16:25 わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう。
16:26 その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。
16:28 わたしは父から出てこの世にきたが、またこの世を去って、父のみもとに行くのである」。
一、主を求める
いよいよ十字架の時が来たとき、イエスはご自分が世を去って父のみもとに行かれることを話されました。しかし、弟子たちは主の言われることをよく理解できませんでした。ヨハネ16:17-18 にこう書かれています。
そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「『しばらくすれば、わたしを見なくなる。またしばらくすれば、わたしに会えるであろう』と言われ、『わたしの父のところに行く』と言われたのは、いったい、どういうことなのであろう」。彼らはまた言った、「『しばらくすれば』と言われるのは、どういうことか。わたしたちには、その言葉の意味がわからない。」(ヨハネ16:17-18)イエスが心を込めて語っておられるのに、弟子たちの数人がお互いに顔を見合わせて、「先生はいった何のことを話しておられるんだ。おまえ、分かるかい。」「いや、おれにも分からない。」などと、コソコソと話している、そんな状況が思い浮かびます。
そんな弟子たちのことを思うと苛立ちを覚えます。けれども、みずからを振り返ってみると、わたしたちもまた、イエスの心を知らない者、イエスの言葉を理解しない者だったということに気付きます。この時はまだ十字架と復活、昇天と聖霊降臨の前ですから、弟子たちがイエスの話しておられることを理解できなかったのは無理もないことでした。しかし、わたしたちは、イエスが救いのわざを成し遂られた後の時代に生きており、聖霊を受けているのに、この時の弟子たちと同じように無理解であったとしたら、それはとても残念なことです。グッドフライデーとイースター、イエスの昇天日とペンテコステを何年も祝ってきたのに、その意味を心に刻んでいないとしたら、主イエスに対して何と申し訳けのないことでしょうか。
主は、わたしたちに主を知ることにおいて足らないところがあるのを咎められるのではありません。主がわたしたちを咎められるとすれば、それは、わたしたちが「主を知ろうとしないこと」、「主を知ることを求めないこと」なのです。聖書に「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5)とあります。神は、わたしたちが願い求めることに対して、「こんなことも分からないのか」「そんなことも出来ないのか」と言われることはありません。また、出し惜しみをなさるような方でもありません。わたしたちが願った以上のものを豊かに与えてくださるのです。ですから、どんなことについても、安心して、「神さま、わたしを教えてください」「主よ、わたしがもっとあなたを知ることができるようにしてください」と願い求めることができるのです。求めるならかならず与えられるのです。
二、主は治めておられる
イエス・キリストに従って生きていくうえに必要なほとんどのことは、祈り求めていけば答えが与えられます。しかし、それでも、人生にはいくつかの難しい問題があることは事実です。中でもわたしたちを悩ませるのは、わたしたちが他の人の悪や世の中の悪に苦しめられる時に起こってくる疑問です。
自分が自分の罪のために苦しむなら、ある程度はその苦しみを我慢し、納得することもできます。しかし、身に覚えのないことで非難されたり、苦しめられたりするとき、また、いくら考えても、その理由や原因が分からないときは、苦しみがいっそう大きくなります。「なぜ、神はこんなことが起こるのを許しておられるのか」と、神を恨みたい気持ちになったり、神を疑う思いにさえなることもあります。
そんなとき、わたしたちが覚えておきたいことがふたつあります。ひとつは、「神が愛と力をもって世界を支配しておられる」ということです。信仰者たちはこれを「摂理」と呼びました。「摂理」は英語で "providence" と言いますが、これはラテン語の "pro"(前もって)と "video"(見る)という言葉から来ています。創世記に、神がアブラハムを試みて、イサクをいけにえとして捧げるように言われたことが書かれています。アブラハムがイサクを縛って薪の上に寝かせ、今、まさに、短刀を振り下ろそうとしたとき、神はアブラハムを押しとどめ、イサクの代わりのいけにえの動物をお与えになりました。アブラハムはその動物を捧げ、神を礼拝したあと、その場所を「アドナイ・エレ」と呼びました。これは「主は見ておられる」という意味です。神は、わたしたちの人生を愛をもって見ていてくださるのです。試練を耐えた者に与えられる勝利を、苦しみの向こう側にある喜びを、苦難の後の栄光を、前もって備えていてくださるのです。
創世記の最後には、ヨセフの物語が記されています。ヨセフは、兄たちの妬みを買って殺されそうになりました。命だけは救われるのですが、エジプトに奴隷として売られてしまいました。しかし、賢かったヨセフは主人に重んじられ、ひとときの幸いを得ました。しかし、それも束の間で、主人の妻から誘惑され、その誘惑を断ったため、主人の妻の恨みを買って、牢獄に繋がれました。牢獄で親切にしてやった高官が自分を解放してくれることを期待しましたが、その高官はヨセフのことを忘れてしまったのです。妬みや恨み、そして忘恩など、ヨセフは他の人の罪のために何度も苦しめられ、アップ・ダウンの年月を送りました。しかし、神はどんなときもヨセフとともにいて、ついにヨセフを、エジプトで王に次ぐ地位にまで引き上げられました。このヨセフの物語も、神が「摂理」の神であることを教えています。
わたしたちには先の事が見えません。今、目に見えることがすべてだと思ってしまいがちです。今、恵まれていると、この先も同じ幸いが続くと思って油断することがあります。逆に今、つらい目にあっていると、これから先も、自分の人生はつらくて暗いものになるに違いないと思って絶望してしまうのです。しかし、神は、時間を超えて先のことをご覧になります。神はわたしたちの人生を見ていてくださり、必要なものを備えていてくださるのです。ですから、信仰者は、自分の目には最悪の状況と見えるときも、神は、神に頼る者の人生を導いてくださる、神を愛する者のために万事を益としてくださることを信じるのです。摂理の神を見上げることによって、苦しみから立ち上がるのです。
