15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
イエスは多くのことを〝たとえ〟を使って話されました。神のことや天上のこと、霊的なことや信仰的なことは、人間のことや地上のこと、物質的なことや目に見えることとは違っていて、人間の言葉では十分に説明しきれないからです。それでイエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と言われ、ご自分とご自分を信じる者との目に見えない関係を、目に見えるぶどうの木と枝で例え、示されたのです。
イエスが、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と言われたのは、イエスがまさに世を去ろうとしておられたときでした。弟子たちは、今までのように、四六時中イエスと一緒にいることができなくなります。だからこそ、イエスは、ご自身と弟子たちとの霊的なつながりをこの時、しっかりと教えようとされたのです。
弟子たちは、イエスのことばをすぐには理解できなかったようです。「イエスがぶどうの木で、自分たちが枝であることはなんとなく分かる。しかし、どのようにしてイエスにつながっていることができるのだろうか。」弟子たちには、そうした素朴な疑問があったことでしょう。イエスは、そうした疑問を順々に解きほぐし、より具体的なことを教えられました。
一、キリストのことばをとどめる
7節で、イエスは「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら…」と言われました。イエスにとどまることは、みことばを自分のうちにとどめることだと言われたのです。エペソ3:17に、「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」とありますが、信じる者のうちには、イエス・キリストが「住んで」くださるのです。「住む」ことと「訪れる」こととは違います。「住む」というのは、そこにとどまり、ずうっと共にいることです。イエスはゲストとして私たちたちのところに一時的に来られるのでなく、「私」というホームに家族の一員として、また、一家の主人として来てくださり、ずうっと共にいてくださるのです。「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」とは、イエス・キリストを受け入れた私たちが、キリストが私たちの内におられることを確信し、キリストと共に生きることができるようにとの祈りなのです。
このエペソ3:17と対になっているのが、コロサイ3:16です。そこには、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」とあります。「キリスト」と「キリストのことば」が置き換えられています。「キリストのことばを住まわせること」が、「キリストを住まわせること」になるというのです。イエスは世を去ろうとしておられます。目に見える形では地上におられなくなります。しかし、イエスのことばは残ります。イエスのことばを信じ、受け入れることによって、私たちはイエス・キリストを受け入れます。みことばを心に住まわせることによって、キリストに私の内に住んでいただくのです。
「キリストが私のうちにおられる。」これ以上に心強いこと、大きな慰めはありません。使徒パウロは、イエス・キリストを宣べ伝えたため大きな苦しみに遭いました。しかし、決してくじけませんでした。あきらめませんでした。それは、自分のうちにおられるイエス・キリストをいつも感じ取っていたからです。パウロはガラテヤ2:20でこう言っています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」コロサイ1:27には、「この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」とあります。キリストが私たちのうちにおられることは、信仰の奥義、つまり、イエス・キリストを信じる者が知っていなければならない大切な真理なのです。「わたしはぶどうの木、あなたがは枝です。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら…」とイエスが言われたように、キリストのことばを内にとどめているなら、私たちは、キリストが私たちの内に住んでおられ、私たちがキリストのうちにあることが分かり、そこから来るすべての祝福が私たちの生活に現れるようになるのです。
二、キリストの愛にとどまる
キリストが私たちの内にとどまり、私たちがキリストの内にとどまることは、私たちがキリストの愛にとどまることによって成就します。9節でイエスが、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい」と言っておられる通りです。では、「キリストの愛にとどまる。」具体的には、どうすることでしょうか。
それは、「キリストの愛」を知ることから始まります。イエスは「愛」という言葉を使われましたが、決して一般的な愛を言っておられません。現代は「愛」という言葉が氾濫し、自分勝手な欲望や、神のみこころに反することまで、「愛」という言葉を使って正当化するようになりました。それは、イエスの時代でも同じだったでしょう。それで、イエスは、たんに「愛」と言われたのではなく、「わたしの愛」と言われたのです。イエスが「わたしの愛」と言われたのは、父なる神が御子イエスを愛され、その愛で、御子イエスが弟子たちを愛された愛です。
イエスは、最後の晩餐のとき、その愛を弟子たちの足を洗うことによって示されました。当時、食事に招かれた人たちは、その家のしもべに足を洗ってもらってから食卓に着きました。ところが、そこには足を洗うしもべがいませんでした。弟子たちの誰も、自分から進んで他の弟子たちの足を洗おうとはしませんでした。そんなおり、イエスが腰にタオルを巻き、たらいに水を入れて弟子たちの足を洗いはじめたのです。それは、弟子たちに互いに足を洗い合うようにとの模範を示すとともに、ご自分の愛を弟子たちに注ぎだすためでもありました。ヨハネ13:1に「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」とある通りです。「最後まで」とは、「極限まで」という意味です。イエスは残すところなく、私たちに愛を注ぎ出されたのです。
