ひとつとなるために

ヨハネ17:11

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わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

 イエスは良く祈りました。朝早く、弟子たちが起き出さないうちから、ひとりで祈り、時には夜を徹して祈ることもありました。イエスは弟子たちに熱心に祈るように教えただけでなく、ご自身が、ことあるごとに、たゆみなく、父なる神に祈っておられました。そのことは聖書のいたるところに記されているのですが、イエスがどう言って祈られたかは、多くは書かれていません。けれども、ヨハネ17章には、イエスが実際に祈られた祈りがその章全体にしるされています。いつかこの章全体を丁寧に学びたいと思いますが、今朝は、その中の11節だけを取り上げ、イエスが、どんな時に、誰のために、何を祈られたかをを学ぶことにしましょう。

 一、十字架を前にして

 第一に、イエスはいつこの祈りを祈られたのでしょうか。11節に「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります」とあるように、この祈りは、イエスが十字架にかかり、世を去る数時間前の祈りでした。イエスはこの祈りを捧げたあと、ゲツセマネの園に向かいます。ゲツセマネの園での祈りの後、捕まえられ、大祭司カヤパから裁判を受けます。その裁判で有罪とされ、ローマ総督ピラトに引き渡されます。イエスは鞭打たれ、十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘を上っていかれます。イエスが両手両足を釘付けさて十字架にかけられたのは朝の9時ごろ、十字架の上で息を引き取られたのは午後3時ごろでした。イエスがこの祈りをささげられたのは、こうした出来ことが起こるほんの数時間前のことだったのです。

 イエスは自分に迫ってくる最期の時をひしひしと感じておられました。ヨハネ17章の祈りには、そういう緊迫感があります。切実な願いが、神への信頼の言葉や献身の言葉とともに捧げられています。この祈りの後の、ゲツセマネの園での祈りでは、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)という言葉で、イエスは激しく父なる神に嘆願しておられます。

 祈りは、私たちの内面にあるものを正直に神に差し出すことです。神の御子であられるイエスでさえ、ご自分の最期の時を前にして心を騒がせ、悲しみのあまり死ぬほどであったとすれば、私たちが、困難に直面して平静でいられるはずはないでしょう。祈りというのは、心の中の騒ぐ思いを、いったん静まらせてから、立派な言葉、行儀のよい言葉を並べ立てるものではありません。詩篇の作者たちが、「神よ、急いでわたしに来てください。あなたはわが助け、わが救主です。主よ、ためらわないでください」(詩篇70:5)、「神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください」(詩篇83:1)などと祈ったように、私たちは祈りの中で、私たちの不安やいらだちをそのまま神に申し上げて良いのです。

 日本に晴佐久昌英という、とてもユニークな神父がおられます。晴佐久先生は大腿骨の腫瘍を取り除くために癌病棟に入院したことがあります。その腫瘍が癌だったら足を切断しなければならないと医師から告げられたそうです。そのとき、「病気になったら」という詩を書きました。それはこういう言葉で始まっています。

病気になったら どんどん泣こう
痛くて眠れないといって泣き
手術がこわいといって涙ぐみ
死にたくないよといって めそめそしよう
恥も外聞もいらない
いつものやせ我慢や見えっぱりを捨て
かっこわるく涙をこぼそう
またとないチャンスをもらったのだ
自分の弱さをそのまま受け入れるチャンスを

 この詩を読んだある人は、「病気になると早く治そうと、そのことばかり考え必死になります。痛い、辛い、なんて言ったらいけないと思い、ぐっとがまんし、努力して何とか治そうとします。でも、がまんしないでいいのですね。どんどん泣いていいと言われてほっとしました」と感想を書いています。私たちも、病気のときばかりでなく、仕事や家庭の重荷に押しつぶされそうになるとき、経済的な困難や人間関係の悩みに直面するとき、この詩のように、あるがままを神に申し上げれば良いのです。正直な祈り、それが、私たちを確信と平安に導いてくれます。

