わたしの名によって

ヨハネ16:23-28

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16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。
16:25 これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。
16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。
16:27 それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。
16:28 わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

 一、三位一体

 きょうは三位一体主日です。クリスマスに御子である神が人となって世に来られ、ぺンテコステに聖霊なる神が人々の上に降って来られました。このことによって、おひとりの神が父なる神、子なる神、聖霊なる神として存在しておられることが示されました。One God in three persons, Thee persons in one God というわけです。これを教会は「三位一体」 Blessed Trinity と呼び慣わしており、ペンテコステの次の日曜日を「三位一体主日」に定めてきました。

 いま、「おひとりの神が父なる神、子なる神、聖霊なる神として存在しておられることが示された」と言いました。「示された」と言っても、私たち人間がそれを完全に理解できるという意味ではありません。「1+1+1=3」というのなら、だれもが理解できますが、三位一体というのは「1+1+1=1」というわけですから、人間の人間の論理では捉えることができません。そこである人は「1/3+1/3+1/3=1」という計算をしましたが、父、子、聖霊はそれぞれ完全な神であり、 お三方があわさってやっと一人前になるという1/3の神ではありません。また、ある人は、おひとりの神があるときは父、あるときは子、あるときは聖霊として現れ、ひとり三役をこなしておられるのだとも言いますが、三位一体はそのようなものでもありません。人間は、自分が何者であるかということさえ、十分に理解してはいませんし、自分のことであっても十分には理解できません。自分のことさえ分からない私たちが、神が三位一体のお方であるということを完全に理解できないのは当然と言えば当然です。私たちが三位一体について学ぶのは、太平洋の水をバケツで汲み出そうとするようなもので、三位一体のすべてを知り尽くすことはできません。

 しかし、だからといって、三位一体について学ぶ必要がないわけではありません。もし、そうなら、神は三位一体の真理を私たちにお示しにはならなかったはずです。そのすべてを知り尽くすことはできなくても、私たちの信仰に必要なことは必ず知ることができます。それは、私たちが神の愛についてすべてを知り尽くすことができなくても、主イエスの十字架によって神の愛を確信することができるのと同じです。

 三位一体の真理を謙虚に受け入れる人は、神をさらに深く知り、体験し、そこから大きな力と慰めとを得ることができます。「三位一体などという面倒なことより、もっと他の役に立つことを知りたい。元気の出る話を聞きたい」と言う人もいるかもしれませんが、神を知ることは他のどんなことにもまさって私たちの力になり、消えることのない喜びを与えてくれます。主イエスは真理は私たちを自由にする(ヨハネ8:22)、私たちをきよめる(ヨハネ17:19)と言われました。使徒パウロは「愛は真理を喜ぶ」(コリント第一13:6)と教え、使徒ヨハネは「恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちに」ある(ヨハネ第二2)と教えています。神を愛するなら、神を知りたいと願うはずです。神を知りたいと願う人に、神は真理を悟らせてくださいます。そして、真理を悟ると、それがその人の喜びになり、力になるのです。皆さんも、真理を求め、真理に従うことによって、この世にあってもそのような喜びと力とを味わってこられたことと思います。

 二、三位一体と救い

 三位一体の真理はクリスチャンの信仰の基礎です。どんなに神が唯一であると信じていても、イエスの教えを素晴らしいとほめたたえたとしても、もし、三位一体の神を信じないなら、それはキリスト教の信仰ということはできません。聖書は、どこを開いても、三位一体の神を描いています。ヨハネ3:16が「小さな聖書」と呼ばれ、ここに聖書のメッセージの要約があると言われますが、ヨハネ3:16も三位一体の神を示しています。ヨハネ3:16は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と言っています。ここには、父なる神と子なる神が語られています。そして続くことば、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」の部分には、人を新しく生み出し、永遠のいのちを与えてくださる聖霊なる神が、隠れた形ですが、語られているのです。ヨハネ3:16は救いは三位一体の神によると教えています。

