16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
16:10 また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。
聖霊降臨日はペンテコステとも言います。「ペンテコステ」と聞いて、皆さんは「ヘンテコ」な言葉だなと思うかもしれませんが、なぜ「聖霊降臨日」が「ペンテコステ」なのかと言いますと、それは、イエスの復活から五十日目にあたるからです。イエスは復活してから四十日にわたって弟子たちに現われ、天に帰りました。そののちさらに十日してから、聖霊が弟子たちに下ったのです。この時は、ちょうどユダヤの初穂の祭りがあって、それは「五十日の祭」という意味で「ペンテコステ」と呼ばれていました。「ペンテ」というのは数字の「五」という意味があります。アメリカの国防総省が五角形の建物なので「ペンタゴン」と言うのと同じです。
イエスは、世を去る前、弟子たちに「わたしは去る。しかし、聖霊が来る。」と言いました。イエスは復活から四十日目に天に帰りました。しかし、五十日目、ペンテコステの日に、イエスのことばどおり聖霊が来てくださったのです。そのことは使徒の働き第2章に詳しく書かれています。そして、使徒第2章とヨハネ16章を比べてみると、イエスが予告したこと、約束したことがそのとおり実現していることがよくわかるのです。では、イエスのことばがどのように成就しているかを、ヨハネ16章の8節、13節、そして14節の順に見ておきましょう。
一、悔い改めに導いた聖霊
まず、8節です。ここでイエスは「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(8節)と言っています。これは、先週学んだように、聖霊が私たちに罪を示し、悔い改めに導くということを意味しています。聖霊は、私たちのうちに働いて、私たちに罪があることを認めさせ、悔い改めを与え、次に私たちに「イエスは主です」という信仰の告白を与え、そして、私たちに神の子とされているという確信を与えます。先週、私は、これを三つの "C" で表わしました。"Conversion", "Confession", "Confidence" の三つでしたが、最初の "Conversion" は「罪の自覚」という意味では "Conviction" という言葉を使ってもよいかもしれません。
イエスは、聖霊が来るとき、人々が罪を認め、悔い改めが起こると予告しましたが、はたして、ペンテコステの日には、その通りになりました。ペンテコステの日、ペテロは、人々に、こう説教しました。使徒の働き2:22からです。「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:22-24)この後、ペテロはイエスの復活について論じてから、「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:26)と言って、その説教をしめくくりました。
すると、人々はペテロのことばに心を刺され、うなだれて、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言って近づいてきたのです(使徒2:37)。そんな彼らにペテロはすかさず「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と言いました。そして、なんと、その日に悔い改めてバプテスマを受けた人々が三千人もいたのです。悔い改めは、この日、エルサレムから始まって、やがて、全世界にまで広がっていきました。
イスラエルには、過去にも何度か、全国規模の悔い改めがありました。しかし、神への悔い改めは、イスラエルの国内だけにとどまっていました。イスラエルの国境を越えて全世界にまで悔い改めが及んでいったのは、この時がはじめてです。また、イスラエルの歴史を見ますと、悔い改めは長続きせず、やがて人々はまことの神に背をむけて偶像を拝んだり、信仰の内実を捨てて形式だけにこだわるようになってしまったのを見ることができます。悔い改めては背き、背いては悔い改めるという繰り返しでした。しかし、ペンテコステの日に始まった悔い改めは今にいたるまで続いています。このような真実な悔い改めは、この時がはじめてでした。これは聖霊の働きです。「聖霊が来るとき、本当の悔い改めが起こる」とイエスが約束したことの成就なのです。
二、真理を教えた聖霊
第二にイエスは、聖霊を「真理の御霊」と呼んで、「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)と約束しました。弟子たちは、直接イエスから教えを受けましたが、聖霊が降る前は、イエスの教えのすべてを理解することはありませんでした。イエスの十字架の意味、復活の意味、そして、そこから来る罪の赦しの意味を十分に理解することはなかったのです。しかし、聖霊が降った後は、弟子たちはイエスの教えを明確に理解し、イエスが教えた通りのことを教えているのです。