 二、弟子たちのための祈り

 第二に、イエスは十字架を前に誰のために祈られたのでしょうか。それは、弟子たちのためにです。11節に「わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります」とあります。イエスは、この世に残していく弟子たちのことを心配し、彼らのために祈られたのです。

 私たちは自分がつらい時、苦しい時は、とかく、わがままになったり、不平不満をもらしたり、他の人のことを思いやる余裕がなくなってしまいます。しかし、主は、十字架という極限の苦しみに直面しておられるのに、自分のことをさておいて、弟子たちのことを深く心にかけておられました。ヨハネ13:1に、「イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」とあります。イエスは、十字架の前日、弟子たちの足を洗い、晩餐の時に、パンを取って「これはわたしのからだ」、杯を取って「これはわたしの血」と言われました。イエスは弟子たちを愛し、その愛のゆえにご自身を、その命を弟子たちに差し出されたのです。晩餐の後、イエスは今まで以上に直接的に父なる神のこと、ご自分のこと、聖霊なる神のことを弟子たちに教えました。じつに、イエスは弟子たちを「最後まで愛し通され」、ご自分のすべてを弟子たちに与えようとされました。弟子たちの目がより高いもの、より確かなものに向かうようにと祈られたのです。17章の祈りは、そんな主イエスの弟子たちへの愛を感じさせてくれる祈りです。

 しかし、イエスが弟子たちを愛されたのは、たんなる師弟関係のゆえではありません。自分についてきてくれた弟子たちへの労りの気持ちからでもありません。それよりももっと根本的なもの、本質的なものによって結ばれた愛のゆえです。イエスは、弟子たちを「あなたが世から選んでわたしに賜わった人々」(6節)「あなたがわたしに賜わった者たち」(9節)と呼んでいます。イエスが天から来られたように、イエスを信じた弟子たちも、イエスの宣べ伝えた神の国を受け入れ、天のものとされました。神の御子イエスを信じる信仰によって神の子どもたちとされたのです。ですから、イエスと弟子たち、また、イエスを信じる者との間には、他のものにはない質の違う結びつきがあるのです。イエスは、何度も、「彼らはあなたのものなのです」(9節)、「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです」(14、16節)と言っておられます。

 イエスは弟子たちを人間的な目では見ていませんでした。神の目で見ていました。物分かりが悪く、イエスが捕まえられたときにはイエスを見捨てて逃げ出したような弟子たちでしたが、彼らが神に愛され、選ばれ、イエスに託され、イエスと共に神の使命を果たすべき存在であるという観点から弟子たちのひとりひとりを愛されたのです。

 私たちの人間関係においても、家族への愛においても、同じようでありたいと思います。夫婦は、たんに、法的に結婚関係にあるから愛しあうのではありません。互いに神が自分に与えてくださった半身として受け入れ合うところからほんものの愛が育っていくのです。親子や親族も、血縁関係があるから愛し合えるというものではありません。やはり、神が与えてくださった家族として受け入れところから、愛が育つのです。教会の兄弟姉妹の関係も同じです。聖書は、教会の中で「弱い」立場にある人たちについて「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」(ローマ14:15新改訳)と言っています。神の目で人を見るなら、ひとりひとりが「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」です。そのように他の人を見ることによって、変わらない愛が生まれ、育つのです。

 人間の愛は永遠不変のものではありません。どんなに自分を愛してくれる人、自分が愛する人がいたとしても、そうした人々もやがて世を去る時がやってきます。すべてが移り変わっていく中でも、変わらない愛を育てるには、変わらない神を信じる信仰、神の目をもって人を見る目が必要なのです。感情的に「好きだ」「嫌いだ」と言っても、その感情はいつか変わるものです。相手のちょっとした態度やまわりの状況によって「好き・嫌い」の感情はひきおこされたり、しぼんでいったりします。人間の感情は不安定であり、愛が感情だけに頼っていたなら、それを保ち続けることができなくなるでしょう。愛を持続させるには、感情だけでなく、神の真理にもとづいた理性も、「きょう、何があっても、神と人とを愛することができますように」という祈りに支えられた意志も必要なのです。日々に、神の愛を知り、それに支えられ、導かれていこうとする、祈りや努力も大切です。

