奪われない喜び

ヨハネ16:20-22

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16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。
16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

 イエスは、最後の晩餐の後、弟子たちに多くのことを語られました。前回は「愛の戒め」について学びましたが、きょうは、「喜び」について学びましょう。

 一、復活の喜び

 イエスは、ヨハネ16:16で「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」と言われました。これは、十字架での死と、三日目のよみがえりのことを言っておられるのですが、そのときの弟子たちには、それが何を意味するのか分からずにいました。それで、イエスは、20節からの言葉を語られたのです。

 20節で使われている「泣き」、「嘆き悲しむ」との言葉は、ラザロが亡くなったとき、マルタやマリア、また、ベタニヤの村の人たちが嘆き悲しみ、イエスも涙を流されたことを記した箇所で使われています。それは、死者をいたんでの「嘆き悲しみ」のことです。イエスは、ご自分が亡くなられ、弟子たちがそのことを嘆き悲しむようになると言われたのです。

 また、イエスは、「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます」とも言われました。この「世」とは、神に敵対するすべてのものを指しています。「世は喜びます」とあるのは、イエスを殺害しようと計画してきた人々がそれを成功させたことを指します。けれども、それは、一時的なものに過ぎませんでした。イエスはよみがえられ、「死」にも、「世」にも勝利されたからです。

 それで、イエスは弟子たちに、「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言われたのです。実際、そのことは、日曜日の朝早く起こりました。イエスの遺体に香油を塗るためにやって来た女の弟子たちが墓に着くと、墓は空っぽで、御使いが「イエスはよみがえられた」と告げました。聖書は、「彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った」(マタイ28:8)と言っています。悲しみながら、とぼとぼと墓に行った女の弟子たちは、イエスの復活の知らせに「喜び」、「走って」、墓から帰って来たのです。

 マグダラのマリアは、イエスの遺体がなくなっていることに呆然として、空っぽの墓に向かって座り、泣いていました。すると、彼女の後ろから「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」との声を聞きました。マリアはそれが園の管理人だと思い込んでいたのですが、後ろからの声が「マリア」と自分の名前を呼んだので、振り向くと、そこにイエスがおられました。マリアはすぐに弟子たちのところに行き、「私は主を見ました」と言いました。墓で泣き崩れていたマリアの「悲しみ」は、よみがえられたイエスに出会って、「喜び」に変えられたのです。

 イエスが、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」、「あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言われたのは、十字架と復活のことでした。イエスの死を嘆き悲しんでいた弟子たちの悲しみは、イエスの復活によって喜びへと変えられました。復活が弟子たちに喜びを与えたのです。

 イエスの復活を知らない人たちは、この喜びを持っていません。「人は死んだら終わりだ」、「一度失敗したら二度と立ち上がれない」と言って、希望のない、投げやりな人生を送るしかありません。悲しみが癒やされ、喜びに変ることを知りません。しかし、イエスの復活を知る私たちは、死のかなたにも命がある、どんな失敗であっても立ち直れる、悲しみは喜びに変ることを知っています。「悲しみは喜びに変る。」それは、私たちの、そうであったらいいのにというたんなる願いや、ぼんやりとした期待ではありません。それはイエスが、「まことに、まことに(アーメン、アーメン)」と言って、約束されたことです。真実な(アーメンである)イエスは、この約束を必ず果たしてくださるのです。

 二、苦しみから生まれる喜び

 〝No pains, no gains! No cross no crown!〟これは、人生で良いものは、何の痛みも苦しみもなく、楽々得られるものではないことを言っている言葉です。イエスが天の栄光に入ったのは、十字架の道を通ってでした。ピリピ2:6-9に「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」とあります。また、ヘブル12:2には、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」とあります。

 「イエスを信じる信仰は喜びの信仰、信仰生活は喜びの生活なのだから、明るく、楽しいことだけを考えましょう。教会では、十字架や苦しみなど、心を暗くするものには触れないで、明るい面だけを語るようにしましょう」といった話を聞いて、私は、唖然としたことがあります。それは、聖書の教えではなく、「積極思考」という心理学の教えに過ぎません。たんに苦しみのないことが喜びだとしたら、その喜びはなんとうすっぺらなものでしょう。イエスを信じる者は、たとえ苦しみや悲しみの中にあっても、その中で守られ、それを感謝することができます。さまざまな困難に取り囲まれていても、なお生かされていることを喜ぶことができ、その喜びによって前進することができるのです。

