16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
先週、私たちは、聖霊がイエスと等しい「助け主」、「弁護者」、「慰め主」で、私たちを真理に導いてくださるお方であることを学びました。聖霊が導いてくださる「真理」とは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われたイエスご自身なのですが、人がイエスに導かれるためには、知っておかなければならないいくつかのことがあります。それは、きょうの箇所に「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」とあるように「罪」と「義」と「さばき」です。これらのことを示してくださるのは聖霊です。イエスはここでそのことについて教えておられます。
一、罪について(9節)
イエスは、はじめに、聖霊は、人々に「罪について」教えてくださると言われました。「罪について」が最初にとりあげられているのは、「罪について」正しく知ることが救いに至る第一歩だからです。
聖書は「すべての人は、罪を犯した」(ローマ3:23)と言っています。皆さんは、はじめてこの言葉を読んだとき、どう思いましたか。多くの人は言うでしょう。「そんなことはない。世の中には立派な人、善良な人がいくらでもいるし、私も、交通違反はしたかもしれないけど、他のことで警察のやっかいになったことはない。真面目に生きてきたし、良心的に仕事をしてきた。」けれども、聖書を読むうちに、聖書が言っている「罪」が、「犯罪」だけではなく、その根になっているものであることが分かってきます。
自然界には「万有引力の法則」をはじめとして「熱力学第零法則〜第三法則」、「運動の第一法則〜第三法則」、「質量保存の法則」、「エネルギー保存の法則」、「エネルギー等配分の法則」、「フレミングの右手の法則、左手の法則」、「ボイル=シャルルの法則」、「一般相対性原理」、「アルキメデスの原理」、「パスカルの原理」など、数多くの法則があります。こうしたものは、人間が定めたものではありません。すべて神が自然界に与えた法則で、それによって自然は秩序を保っています。人間はそれを発見しただけです。科学者たちはそれを数式で表し、技術者たちはそれを応用してさまざまなものを作り出してきました。自然の法則は、地球上のどの場所でも、また、宇宙でも同じように働いています。この法則から逃れることができる人は誰もありません。
同じように神は人間にも信仰と道徳の法則を定めてくださいました。自然の法則が世界のどの国の誰にも同じであるように、信仰と道徳の法則は世界のどの国、どの民族に、どんな立場にある人にも同じです。人は、国の法律を犯せば、その国によって罰せられますが、神の国の法律を犯せば、それによって裁かれるのです。
神の法律、それは聖書では「律法」と呼ばれますが、数多くの律法の中で、第一のもの、神の国の憲法のようなものが「十戒」です。十戒は二つに分かれており、前半は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」と言って、神を敬い、礼拝することを求めています(出エジプト20:3〜11)。後半は、「あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない」(同20:12〜17)と、他の人を尊ぶことを命じています。「殺人」、「窃盗」、「偽証」はどの国でも犯罪です。「両親を敬わないこと」、「姦淫」、「貪欲」は、犯罪として定められていなくても、道徳的に非難され、社会的な制裁を受けます。そして、十戒の前半、神を信じる敬うことは十戒の後半、他の人を尊ぶことの基礎です。前半が守られないとき、後半も守られなくなるのです。つまり、神を信じないこと、神を畏れ敬わないことから様々な罪が生じてくるのです。罪の根本は、神を信じないことにあります。
それでイエスは、「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」と言われたのです。人は罪を持ったままでは決して幸いな人生を送ることができません。正しく、聖なる神の前に立つことができません。イエスが世に来られたのは、私たちを罪から救い、神の前に出ることができるようにし、幸いを与えるためでした。神は、救い主をひとりのユダヤ人として、ユダヤの人々の只中に遣わしてくださいました。ユダヤの人々はイエスの恵みと権威に満ちた言葉をその耳で聞き、数々の力ある奇蹟をその目で見たのです。それなのに、人々はイエスを信じませんでした。ヨハネ1:11は、このことを「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と言っていますが、はんとうに悲しい言葉です。
もっと悲しいことは、今も、人々が、自分の罪を認めず、救い主を無視し、斥けていることです。もし人が、重い病気にかかっているのに、「私は大丈夫、病気ではない」と言い張って、治療を受けようとしなかったら、そのことによって命を落としてしまうでしょう。同じように、自分の罪に気づかない、いや、気づこうとしないところに、私たちの問題があります。聖霊は、「その方が来ると、罪について、…世の誤りを明らかになさいます」とイエスが言われたように、まず、私たちに罪を、信じない罪を示してくださるのです。
ある人が「神さま、私の罪を示し、それを責めてくださる恵みを感謝します」と祈っていましたが、聖霊が「罪について」私たちにその誤りを明らかにしてくださるのはまさに恵みです。私たちはそれによって罪を悔い改めて、罪の赦しの幸いを得ることができるからです。
二、義について(10節)
次に、聖霊は「義について」私たちを教えてくださいます。「義について」というと、ふつう、私たちは、神がどんなに正しいお方であるか、神が私たちに求めておられる正しさとは何かついてのことだと考えます。ところが、イエスは、「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と言われました。これはいったいどういうことでしょうか。「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる」とは、イエスの昇天を指しているようですが、イエスがこの言葉を語られたのは、十字架にかかられる前でしたから、この言葉にはイエスが十字架で死なれ、墓に葬られたこと、また、そこからよみがえられたことが含まれます。つまり、イエスは、「義とは、わたしが十字架、復活、そして昇天によって成し遂げたことなのだ」と言われたのです。