 三、ひとつとなるために

 第三に、では、イエスは十字架を前に、弟子たちのために、何を祈られたのでしょうか。それは、弟子たちがこの世にあって、この世から守られることでした。

 英語に "vulnerable" という言葉があります。「攻撃にさらされやすい」とか「もろい」とかいう意味です。弟子たちはこの世にあっては "vulnerable" でした。弟子たちは人並み外れて強い人々でもありませんでしたし、この世の後ろ盾もありませんでしたし、神も、彼らを安全地帯に匿うことはなさいませんでした。しかし、彼らは、まったく無防備だったわけではありません。イエスは、弟子たちが、神に愛され、用いられる人々であることを知っていました。弟子たちは神の目には、 "vulnerable" であるとともに "valuable" でした。神ご自身が弟子たちの盾となり、守ってくださることを信じて、そのことを神に祈ってくださいました。

 イエスが弟子たちのために「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」と祈られたように、弟子たちを守るものは、イエス・キリストの「名」です。「イエス」という名は、旧約では「ヨシュア」で、それには「神は救う」という意味があります。「ヨシュア」という名はユダヤでは一般的な名前ですが、イエス・キリストの名にはその名のとおり、救い主、助け主、いやし主としての力が与えられているのです。イエスが地上におられたときには、弟子たちは直接イエスから守られ、助けられてきました。しかし、これからはそうはいかなくなります。けれども、イエスは弟子たちを見捨てず、ご自身は世を去って行かれますが、ご自分の名を残していかれたのです。

 しかし、キリストの名は、それを胸につけていれば、警察官のバッジのように力を発揮するというものではありません。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」(ヨハネ16:23-24)とイエスが言われたように、私たちがイエスの名に信頼し、その名によって祈るとき、それは私たちを守るものになるのです。

 また、キリストの名は、私たちに「一つとなること」を求めています。イエスは「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」と祈っておられます。キリストを信じるものが一つであるようにというのは、たんなる団結や人間的な一致ではありません。イエスが父なる神とご自分との関係において、「わたしたちが一つであるように」と言われたような、本質的な一致です。父が御子を愛し、御子は父を愛された、愛における一致です。イエスは御子であるのに、父に服従し、十字架の死に至るまでも従順であられたという、使命における一致です。

 イエスは17章の祈りを「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」と言って締めくくっておられます。イエスが「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます」と言われたように、私たちの一致は、共にイエス・キリストを知ることを求め、一つの真理で結びあわされることです。教会は、初代から今に至るまで、キリストと一つであるように、キリストの伝えられた真理と、キリストの愛の心と一つであるようにと努めてきました。そして、そうした信仰の努力が、家庭の一致を強め、社会の差別をとりのぞき、人類の一致を生み出してきました。

 教会で学ぶ真理は、この世では学ぶことができない天の真理です。ですから、それは現実の生活からかけ離れているように見えます。しかし、実際はそうではありません。私たちが信じる神は、すべての人を創造し、私たちの生活の事細かいところまでも心にかけて導いてくださる神です。この神が知らせてくださる真理が日常と無関係でないはずはありません。むしろ、変わらない聖書の真理を求めることによって、移り変わる日常のことがらが、より確かなものになっていくのです。

 キリストが十字架を前にして、弟子たちのために、一致を祈られた祈りが、私たちのうちに成就するようにと、私たちも、心を込め、一つ思いになって祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、イエスが、ご自分の十字架を目前に控えながらも、弟子たちのために切に祈られた、その愛を感謝します。私たちも、あなたの愛において、自分を見、他の人を見、また、この社会を見ることができますように。そのことによって、信仰の一致が、私たちの日々の生活の中にも生きて働くことを見ることができますように。私たちを救い、助け、癒す、力あるイエス・キリストのお名前で祈ります。

3/23/2014