15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
今日はパーム・サンデー。この日は、イエス・キリストがエルサレムに入城した時、人々がパーム、棕櫚の葉を手にとって「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高きところに。」とイエスをほめたたえたことに由来しています。きょうからの一週間は「聖週間」あるいは「受難週」と言い、キリストの十字架のみわざを、静かに思い見る時です。そんなわけで、3月5日の灰の水曜日から始まったレントの期間も、あと一週間で終わることになります。一昨年と昨年は祈り会で『レントの黙想』をお配りしましたが、今年は、一日の中で、ほんの三分でも、五分でも、どこかで静かな時を持って、信仰を考えていただきたいと思い、礼拝で皆さんにお配りしました。お使いいただけたでしょうか。もし、そのままお部屋のどこかにありましたら、今日お配りしたものを含めて全部で七冊になっていますので、この受難週に一日一冊の割合でお読みいただければと思っています。
さて、ヨハネ15章で、イエスは、ご自分をぶどうの木、イエスを信じる者をぶどうの枝と呼びました。そして、「わたしにとどまりなさい。」と命じました。ぶどうの枝はぶどうの木につながっていてこそ実を結びます。枝は幹から離れては何もできないのです。「わたしにとどまりなさい。」と言われたイエスは、「わたしの愛の中にとどまりなさい。」とも言われました。もし、私たちがキリストにとどまっているなら、当然、キリストの命にも、キリストの力にも、またキリストの愛にもとどまっているはずですが、なぜ、ここでイエスは「愛にとどまる」ということを強調したのでしょうか。それは、キリストの愛が特別な愛だからです。
一、永遠の愛
では、キリストの愛は、どのように特別なのでしょうか。それは、第一に、永遠の愛です。いつかどこかで芽生えた愛というのでなく、世界の始まる前から、今にいたるまで、ずっと変わらず存在した愛ということです。このような愛は、神の愛、キリストの愛以外にはありません。結婚式で永遠の愛を誓っても、二組に一組は離婚していく、それが人間の愛の現実です。人間の愛は移りやすいものです。どんなにあなたを愛してくれる人がいても、その人はいつかは世を去らなければならないのです。人間の愛には限りがあるのです。しかし、神の愛、キリストの愛は違います。聖書は、神が私たちを愛してくださる時、常に永遠の愛で愛してくださると言っています。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」(イザヤ54:8)「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)
みなさんは、神が世界を創造される前に何をなさっていたか、考えてみたことがありますか。ある人は「そういうくだらないことを考える人間のために、神は地獄を造っていたのだ。」と茶化します。たしかに、有限な私たちが永遠の神のことを理解しきることができると考えるのは間違っています。造られた者である私たちが造り主であるお方を知り尽くすことはできません。しかし、永遠なる神が永遠で何をなさっていたかを考えることは不敬虔なことではありません。この答えは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」ということばに見ることができます。神はこの世界と人間を造って、私たち人間に愛を注いでくださいましたが、それ以前も、神は御子を愛しておられたのです。神は、天地創造の時はじめて愛を持たれたのではなく、世界の創造以前から、愛の対象として御子を持っておられ、永遠の愛で御子を愛しておられたのです。永遠の存在である神が、同じく永遠の存在である御子を、永遠の先から愛しておられたのです。世界を創造される前に神がしておられたのは「愛する」ことだったのです。神は、永遠のはじめから愛であるお方なのです。
私たちは、どんなに多くの人に愛されていても、それとは別に、永遠の愛、変わらない愛で愛してくださるお方が必要です。人は、確かな愛、変わらない愛で支えられていなければ、本当には生きていけないのです。イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」と言われましたが、それは、イエスが、永遠の愛で弟子たちを愛し、私たちをも愛してくださるという宣言です。イエスは、決して思いつきでも、気まぐれでもない愛で、神が御子を愛されたのと同じクォリティの愛で私たちを愛し続けてくださっています。キリストの愛は永遠の愛です。
二、対等の愛
第二に、キリストの愛は「対等の愛」です。
イエスは弟子たちを「しもべ」とは呼ばずに「友」と呼びました。15節に「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」とある通りです。「しもべ」は主人から言いつけられた仕事を果たしさえすればよいので、なぜ、その仕事をしなければならないのか、それがどんな意味を持っているのか知らなくてもいいのです。イエスは弟子たちにとって、「主」でもあり「師」でもあったわけですから、弟子たちに命令を下すだけでよかったのかもしれません。しかし、イエスは、ご自分がこれからなさろうとしていることを事細かに弟子たちに告げ、ご自分の気持ちを弟子たちに知らせています。イエスは、弟子たちを、しもべとしてではなく、友として信頼して、これからイエスがしようとしている、人類救済という大事業をうちあけているのです。
本当の愛とは、決して相手を見下して哀れむことではありませんし、また、力ある者におもねることでもありません。人の世話をさせていただくことは喜びですが、世話好きな人の中には「人を愛している」と言いながらも、自分が満足するために人の世話をしてしまうと場合があります。人のお世話をするのは、その人が自立して、自分の世話を必要としなくなることであるはずなのですが、いつまでも自分の手元においておこうとするとしたら、それは本当の愛ではありません。また、権力者に百パーセントの忠誠を誓っていても、それが恐怖心から出たもの、強制されたものであれば、イラクの人々のように、権力者の恐怖が取り除かれた時には、権力者に対する忠誠心も愛も消えてしまうということになります。本当の愛は、相手を自分を愛するように愛すること、相手を対等のものとして愛することです。イエスの弟子たちは、まったく頼りにならないような人々だったのですが、イエスは、そんな弟子たちでさえ、ご自分と対等であるかのようにして、「友」と呼んで愛しました。イエスは、同じ愛で、私たちを友として愛してくださっています。
