15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
今日は「パームサンデー」で、今日から受難週に入ります。レントの期間「紫」だったプルピット・スカーフも「赤」に変わりました。「赤」はイエスが十字架の上で流された血の色です。私たちの罪のための身代わりとなって苦しみ、死なれたキリストの十字架の苦難と死とを表わしています。受難週の一日一日はすべて大切な日ですが、木曜日の夜から日曜日の早朝にかけての三日間は「聖なる三日間」と呼ばれ、キリストの受難と復活をこころに深く刻みつけるときとして、全世界で守られています。
聖金曜日には「グッドフライデー」という名が付いていますが、聖木曜日にもちゃんと名前がついています。「戒め」という意味の "maundy" という言葉がついて "Maundy Thursday" と言います。「サーズディなのにマンディとはこれ如何に」という洒落が生まれそうですが、これはこの日に読まれる聖書(ヨハネ13:34)が、ラテン語で "Mandatum novum do vobis"(新しい戒めをあなたがたに与える)とあって、「戒め」という言葉で始まっていることからそう呼ばれるようになったのです。
イエスが世を去る前に弟子たちに与えた「戒め」、それは「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)でした。イエスはこの戒めをヨハネ13章だけでなく、そのあとに続く章でも繰り返しておられ、その意味を教えておられます。「互いに愛し合う」という戒めはとても美しい戒めです。「戒め」ということばを聞くと抵抗を感じる人であっても、素直に受け取ることができるものです。しかし、イエスはたんに「互いに愛し合いなさい」とだけ言われたのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられました。イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いを愛するとなると、それは簡単なことではありません。イエスの愛の戒めを守るためには、まず、イエスが私たちをどんなに愛してくださったかを知ることからはじめなければなりません。聖書が「神は愛です」と言っているように、愛のみなもとは神ですから、神から愛を受けてはじめて私たちは人を愛することができるのです。私たちが神を愛する以前から、神は私たちを愛してくださっていました。イエスは「わたしはあなたがたを愛した」と言っておられます。このイエスの愛につながっていることによって、それをを受け続けることによって私たちは「互いに愛し合う」ことができるのです。それでイエスはヨハネ15:9で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言われたのです。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」とありますが、イエスは私たちをどんな愛で、どのようにして愛してくださったのでしょうか。また、どうしたら私たちはその愛の中にとどまっていることができるのでしょうか。イエスが十字架にかかられる前の日、木曜日の夜、イエスがしてくださったふたつのことをふりかえって、考えてみましょう。
一、弟子たちの足を洗ったイエス
木曜日の夜、イエスはふたつのことをなさり、目に見えるかたちでその愛を表わされました。その第一のことは、イエスが弟子たちの足を洗ったということです。
この日、イエスは弟子たちと一緒に過越しの食事をするために、かねてから用意してあった家に向かいました。ふつう、家に入って食事をする前には埃にまみれた足を洗ってもらいます。そして、足を洗うのはしもべの仕事でした。ところが、主であり、師であるイエスがタオルを腰に巻いて、弟子たちの足を洗いはじめたのです。これを見て弟子たちは自分から進んでイエスの足を洗い、他の弟子たちの足をも洗おうとしなかったことを恥じたことでしょう。皆、黙ってイエスに足を差し出しました。しかし、ペテロは自分の番になったとき、「私の足を洗わないでください。」と言い出しました。「先生に足を洗わせるなど、あまりにももったいない」と思ったのでしょう。しかし、イエスはペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われました。このことばには深い意味があります。イエスが弟子たちの足を洗われたのは、互いに謙遜になって仕えあうべきことを弟子たちに教えるためでしたが、ただそれだけではありませんでした。もし、謙遜を教えるだけなら、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」などというような強いことばをイエスは使わなかったでしょう。
イエスが弟子たちの足を洗ったことの中には、イエスが人々の罪を洗いきよめるために十字架の上で血を流して死んでいかれることが示されています。過越の食事は、かつてイスラエルがエジプトで奴隷だったとき、子羊の血によって救われたことを記念するためのものでした。出エジプトのとき、子羊がイスラエルの人々のために屠られたように、イエスもまた過越の子羊となって、全人類のために十字架の上で血を流して死んでいかれました。このイエスの血が人をその罪から救うのです。「イエス・キリストの十字架の死が私の罪のためであった」と信じる者はその罪がゆるされ、その罪からきよめられるのです。イエスが水で弟子たちの足を洗われたのは、イエスがその血によって人の罪を洗いきよめてくださることを意味しています。ですから、ペテロのようにイエスに足を洗ってもらうことを拒むことは、イエスに罪をゆるしてもらい、きよめてもらうことを拒むことになるのです。イエス・キリストは「罪びとを救うために」世に来られました。ですから、もし、「自分にはイエスにゆるしてもらわなければならないほどの大きな罪はない。」と言って罪のゆるしを願わないなら、私たちはイエスと何の関係もない者になってしまうのです。そして、イエスと何の関係もなければ、イエスの「愛の中にとどまる」こともできなくなってしまいます。
聖書は、人は罪を持ったまま神に近づくことはできないと教えています。罪は人を神から引き離すものです。しかし、同時に、もし、人が「自分には罪がない。」と言うなら、それによっても、人は神から遠い者になってしまいます(ヨハネ1:8)。イエスは罪びとを裁くためではなく、その罪をゆるし、きよめるために世に来られました。罪びとを退けるためではなく、引き寄せるために来てくださったのです。イエスは、罪びとの罪をその身に背負い、罪びとが受けるはずの裁きを十字架の上で受けてくださいました。これが、イエスの私たちへの愛です。イエスが弟子たちの足を洗ったことの中には、この大きく、深い愛が示されているのです。