続く過越の食事ではパンを裂き、「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです」と言われ、ぶどう酒を杯に注いで、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です」と言われました。それは、イエスが、私たちを愛して、私たちの救いのために進んで十字架の苦しみを受け、いのちを献げられることを表しています。イエスが「わたしの愛」と言われたのは、罪ある者のために、その救いのために、進んでご自分を献げられた愛なのです。このようにして、イエスはご自分の愛を、目に見える形で弟子たちに示されました。
私たちがイエス・キリストを信じるのは、イエス・キリストが聖書に預言されたお方であり、ただお一人、その預言を成就されたお方だからです。細見先生が書かれた本の中に、ナポレオンの時代、フランスで一人の無神論者がキリスト教に代わる合理的な倫理宗教を編み出し、人々を集めようとしたが成功しなかったというお話があります。そこで、その人は時の政治家タレーランに相談したところ、答えはこうだったそうです。「一策あるが、やって見ないか。君が人類のために死んで、それから三日目に復活することだ。」(『伝えたいこと』30頁)そんなことができる人間は誰もいません。このお話は、イエス・キリストこそが、ただ一人聖書を成就した、まことの救い主であることを言っています。
私たちがイエスを信じるのは、そのような十分な根拠があるからなのですが、それと同時に、イエスのように、私たちを愛されたお方は世の中には誰もいないからです。ガラテヤ2:20には、「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子」とあります。「私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子」、このお方の愛、十字架の愛に触れてはじめて、私たちは、本物の愛を知ります。イエスが「わたしの愛」と言われた愛にとどまることができるのです。
三、互いに愛し合う
このキリストの愛を知った者は、その愛で互いに愛し合うようになり、それによってキリストの愛にとどまるのです。10節で、イエスが、「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」と言われた通りです。ここで、「わたしの戒め」とあるのは、イエスが過越の食事のとき、「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と言われた愛の戒めです。それは、12節で短く繰り返されています。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」
互いに愛し合うこと。これは、「隣人を愛する」こととは別のものです。神を愛し、隣人を愛する。これはすべての人に与えられた戒めです。当然、クリスチャンもこの戒めのもとにあります。そして、神の愛を知るクリスチャンこそが、本当の意味で「神を愛し、隣人を愛する」ことができます。イエスが言われた「互いに愛し合う」とは、第三の戒め、新しい戒めで、信じる者たちが互いに愛し合うことを言っています。もちろん、それは、クリスチャンが自分たちだけで愛し合えばそれでよいという意味ではありません。私たちが互いに愛し合うのは、もっと神を愛し、より隣人を愛することができるためです。愛のある家庭で育った子どもは、言われなくても、他の人々を大切にする大人に成長します。そのように、神の子どもたちも、互いに愛し合うクリスチャンのつながりの中で、愛を実践する者へと育てられていくのです。
また、クリスチャンが互いに愛し合うのは、それによって、神の愛を証しするためです。神の愛を説く者が、互いに憎み合うようなことがあれば、誰がその言葉に耳を傾けるでしょうか。イエスは父なる神にこう祈られました。「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」(ヨハネ17:23)私たちは、互いに愛し合うことによってキリストの愛にとどまります。それによって、人々に、神の愛、キリストの愛を力強く証しすることができるようになるのです。
11節でイエスは、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました」と言われました。イエスは、これから十字架に向かおうとしておられます。弟子たちも大きな悲しみを味わうことになるのです。ところがイエスは「喜び」を口にされました。しかもその喜びは、「わたしの喜び」と言われているように、イエスが私たちのために勝ち取り、私たちに与えてくださるものです。愛のあるところに喜びがあります。それは愛の喜びです。
キリストの愛はすべての人に届く広いものです。永遠までも続く長いものです。何にも比べることができない高いものです。私たちの生活のどんな状況にも届く深いものです。そして、愛の喜びも同じように、広く、長く、高く、深いのです。みことばによってキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を思い見ましょう(エペソ3:18)。キリストの愛にとどまり、愛の喜びに満たされ、日々を歩みましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちは、今、どんなにあなたに愛されているかをもう一度思い返しています。私たちがキリストの愛にとどまり、その愛を体験できますように。また、その愛によって互いに愛し合うことができますように。そのことによって、ほんとうの愛を知らない人々に、あなたの愛を証しすることができますよう助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/15/2024