、「私はあなたの祈りが必要なのです。祈りはあらゆるものに勝る力です」と言ったに違いありません。

 祈りは、誰でもできる奉仕です。ちいさいこどもでも、神の働きのために祈ることができます。高齢になっていろんなことができなくなっても、また、健康を損ねて、ベッドに横たわるようになっても、祈ることはできます。さまざまな困難な中でも、「祈っています」と言って、ほんとうに祈り続けてくださっさた多くの方々の祈りに、私は支えられ、今も支えられています。皆さんもそうだと思います。

 働き盛りの人たちから「忙しくてあまり祈ることができない」という声を聞きます。しかし、その「忙しさ」は、やむを得ない忙しさなのか、不必要に自分を忙しくしていないかと考えてみる必要があると思います。しなくても良いこと、やめても差し支えのないことがありはしないでしょうか。米粒の入ったカップに後からゴルフボールを押し込もうとすると、米粒がこぼれてしまします。けれども、最初にゴルフボールをカップに入れ、あとから米粒を入れれば、ゴルフボールも米粒もちゃんとカップに収まります。第一にすべきものを第一にすれば、その他のこともうまく行くのです。まず祈りの時間を確保しましょう。一週間のスケジュールで礼拝と祈り会を最優先させましょう。そうすれば、残りの時間がもっと生きてくることでしょう。

 二、祈りの内容

 では、私たちが祈りの奉仕をするとき、どんなことを祈れば良いのでしょうか。とりなしの祈りをささげるとき、どんなことに思いを向ければ良いのでしょうか。さいわいなことに、聖書には、イエスご自身が祈られたとりなしの祈りが記録されています。ヨハネ17章にある祈りです。この祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれています。イエスが、あわれみ深い大祭司となって、弟子たちのためにとりなし祈られた祈りだからです。これは、イエスが十字架に向かわれる前の祈りですが、十字架を通り、復活を経て、父なる神の右に座っておられる今も、イエスはこの祈りを祈っていてくださいます。イエス・キリストに結ばれた信仰者たちは、だれもが、祭司として、他の人のためにとりなし祈る務めに召されています。小さな祭司たちである私たちは、何をするにも、大祭司であるイエスに倣えば良いのですが、とりなしの祈りにおいてもそうです。主イエスが祈られ、今も祈っていてくださるとりなしの祈りから学び、それに倣いたいと思います。

 今朝の箇所でイエスは弟子たちのために、三つのことを祈られました。第一は「守り」、第二は「きよめ」、そして第三が「一致」です。

 14-15節は、イエスが弟子たちの「守り」を祈っておられるところです。こうあります。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」ここでは「世」というのは、神から離れ、神に敵対している世界を表わしています。神は世界を愛に満ち、いのちに満ちた素晴らしいところとして造られたのに、人間が、その罪によって、この世界を互いに憎しみあい、奪い合い、殺しあうところにしてしまったのです。神の御子であるイエスは、そんな世界を救うために神のもとから来られたのに、この世は神の御子を憎み、斥け、十字架で殺してしまいました。「世」は神に敵対し、キリストを憎んだのですから、神を信じる者、キリストに従う者たちもまた、この世から憎まれ、苦しめられるのです。それは、初代教会だけのことではありません。今も、多くの国々で、キリスト者が迫害されています。曲がった生活をしている人たちは正しい生活をしている人を嫌うのです。最近もアフリカで教会が襲撃され、何人もの人が命を落としたという痛ましい出来事がありました。

 信仰者も他の人と同じようにこの世に生きています。キリスト者だから特別変わった生き方をするわけではありません。他の人と同じように、職場で働き、家庭を築き、社会のルールに従って生活しています。しかし、信仰によってキリストに結ばれた者は、この世に生きてはいても、この世に属するものではありません。神の恵みによって神の子どもとして神の国に生まれた、神の国の国民なのです。信仰者にとってこの世は終着点ではなく、通過点です。目指しているのは神の国であり、信仰者はこの世にあっては「寄留者」なのです。表面の生活は変わらなくても、その生き方の根本が違うために、信仰に忠実であればあるほど、世の人々はキリストを信じる人々を嫌い、憎み、苦しめ、退けるでしょう。ですから、信仰によって生きようとする人には、神の特別な守りが必要なのです。イエスが祈られた祈りは、信仰のゆえに苦しむ人たちが、守られて、ますます信仰に励むことができるようにという祈りでした。

 私たちは、誰かが旅行に行くと聞けば、旅行の安全を祈り、手術を受けると聞けば、医師や病院に間違いが無いようにと祈ります。ひとつひとつの家庭が守られ、こどもたちも学校で守られますようにと祈ります。そのように祈ることは良いことです。しかし、そこから一歩進んで、信仰のゆえに苦しめられている人たちのために祈る祈りに導かれるなら、もっと素晴らしいと思います。私たちもまた、苦しみを避けるためになまぬるい信仰の生活をするのでなく、たとえ苦しまなくてはならなくても、神は必ず守ってくださると信じて、神に従う者になりたいと思います。