ローマ4:25はヨハネ16:10を別の言葉で言い換えた箇所です。こうあります。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」私たちはみな罪びとです。神の求めておられる正しさに届かない者です。私たちは、誰一人、「神の律法を守り通しました」と言って自分の正しさ、「義」を主張することはできません。イエスは、そんな私たちの罪をご自分の身に負って十字架にかかられました。イエスは私たちの罪を引き受け、代わりに、ご自分の「義」(正しさ)を私たちにくださいました。私たちの罪とイエスの義とが入れ替わったのです。そして、そのことが確かなことであることを復活と昇天によって示してくださったのです。
ほとんどの宗教は、儀式を守り、修行をし、善行に励み、自分の力で「義」を積み重ね、それによって自らを救うよう教えています。ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちも守ることができない律法を民衆に押し付けて、「これを守れば、永遠のいのちが得られる」と教えていました。しかし、聖霊が示してくださる「義」は、それとは全く正反対の「義」です。私たちが自分の力で勝ち取る「義」ではなく、イエスが十字架と復活、そして昇天によって私たちに与えてくださる「義」です。聖霊は、罪びとである私たちがイエスの義によって神に受け入れられるという恵みを教えてくださるです。
三、さばきについて(11節)
第三に「さばきについて」ですが、世の中には、神のさばきさえも恐れず、平気な顔で、自分の思い通りのこと、それもとんでもない悪いことをする人が大勢います。ですから、聖霊が「さばきについて」教えるというのは、「神が、すべて罪を犯した者をさばかれる」ことを強く示すことだと、ふつうは考えられます。ところが、イエスはこう言われたのです。「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」これもは、「罪について」や「義について」と同じように、私たちが考えていたこととは違っています。
サタンは神に敵対する「この世」というシステムを作り、「罪」と「死」によって人間を支配しました。イエスの復活は、この神の敵、闇と死の支配に対する決定的な勝利でした。イエスは罪と死と世に勝利し、勝利の主として天に昇り、天の御座から私たちを見守り、導き、治めてくださっています。そして、やがて、その御座から立ち上がり、再び世に来られます。そのとき、この世のあらゆる闇の力に対して最後の勝利を勝ち取られます。テサロニケ第二2:8にこうあります。「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」
聖霊が示してくださる「さばき」というのは、信じる者の敵に対するさばきです。イエスは信じる者をさばきから救い、私たちを罪に引き込み、縛り付けている者をさばいてくださいます。「救い」と「さばき」は、コインの表裏のようなものです。正しい者が救われるためには、正しい者を苦しめている者がさばかれなければなりません。聖書はこう言っています。「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」(テサロニケ第二1:6-7)私たちはもとから正しい者ではありませんでしたが、イエスによって「正しい者」のグループに入れていただきました。さばきは過ぎ去りました。イエスのさばきは、私たちを罪に縛り付けている敵に向けられ、イエスは彼らに勝利されました。聖霊が示してくださる「さばき」は、私たちにとっての「救い」なのです。
聖霊が私たちに教えてくださるのは、「不信仰の罪」、「キリストがくださる義」、「信仰の敵に対するさばき」です。
ある人が、「私に罪なんかない」と頑固に言い張っていました。あるとき、その人は、牧師から一枚の紙を渡されて、「思い出す限りの罪をここに書いてみなさい」と言われました。その人は、自分が実際にした悪いことが、子どもの頃のことからはじめて、次々と思い出されてきました。そして、そうしたことを書き続けているうちに聖霊が働いてくださり、実際にはそうしなくても、自分の心には醜い思いがあることに気付き、それを正直に書いていくと、たちまち、その紙は、表も裏も、文字でびっしり埋め尽くされました。そして、その人は、「私の罪を赦すため、私に代わって十字架で死んでくださったイエスを信じようとしないことが一番の罪なのだ」ということが分かり、その場で悔い改めてイエスを信じました。すると、牧師は彼の書いた紙をオフィスにあったシュレッダーに入れました。シュレッダーはその紙を吸い込み、粉々に砕きました。牧師は言いました。「あなたの罪は、このように赦されました。イエスの義によって、あなたは正しい者とされました。あなたを責める者はさばかれました。さあ、安心して行きなさい。」
サタンは、イエスを信じていない人には「人間に罪などない。救われる必要などない」と思わせるのですが、イエスを信じた人には「おまえはたくさんの罪を犯しているではないか。おまえはほんとうに救われているのか」といって、私たちの罪を責め立てます。そのようなときも、聖霊によって「罪について」、「義について」、「さばきについて」正しく知ることができるなら、私たちは、信仰の敵に勝ち、救いの恵みを心から喜ぶ者となれるのです。聖霊が働いてくださり、多くの人々がこの平安を持ち、喜びを知り、救いの真理に導かれるよう祈り続けましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちがイエスを信じ、その救いを受けることができたのは、聖霊によって罪を示され、イエスの義を与えられ、さばきを免れたからです。聖霊が私たちのうちに、また、人々の間で力強く働いてくださるよう、祈り続けることができますよう助け、導いてください。主の御名で祈ります。
5/29/2022