 イエスは、苦しみや痛みの中から喜びが生まれることを教えるために出産を例にとり、こう言われました。「女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。」(21節)「産みの苦しみ」は、男性には分からないものですが、男性も、何かの事業を成功させるまで、何度も失敗したり、お金を失ったりなどして、「産みの苦しみ」をします。小説家は一冊の本を書き上げるまで、何枚もの原稿用紙を破り捨て、「産みの苦しみ」をします。科学者も、発明・発見のため、また、新しい理論を組み立てるために、実験を繰り返し、試行錯誤をし、「産みの苦しみ」をします。使徒パウロも、「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4:19)と言って、伝道や牧会のための苦しみを「産みの苦しみ」と言っています。男の弟子たちも、イエスが、「産みの苦しみ」という言葉を使って、十字架の苦しみは、苦しみで終わらず、復活の喜びをもたらす、それは死で終わるものではなく、命をもたらすことを言っておられたのだと、後になって悟ったのです。

 イエスは、十字架と復活を「産みの苦しみ」とその後の「喜び」にたとえられましたが、このたとえは、弟子たちがこれから味わう苦しみについての教えでもありました。それは、イエスにあっては、どんな苦しみや痛みも、意味があり、目的があり、必ず素晴らしい結果を生み出すということです。聖書に「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。/それにより 私はあなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)とあるように、イエスを信じる者にとって無駄な苦しみはありません。あわれみ深いイエスは、苦しむ者と共にいて、私たちの苦しみを和らげてくださいますが、それと共に、苦しみからしか学べないことを教え、私たちをよりいっそう神に近づけてくださるのです。

 また、それは、どんな苦しみも永遠に続くものではないことを教えています。「産みの苦しみ」は、子どもが生まれるまでのものです。イエスにとって、苦しみは、十字架のときだけでなく、そこに至るまでのご生涯のすべてが苦しみの連続でした。けれども、その苦しみもまた、終わるとき、完了するときがありました。イエスが十字架の上で、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われたとき、イエスが罪人の身代わりとなって苦しまれた苦しみは終わったのです。その流された血潮によって贖いは完了し、成就したのです。ですから、イエスは、そのあと、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」(ルカ23:46)と言って、平安のうちに息を引き取られたのです。

 イエスのお苦しみが永久のものでなかったように、イエスを信じる者にとって、どんな苦しみも永久に続くものではありません。そのことが分かっていないと、受けている苦しみにさらに苦しみが加わり、絶望してしまいます。聖書は言います。「涙とともに種を蒔く者は/喜び叫びながら刈り取る。」(詩篇126:5)「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(コリント第二4:17)イエスにあっては、どんな苦しみも、やがて、それは喜びに変ります。そのことを信じて、「一時」の間を耐え忍びたいと思います。

 三、イエスに会う喜び

 イエスは弟子たちに約束されました。「あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(23節)弟子たちは、このお言葉通り、再びイエスにお会いしました。イエスは、復活されてから40日にわたって、500人以上の弟子たちに現われ、そして、天にお帰りになりました。ルカ24:50-53にこうあります。「それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」

 使徒2:46には、「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、…」とあります。使徒たちは、迫害を受けましたが、「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜び」ました(使徒5:41)。イエス・キリストの福音は、遠くユダヤを離れたところでも宣べ伝えられ、そこでイエス・キリストを信じた人々について、聖書は、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(使徒13:52)と言っています。

 じつに、イエスを信じる者たちには「喜び」が溢れていました。弟子たちは、以前のようにイエスを肉眼で見ることも、その声を直接耳で聞くこともなくなったのに、なぜ、そんなに喜びにあふれていたのでしょう。それは、イエスを信じ、愛することによって、いつでも、自分の内面でイエスに会うことができたからです。聖書はこう言っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」(ペテロ第一1:8)これが、イエスが約束された喜びです。最初の弟子たちが持っていた喜びで、現代の私たちも持つことができる喜びです。そして、この喜びは、苦しみや困難によっても、奪われることはありません。それは、私たちの霊のうちにある喜びですから、どんなに環境が変わっても、外側のものが変わっても消えることはないのです。出来事や環境に基づいた「喜び」は、簡単に消えてなくなります。しかし、信仰と愛によってイエスに出会う喜びは決して失くなりません。イエスこそが喜びのみなもとだからです。

 アウグスティヌスは、クリスチャンを「イースター・ピープル」と呼びました。よみがえられたイエスにお会いする喜びに満たされているからです。私たちもまた「イースター・ピープル」である幸いを感謝し、喜びをもって日々を過ごしたいと願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエス・キリストの十字架と復活によって私たちを救ってくださっただけでなく、それを通して私たちの受ける苦しみの意味をも教えてくださいした。苦しみは栄光に、悲しみは喜びに、必ず変ることを信じます。信仰と愛によって与えられる、消えることなく、奪われることのない喜びで私たちを活かしてください。よみがえり、私たちと共にいてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。

4/21/2024