弟子たちが、イエスの教えをいかに正確に理解したかを示す例は、いくつもありますが、今朝はその中の一つだけを示しましょう。ルカの福音書に、イエスの教えがこう書かれています。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47-48)このイエスの教えと、さきほど引用したペテロの説教とをくらべてみてください。ペテロは「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と言いました。このペテロの説教は、福音書に記録されたイエスの教えとそっくり同じですね。イエスが十字架の苦しみについて弟子たちに教えたそのとおりに、ペテロは人々にイエスの十字架を語りました。イエスがご自分の復活について教えたとおり、ペテロはキリストの復活を力強くあかししました。そしてなによりも、イエスが「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と言ったとおりに、ペテロは人々に「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」と語っています。
イエスの教えを十分に理解できず、いつもちぐはぐなことしか口に出せなかったペテロが、ここではイエスが教えたとおりのことをきちんと人々に語っています。ペテロがそうすることができたのはなぜでしょうか。それは、イエスが「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」と言ったように、聖霊がペテロにイエスの教えを理解させたからです。ペテロや弟子たちはイエスから数多くのことを学んでいました。知識だけはありました。しかし、それを理解するところまでいっていなかったのです。ところが、聖霊が来た時、弟子たちはイエスが教えたことをはっきりと理解することができました。理解するだけでなく、信じ、語り伝えるまでになったのです。
私は、いつも、このことを、弟子たちは「知識」から「理解」、「理解」から「信頼」へと進んだというように説明しています。「知識」というのは誰もが持つことのできる客観的なものです。聖書を何度も読み学べば、誰でも「聖書の知識」を持つことができます。しかし、知識だけでは「聖書について」知ったことにはなっても、「聖書を」知っていることにはなりません。「知識」だけを蓄えても、「ものしり」にはなるだけで、神のことばが、私たちの心に、また人生に働くことはないのです。「知識」から「理解」に進む必要があります。「キリストは十字架にかかって死んだ。」ということを認めるのは「知識」の段階です。しかし、「キリストは私のために十字架で死んでくださった。」ということが分かるのが「理解」の段階です。「知識」は客観的なものだと言いましたが、理解はそれにくらべてもっと主観的なものです。聖書の真理を「自分のこと」として受け止めることです。知識は量的に増やすものですが、理解は質的に深めていくものです。「信頼」というのは、知識と理解にもとづいて、自分の人生の歩みを決定していくことです。「知識」が客観的、「理解」が主観的なものなら、「信頼」は人格的なものであると言うことができるでしょう。知識と、理解と信頼の三つがあわさったものが「信仰」であると、聖書は教えています。多くの人が信仰にまで至らないのは、知識の段階で終わってしまったり、理解の段階でとどまっているからです。みなさんはいかがでしょうか。知識の段階で終わっていないでしょうか。理解の段階でとどまっていないでしょうか。神のことばのとおりに、神に信頼して歩んでいるでしょうか。
聖霊は、なかなか理解に達することができず、信頼に届かない私たちを助けてくださいます。聖霊は、私たちを知識から理解へ、理解から信頼へと進ませてくれます。子どものころから聞かされていた聖書のこのことば、若いころに学んだ聖書のあのことばが、ある日「ああ、そうだったのだのか。このことばは、このようなことを意味していたのか」と分かる時があります。それは、聖霊の働きです。いつも親しんでいる聖書のことばが、ある状況の中で心に強く迫ってきて、「そうだ、このことばのとおりに信じ、実行してみよう」と促されることもあります。それもまた聖霊の働きです。ですから、聖書を学ぶ時には、いつも聖霊の助けを意識したいと思います。使徒パウロは「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:17-19)と祈っていますが、私たちも「知恵と啓示の御霊」を願い求めて聖書を学びましょう。
三、信者を満たした聖霊
聖霊は第一に人々を悔い改めに導き、第二に信じた者を真理に導きます。そして、第三に、聖霊は、信じる者にイエスの栄光を現わし、イエスの持っておられるものを与えます。イエスがヨハネ16:14で「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」と言われたように、聖霊は、信じる者たちに勇気や力、喜びや平安などを与えてくださるのです。イエスが天に帰った後も聖霊は、イエス・キリストを弟子たちに現わし続け、イエス・キリストの持っておられるものを弟子たちに与えて続けてくださいました。弟子たちは聖霊を持つことによってキリストを心に持つようになったと言っても良いでしょう。聖書は、弟子たちのこの体験を「聖霊に満たされる」ということばで表現しています。弟子たちは、聖霊に満たされることによって、ある意味では、イエスとともに過ごした三年間に決して体験することのなかった知恵や力、信仰や喜びを体験することができました。使徒の働きには、「聖霊の満たし」がくりかえしあったことが書かれています。