この世に完全な人は誰もいません。完全に神を愛し、人を愛することができる人もいないでしょう。もし、そういう人がいたとしたら、そういう人はきっと、神を愛したいと願いながらもこの世のものにも引っ張られていく弱い人や、人を愛したいと思いながらそれができないで悩んでいる人を厳しく批判するだけで終わってしまうでしょう。愛される値打ちのない自分がイエスのいのちがけの愛で愛されている。ゆるされるはずのない自分が、イエスの十字架のゆえにゆるされている。そのことを知る人だけが、他の人をゆるし、その立場を理解し、受け入れようと努力することができるのです。イエスが「わたしの愛の中にとどまりなさい。」と言われたのは、イエスが示された罪びとへの愛によって生きるようにということでした。弟子たちがひとり残らずイエスに足を洗ってもらわなければならなかったように、私たちもイエスに罪をゆるされながら生き、きよめに近づいていくのです。そして、そこから「互いに愛し合う」という戒めに生きる者へと変えられていくのです。
二、ご自分のからだと血を与えたイエス
木曜日の夜、イエスがその愛を示すためになさった第二のことは弟子たちにパンをご自分のからだとして、ぶどう酒をご自分の血として与えたことです。
弟子たちの足を洗い終わったイエスは食卓に着き、弟子たちも食卓に着きました。そして、過越の食事が始まりました。その食事で、イエスはパンとぶどう酒を取り、「これはわたしのからだである。」「これはわたしの血である。」と言って弟子たちにお与えになりました。「わたしを覚えてこれを行いなさい。」と言って、聖餐を定めてくださったのです。教会によっては「洗足式」といって、イエスがなさったように、実際に足を洗い合う儀式を木曜日にするところがありますが、イエスは実際に足を洗い合うようにと命じられたわけではありません。しかし、聖餐では実際にパンを食べぶどう酒を飲むようにと定められ、教会はイエスの教えの通り聖餐を守り続けてきました。それは、聖餐がキリストの愛を示し、それを私たちに分け与えてくれるものだからです。
聖餐は十字架の死がアクシデントでもハプニングでもない、イエスが全人類の罪のゆるしのためにご自分をささげられた「犠牲」であることを教えています。大祭司であるイエスがご自分を犠牲の子羊とし、十字架という祭壇の上に、みずからをささげられたのです。「愛はその犠牲の大きさによってわかる。」と言われますが、イエスの愛の大きさはご自分のすべてをささげ尽くされたことによって示されています。聖餐は、ご自分のからだも血も、たましいも神としてのお力も、すべてを与え、ささげ尽くされた、イエスの犠牲の愛を表わしています。
旧約の犠牲の多くは、焼き尽くして神にささげてしまうのですが、ささげられた犠牲の肉を食べる場合もありました。過越の子羊がそうでした。過越の子羊は神にささげられたあと、調理されて過越の食事となったのです。イエスは過越の子羊です。イエスは、ご自身を神にささげられただけでなく、同時に、信じる者たちにもご自身を分け与えてくださるのです。私たちは聖餐によってイエスを受け取り、イエスがその犠牲によって勝ち取ってくださったあらゆる力と祝福とにあずかるのです。
あるとき、教会で、ちいさいこどもが私に「先生、アンパンマン知ってる?」と話しかけてきました。「知ってるよ。アンパンマンってすごくやさしいんだってね。」と答えると、「そうだよ。困っている人がいると、自分の顔をちぎってあげちゃうんだ。」と話してくれました。「そうしたら、顔がなくなってこまるんじゃない?」って聞き返すと、「大丈夫だよ。ジャムおじさんがまた作ってくれるから。」ということでした。こどもとのなんでもない会話でしたが、私はそのとき聖餐のことを思いました。イエスも「さあ、取って食べなさい」と、聖餐のパンを通して、私たちにご自分を分け与えてくださっているのです。アンパンマンのように顔だけはなく、その血の最後の一滴までも、ご自分のすべて、ご自分のいのちまでも、イエスは私たちに分け与えてくださるのです。私たちは聖餐でイエスを受けるとき、イエスの愛をも受けます。イエスが私たちのうちにとどまってくださることによって、私たちもイエスの愛の中にとどまるのです。
イエスは「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15:4)と約束してくださいました。また、「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:26)とも祈ってくださいました。「愛の中にとどまる」といのは、決して機械的なことではありません。物理的に教会に出入りしていれば良いということでも、教会のメンバーシップを保っていれば「とどまっている」ことになるというわけではありません。「とどまる」というのは、キリストとの生きた関係を持つことです。ヨハネ15:5に「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とあるように、ぶどうの木であるイエスに、その枝となってつながること、命のつながりを持つことです。今も、私たちをゆるし、私たちにご自分を差し出しておられるイエスの愛を心に迎え入れませんか。そのことを洗礼(バプテスマ)によって言い表しましょう。洗礼はあなたとイエスとを結びつけるものです。イエスの愛に結ばれていましょう。すでに洗礼を受けてイエスの愛に結ばれている人たちは、この聖餐で、イエスの愛の中にとどまり続けることをあたらたに決意しましょう。イエスの愛にとどまるとき、私たちは「互いに愛する」というキリストの戒めに生きる者へと変えられていくのです。
(祈り)
父なる神さま、主イエスは、木曜日に愛の戒めを弟子たちに与えられました。しかし、同時に主イエスは、その愛がどんなものであり、どのようにして得られるのかを、ことばで説明するだけでなく、弟子たちの足を洗うという目に見える形で表わしてくださいました。また、聖餐によって、イエスの愛を受け取り、それを味わい、自分のものとすることができるようにしてくださいました。私たちは、信仰と希望と愛をもって聖餐に向います。聖餐によってキリストの戒めに生きる力を与えてください。キリストの愛の中にとどまる恵みを与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/28/2010