 エペソ1:3-14は、父、子、聖霊がどのように私たちを救ってくださったかを描いています。父なる神が私たちを救いに選んでくださった。御子であるイエス・キリストが十字架の死によって私たちを贖い取ってくださった。聖霊が私たちの救いの保証になってくださったと教えています。私たちは、父なる神が計画し、御子イエスが実行し、聖霊が保っていてくださる救いをいただくのです。父だけでも、御子だけでも、また聖霊だけでもなく、父と子と聖霊の神が総がかりで私たちの救いのために働いてくださっているのです。これにまさる励ましがどこにあるでしょうか。主イエスはヨハネ10:28と29で「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」と言われました。救われた者は父なる神の大きな手でしっかりと守られており、さらに主イエスの手が支えていてくださるのです。そればかりでなく、聖霊が救いの証印として与えられています。私たちは、三位一体の神によって二重、三重の守りの中に入れられているのです。「父と子と聖霊の名によって」授けられるバプテスマは、父と子と聖霊による救いと守りのしるしです。

 三位一体の神が人を救うのですから、人を救う信仰は三位一体の神を信じる信仰でなければなりません。アタナシオス信条は「凡て救われたいと願う者は、何よりも公同の信仰を保つことが必要である。その信仰を、何人も、完全にしかも汚されることなく守るのでなければ、疑いもなく永遠に滅びるであろう。公同の信仰とはこれである。我らが一つなる神を三位において、三位を一体において、礼拝することである」と言っています。私たちの礼拝では、最後に「父、御子、みたまの おおみかみに ときわにたえせず みさかえあれ」との祈りを歌にしてささげます。そして、「御子イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊のまじわりが一同とともにありますように」という祝福を受けるのです。三位一体の神を信じ、三位一体の神とまじわり、そして、三位一体の神の栄光のために生きる。これが、クリスチャンの礼拝であり、信仰の歩みなのです。

 三、三位一体と祈り

 三位一体の神をいちばん身近に体験できるのは、なんと言っても祈りです。三位一体は、それを理論として理解しようとしても、誰も出来ないでしょう。しかし、祈りの世界では三位一体はごく自然に体験できます。私たちは、父なる神にも、主イエスにも、そして聖霊にも祈ることができますが、多くの場合は、聖霊の助けによって、主イエスのお名前によって、父なる神に祈ります。そのように祈る中に、私たちは三位一体の神を体験するのです。

 主イエスは「天におられる私たちの父よ」と祈れと教えてくださいましたから、「父なる神に祈る」ということについては、多くを語る必要はないでしょう。私たちは神が私たちの父であって、こどもたちの願いを、寛大な心で聞いてくださることを知っています。しかし、神が「父なる神」と呼ばれるのは、神が父のように大きな心を持ち、私たちが信頼を寄せることができるお方だからというだけではありません。神はほんとうに父なのです。神は御子イエス・キリストを「生んだ」父です。御子イエス・キリストは人とはなられましたが、決して、私たち人間と同じように「造られた」ものではないことを示すために、聖書は、御子は永遠のはじめに父から「生まれた」お方であると言っています。ニケア信条に「主は神のひとり子、すべてに先立って父より生まれ、神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られることなく生まれ、父と一体。」とあるように、イエス・キリストは Not made, but begotten なのです。神は御子を「生む」ことによって文字通り父になられました。そして、御子を信じる者をも、神のこどもにしてくださるのです。私たちは、神の目から見て、もとは「罪の奴隷」でした。奴隷が自由にされるためには「贖い金」が支払われなければなりませんが、神は神の御子のいのちによって、私たちを自由にしてくださいました。そればかりでなく、御子イエス・キリストを信じる者をアダプトし、神の子としての身分を与えてくださいました。霊的に奴隷があれば神を「主」と呼ぶことができたとしても、神を「父」と呼ぶことはできません。もし、キリストの十字架と復活がなければ、私たちは依然として罪の奴隷のままで、罪の奴隷には、神を「父よ」と呼ぶ権利は何ひとつないのです。神を「父なる」神と呼んで祈ることができるのは、決してあたりまえのことではなく、御子イエス・キリストによって与えられる大きな恵みであり、特権なのです。