主イエスは十字架を前にしておられます。人々の救い主が人々によって捨てられようとしています。何ひとつ罪の無い方が、妬み、憎しみ、裏切り、嘲りなど、ありとあらゆる罪によって苦しめられようとしています。神の御子が罪人となり、いのちの主が死なれようとしています。ありえないこと、あってはならないことが十字架で起ころうとしているのです。しかし、主は十字架への道を歩み続けられました。父なる神が愛のみこころをもってすべてを治めておられ、人々の救いのためにすべてを導いておられることを信じ、それに従われたのです。
三、答は与えられる
苦しみの日に、わたしたちが覚えていなければならないふたつ目のことは、神は「後の日」にかならず、苦しみの意味をわたしたちに知らせてくださるということです。主イエスは「あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ16:25)と言われました。「その日」、「その時」が来ると約束されたのです。「その日」、「その時」とは、主イエスの復活の日や弟子たちが聖霊を受けたペンテコステの日のことです。ペンテコステは復活から50日目でしたから、弟子たちは、十字架から二ヶ月もたたないうちに、十字架を前にイエスが語られた言葉のすべてを理解するようになったのです。同じように、わたしたちの問いへの答えも、「その日」が来れば、必ず与えられます。
グリーンランドにはじめて宣教師が行って伝道したのは、18世紀のことでした。そのころグリーンランドではエスキモーたちが鯨をつかまえて、それを命の糧にしていました。鯨は、人々の食糧源であり、また鯨からとれる油は、灯油として使われていました。ところが、宣教師がやってきた年、人々はどんなに努力しても一匹の鯨も捕まえることができませんでした。やがて灯油もなくなり、冬の長い夜の間、人々は暗闇の中で過ごさなければなりませんでした。いよいよ食べ物が無くなり、犬も一匹、また一匹と殺されていきました。そこで、人々は宣教師のところに行って、「おまえの神に頼んで鯨をくれるように」と迫りました。「もし、願いどおり鯨をくれなければ、それは、キリスト教の宣教師がここで働くのを許したのを、この土地の神々が怒っているからだ。その時は、おまえを崖から突き落としてやる」と強迫しました。宣教師は昼も夜も熱心に祈りましたが、鯨は一匹もとれませんでした。それで人々は宣教師を崖から突き落として殺してしまいました。しばらくして、人々が宣教師の死骸を探しに行ったところ、その死骸の側に、一匹の巨大な鯨が横たわっていました。そしてこの鯨が人々を飢餓から救ったのです。人々は、この宣教師を葬り、彼のために鯨の骨で作った十字架の墓標を立てました。人々は心から悔い改めて、この宣教師が伝えた神の前にひざまづきました。この宣教師は「ひと粒の麦」となったのです。
この宣教師は、生きている時、キリストのもとに誰ひとり導くことはできませんでした。伝道に失敗したかのように見えました。自分はなぜグリーンランドにまで来たのか、なぜここで殉教しなければならないのかと思ったでしょう。しかし、その答えは天で与えられました。人生の難問の中には、天に行くまで解答が出ないものもあるでしょう。しかし、わたしたちは天で与えられる答えを信仰によって先取りすることができます。今にいたるまでの多くの殉教者たち、また、苦しむ人々は、天での答えを信仰によって受け取って平安のうちに死を迎え、苦しみの中で慰めを得たのです。この宣教師もそのひとりだったと思います。
最後の晩餐の前に主イエスがペテロの足を洗おうとしたとき、ペテロは「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言って足をひっこめました。その時イエスは言われました。「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう。」(ヨハネ13:7)これは文語訳では「わが為すことを汝いまは知らず。後に悟るべし」となっています。「後に悟るべし。」わたしたちは、その時々の状況にかき回され、いったい自分のまわりで何が起こっているのか、自分がどこに向かっているのか分からなくなってしまうことがあります。そんなときはとても危ないのです。むやみに動くべきではありません。「神さま、わたしを導いてください」と祈り、確かな導きを得て行動しましょう。
こんな証しを聞きました。ある人がはじめての道をドライブしていて、深い霧に巻き込まれました。道路の車線もよく見えないほどでした。そのとき、地元のポリスカーがやってきて、その人の前を走ってくれました。その人はポリスカーのテールライトを頼りに、その霧を通り抜けることができました。そのときその人は、主イエスもまたこのように、霧の中の光となって人生を導いてくださっていることを感じ、主に感謝したとのことでした。
人生の霧は誰にでも襲ってきます。しかし、霧は長くは続きません。かならず晴れる時が来ます。どんな深い霧の中でも主はわたしたちを導く光になってくださいます。霧が晴れたとき、霧をくぐりぬけたとき、わたしたちは神のみこころを知るでしょう。「後に知るべし。」苦しみの日には、いいえ、苦しみの日にこそ、この言葉を心に刻みましょう。霧の向こうにかならず答えがあることを、その答えに向かって導いてくださる主がおられることを信じて、一歩、一歩進んでいきましょう。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちは時として人生の難問に悩みます。しかし、そんなときも、あなたがすべてを治めておられ、わたしたちのために救いを用意してくださっておられます。どうぞわたしたちにそのことを深く覚えさせてください。信仰によってあなたの答えを見出すことができるよう、わたしたちを導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/15/2015