使徒の働き2:4に「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」とあります。聖霊を受けた人々は、すぐさま聖霊に満たされて、ペンテコステのお祭りにさまざまな国から来ている人々に向かって、それぞれの国のことばで神のことばを語りだしました。これは、イエスが「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」と言われたことの最初の成就です。
次に「聖霊の満たし」が出てくるのは使徒4:8です。ここには、ユダヤの議会によって取調べを受けたペテロとヨハネが、そこにいる人々を少しも恐れず、イエスがキリストであり、イエスの名の他、人を救う名はないとと、あかししている姿が書かれています。ユダヤの指導者たちはペテロとヨハネの大胆さに驚いたと言っていますが、ペテロは、かって大祭司の庭で女中のことばにおびえて、イエスを三度も知らないと言った人です。ところがここではまるで別人のようです。聖霊が、ペテロに勇気と大胆さを与えたのです。
聖霊の満たしは使徒たちだけではなく、すべての信者に与えられていました。ユダヤの議会はペテロを脅してから釈放したのですが、ペテロは、議会からすぐ教会の集まりに戻ってきました。この集まりは、教会の祈り会だったと思います。私たちの祈り会でシェアリングがあり、それにもとづいて祈りあうように、ここでも、ペテロの報告にもとづいて祈りがささげられています。聖書には、一同が祈りをささげた時「その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(使徒4:31)とあります。祈り会に出ていた人々みんなが聖霊に満たされたのです。
また、しばらくして教会で、やもめへの配給のことでトラブルが起こったとき、それを解決するため七名の奉仕者が選ばれましたが、その人たちも「聖霊に満たされた人々」でした。食べ物の配給をするだけなのに、聖霊に満たされている必要があるのだろうかと、思う人もいるかもしれませんが、この七名が扱ったのは、食べ物だけではなく、そのことで不満をもった人々でした。この人々と他の人々の間に一致をもたらすために働いたのです。ですから、彼らに求められたのは「聖霊と知恵」また、「信仰と聖霊」に満たされていることでした。この七人のひとりステパノは「恵みと力」とに満ちていました。使徒の働きには、他にも多くの「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」(使徒13:52)と書かれています。
聖霊は、このように、信じる者を知恵や力、信仰や喜びで満たしてくださいます。聖霊を受けることと、聖霊に満たされることは、今日の私たちにも必要なことであり、約束されていることなのです。イエスを信じる者は、聖霊を受け、聖霊に従順である者は満たしを受けるのです。今日の私たちはイエスを直接見ることはなくても、聖霊によってイエスがいつも共にいてくださることを感じることができ、イエスの教えた真理に導かれ、イエスの心を私たちのうちに持つことができるのです。聖霊は、時間を越え、空間を越えて私たちのうちに働き、イエスを直接見た弟子たちにくらべても、ハンディキャップがないようにしてくださるのです。
「聖霊が来るとき」私たちは、悔い改めの恵みにあずかります。新しい物の見方や感じ方、そして新しい生活に導かれます。「聖霊が来るとき」私たちは、さらに深い聖書の理解へと導かれます。「聖霊が来るとき」私たちはイエスの恵みに満たされて、それをさらに深く体験します。この恵みにあずかるために、イエスを信じましょう。聖霊はあなたの心に来てくださるのです。すでに聖霊を心にやどしているクリスチャンは、さらに聖霊に満たされることを求めましょう。聖霊に満たされる時、私たちは、悔い改めと信仰を新しくされ、欠けたところを満たされ、足らないところを補われ、弱い部分を強くされるのです。イエスが「聖霊が来るとき」と言われた約束は、ペンテコステの日に成就しました。聖霊はすでに来ておられます。この聖霊に敏感で、従順な私たちでありたく思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたはキリストを遣わし、キリストによってご自身を示してくださいました。そして、キリストは聖霊を遣わして、聖霊によってご自身を示しておられます。聖霊を心に持つことは、キリストを持つことであり、キリストを持つことは、天地の創造者であるあなたを持つことです。造られたものである私たちには、このことは完全には理解できませんが、私たちをキリストを信じる信仰の喜びに満たすことによって、このことを深く味わい、聖霊によって前進する私たちとしてください。主キリストのお名前で祈ります。
6/8/2003