 ヨハネ16:23で「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。」とイエスが言われたのは、この特権を指しています。「わたしの名」とは、イエス・キリストのお名前です。「名」というのは不思議なものです。それはある人を別の人と区別する符号ではありません。人の「名前」というものには人格がこもっています。また、その人が権威を持っていれば、その名前は力を持ちます。「アーノルド・シュワッツネガー」という名が公式の文書に署名されるとき、その名によって州の予算が使われ、さまざまなことが行われるようになるのです。たとえ、知事がそこにいなくても、その名前が使われるどこにでも、知事の権限でものごとがなされていきます。そのようにイエスのお名前も、その名前が使われるところではどこでも力を持つのです。イエスは、世を去る前に「わたしの名によって父なる神に求めなさい」と弟子たちに言い残されました。イエスご自身は世を去られても、イエスはその名を弟子たちに与え、世に遺していかれました。イエスの名を持つことによって、弟子たちはイエスご自身を持ったのです。イエスは弟子たちに言われました。「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(16:26)「その日」とは、イエスの復活と昇天、そして聖霊降臨の後の日、今の時代、きょうのこの日のことです。「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」と言うのは、主イエスのとりなしがいらないという意味ではありません。主は私たちのためにいつもとりなしていてくださいます。このことばは、私たちがイエスのお名前によって、神の子どもとしての立場を得て、もっとダイレクトに、もっと大胆に、父なる神に祈ることができるようになるという意味です。私たちが祈りの最後に「イエス・キリストのお名前によって祈ります」と唱えるのは、決して、「これで祈りを終わります」という意味ではありません。イエス・キリストのお名前を呼ぶことによって、私たちは、「イエス・キリストはあらゆるものの主であることを信じます。この最も高く、きよく、力あるお名前によって私は救われ、神の子どもとしていただきました。ですから、神さま、私はあなたの子どもとして、あなたを『父よ』と呼んでいます。御子イエスのゆえにこの祈りを聞き入れてください。」と願うのです。

 私たちは父なる神に、御子イエスを通してだけでなく、聖霊の助けによっても祈ります。神を「父よ」と呼ぶことも、「イエスは主キリスト」と言い表して、その名に信頼することも、聖霊の助けがなければできないからです。「私たちは御霊によって『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(コリント第一12:3)と聖書にある通りです。ですから、私たちは祈るときにはたとえ、はっきり意識していなくても、父なる神に、御子を通し、聖霊によって祈っているのです。神が三位一体のお方でなければ、私たちはほんとうの意味で神に祈ることができないのです。私たちは三位一体の神に、三位一体の神により祈っています。さらに、三位一体の神とともに祈っていると言うこともできます。祈りに励む人は、それによって三位一体の神を体験的に知ることができます。さらに深い三位一体の神とのまじわりに導き入れられます。そのことを目指して、祈りましょう。御子イエス・キリストのお名前を信じ、それに頼り、祈り続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、十字架の死にいたるまでもあなたに従い、黄泉にまで降られた御子イエスを、あなたは、復活と昇天によって高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも、すべてのものがそのお名前を崇め、そのお名前に服従しています。そんなにも尊く、力あるお名前が私たちに与えられていることに、恐れさえ感じます。イエス・キリストのお名前が持つ力をさらに知らせてください。その名によって祈ることの意味を悟らせてください。そして、私たちの祈りがあなたと御子と御霊を、永遠にあがめるものとなりますように。御子イエスのお名前で祈ります。

5/30/2010