 次の16-19は「きよめ」のための祈りです。イエスはこう祈られました。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」キリストに従う者がこの世のものでないなら、イエスがこの世からお救いになった人たちをすぐに神の国に移されれば、その人たちはこの世で苦しまなくて済むはずです。しかし、イエスは「彼らを世から取り去ってください」とは願わず、かえって、「彼らを世に遣わしました」と言われます。信仰者がなおこの世にいるのにはふたつの理由があります。ひとつは、世にあって受ける苦しみを通してきよめられていくため、また、もうひとつは、この世に対してあかしをするためです。キリスト者はこの世から苦しみを受けます。しかし、それによって信仰を捨てたり、苦しみを避けるために世と妥協したりせずに、神からの訓練として苦しみを耐え忍び、信仰を守り通すとき、それが世へのあかしとなります。人々はキリスト者のそのような姿を見て、ついにはイエス・キリストへの信仰に導かれるようになるのです。信仰を馬鹿にしていた人であっても、キリスト者の一貫した誠実な態度や、みせかけのない謙虚さ、勇気ある愛の行為などを見て、信仰を求めるようになったという例が多くあります。「きよめ」は最高のあかしです。私たちも、主イエスに倣って、自分自身のきよめのために、また、教会のきよめのために祈り励みたいと思います。

 最後の20-21節は「一致」のための祈りです。イエスは祈られました。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」ここで祈られている「一致」はたんにみんなが仲良くすること、仲間意識を高めること、グループの団結を強めることなどではありません。イエスが祈られた「一致」は信仰の一致です。イエスは、ここで、「この人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」と祈っておられます。私たちがそれによって救われる真理、「福音」はイエス・キリストから直接、最初の弟子たちに手渡されました。しかし、次世代の弟子たちは、直接イエスから教えを受けるのでなく、イエスの弟子たちから間接的に教えを受けました。弟子たちから次の弟子へと福音が伝えられていくとき、「伝言ゲーム」のようにそれがゆがめられないともかぎりません。ですから、そこには権威ある真理の継承が必要なのです。マタイ28:20で、主は使徒たちに、「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と、命じました。使徒たちは自分の意見や考えではなく「キリストが命じたこと」を語らなければなりませんでした。しかも、その中から自分が好きなもの、人々が喜ぶものだけを取り出して教えるのでなく、その「すべて」を伝えなければなりませんでした。そのような真理の継承によって、イエス・キリストを信じる者が、どの時代にも、どの地域でも、同じひとつのキリストの福音を保っていくのです。イエスが祈られたのはそのような信仰の一致でした。初代教会はキリストの十字架や復活を信じ、キリストの再臨を待ち望んでいたが、現代の教会は、そんな神話のようなものを信じるわけにはいかない、などと言い出すとしたら、そのような教会はこの一致の中にはないのです。

 ラスベガスの教会を訪ねたときのことです。教会の礼拝プログラムに教会のゴールやビジョンが箇条書きでかかげられていたので、「これは毎週載せているのですか」と牧師先生に聞きましたら、「そうですよ。どの教会員の誰に聞いても、みな教会のゴールとビジョンはこれとこれとこれですと答えられますよ」という返事が返ってきました。私は、そのことにとても感心しましたが、それよりももっと素晴らしいと思ったのは、先生が聖書教育に力を入れておられ、礼拝後もみなが残って、先生から聖書を学んでいたことでした。教会員がゴールやビジョンで一致できるのは、なによりも、イエス・キリストを信じる信仰において、また、イエス・キリストを知ることにおいて一致しているから、共通のものを持っているからです。神とはどのようなお方か、イエス・キリストが私たちの救いのために何をしてくださったか、聖霊は私たちのうちにどのように働かれるのか、分かっているようで分かっていないことが数多くあるのではないでしょうか。私たちが伝えるべき内容を知らないでいて、どうして本当の伝道ができるでしょうか。福音について一致した信仰、共通の理解がなくて、どうして教会は人々に、これが真理だと語ることができるでしょうか。世からの守り、世にあってのきよめとともに信仰の一致が、この世へのあかしとなるのです。主イエスが、ご自分が直接教えた弟子たちと、その弟子たちから聞いて信じた私たちとに、信仰の一致があるようにと祈られたように、私たちも、私たち自身が福音を正しく知り、信じることができるように、また、どの時代の、どの地域の教会も、同じ信仰に堅く立って、世にあかししていくことができるよう、とりなし祈り続けたいと思います

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは私たちを、この世から救い出し、御国の民としてくださいました。しかし、私たちをこの世から取り去ることなく、むしろ、この世に遣わしてくださいました。私たちの「守り」と「きよめ」と「一致」によって、キリストをあかしするためでした。祈りの力を知っている私たちですから、もっととりなしの祈りに励み、こうしたことを祈りあっていくことができるよう、私たちを導き、励ましてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/24/2012