最近日本では「友だちを使いわける」ということがはやっているそうです。遊び用の友だち、相談ごとの時の友だちというように、使いわけるのだそうです。ギリシャの哲学者のひとりが「友には、利益のための友、快楽のための友、そして徳のための友の三種の友がある」と言っていますので、そこからヒントを得たのかもしれませんが、結局は、友とは、自分がその人から何かを得るためだけのものという考え方がその背後にあるような気がします。しかし、ほんとうの友とは、そのようなギブ・アンド・テイクだけの関係ではないはずです。イエスは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(13節)と言っています。イエスが私たちを友と呼ぶのは、イエスが文字通り、その友である私たちのため命を捨ててくださったからです。
ずいぶん古いお話になりますが、1957(昭和32)年2月10日のこと、和歌山と四国徳島の間にある紀伊水道での出来事です。この日、普段は静かなこの海が風速30メートルの風で荒れていました。そこを通りかかったデンマークの船が船火事を起こして今にも沈みそうな日本の船を見つけました。デンマークの船、エレン・マークス号はすぐさま進路を変更して、日本の船、高砂丸に近づき、救命ボートで、ひとりの日本の船員を助け出しました。ところが、その船員が救命ボートから本船に移される時、あまりに疲れきっていたので、縄ばしごの途中からどっと海の中に落ちてしまったのです。その時、それを見守っていた大勢の船員の中から、ひとりの船員が海に飛び込みました。それがヨハネス・クヌッセン機関長でした。彼は日本の船員を救おうとしたのですが、大きな波に呑まれて、消えてしまいました。わずか三九歳の若さで命を落としたクヌッセン機関長の胸像は、和歌山県日の岬の丘の上に建てられています。冬の大しけの海に、見ず知らずの日本人を助けようとして、自分の命をささげた愛、国境を越えた大きな愛は、今も覚えられており、自分の利益につながらないことは何ひとつしようとしない打算的な、現代の私たちに本当の愛が何であるかを物語っています。イエス・キリストは、見ず知らずの異邦人であった私たちのために、十字架の上で命を捨て、「友」としての愛を示してくださったのです。
三、あかしの愛
第三に、キリストの愛は「あかしの愛」です。
イエスは、弟子たちに「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(17節)と、互いに愛し合うべきことを教えました。キリストの永遠の愛、対等の愛、また犠牲の愛で愛されている者たちが、もし、互いに愛し合えないでいるなら、どうやって、キリストの愛を人々に示すことができるでしょうか。イエスは、この時、小さなグループを地上に残して世を去ろうとしていました。この後、このグループのリーダであるペテロは、三度もイエスを知らないと否定します。他の弟子たちも、イエスを十字架につけたユダヤの指導者やローマの総督を恐れて逃げ隠れするようになります。果たして弟子たちは再び立ち上がれるのでしょうか。もし、立ち上がれたとしても反対者たちによってたちまちつぶされてしまうのでしょうか。そんな弟子たちに必要なのは、いったい何でしょうか。勇気や力、人を説き伏せる弁舌、あるいは知恵、知識だったのでしょうか。確かにそうしたものも必要で、神はそれらのものを弟子たちに与えてくださいました。しかし、イエスが弟子たちに最も期待されたのは、彼らが「互いに愛し合うこと」でした。弟子たちが、そして、弟子たちから生まれた教会が、互いに愛し合っているなら、それは、どんな困難があっても、人々にキリストの愛を示すという使命を果たすことができるのです。しかし、クリスチャンが、教会がキリストの愛にとどまって互いに愛し合うことをしていなければ、そこにどんなに力あるわざがなされていても、数多くの活動があっても、財力があって、大勢の人々を集めていても、人々にキリストの愛を示すことはできないのです。ですから、イエスは何よりも、互いに愛し合うことを教会に求めておられるのです。
では、どのように私たちは愛し合うのでしょうか。イエスは、こう言っておられます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(12節)父が御子を愛し、御子は弟子たちと教会を愛されました。それでクリスチャンも互いに愛し合うのです。私たちが、互いに愛し合うのは、お互いに、相手からの愛や関心を受けたからそのお返しをするのでなく、神から受けている愛で互いを愛するということです。私たちが、互いに愛し合うことに失敗するのは、それぞれ「お返し」を求めて愛し合うからです。「私は、あの人からこれだけのことをしてもらったから、あの人にはこれだけのことをしてあげなければならない。」というのなら、それは、愛ではなく義務になります。自分に良くしてくれる人に良くしても、それは、神を喜ばせることができませんし、本当に助けを必要としている人に愛を注ぐこともできません。本当に助けを必要としている人はしばしば他の人に「お返し」などできないからです。「お返し」ばかりを意識していると、「私は、あの人にあんなに良くしてやったのに。」という思いが入り込んできて、愛が純粋なものでなくなるのです。愛は、神から出て、私たちに注がれています。私たちが他の人に愛を注げば注ぐほど、神からの愛はもっと多く注がれるのです。相手からのお返しなど必要ないのです。愛は、神から、私へ、そして、他の人へと、一方通行で流れて出て行けば、何のトラブルも起こらないのです。トラブルが起こるのは、愛の交通ルールを守らないからです。日本の四日市で伝道しておられた堀越暢冶先生は、よく「愛の交通整理が必要です。」と言っていましたが、その通りです。
使徒ヨハネはその手紙の中でこう言っています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(ヨハネ第一4:7-12)神はその愛、永遠の愛をキリストの十字架の上に表わしてくださいました。そして、キリストは私たちが互いに愛し合うことの中に、その愛を表わそうとしておられます。神の愛は、知識や理論で理解できるものではありません。私たちが互いに愛し合ってはじめて、実際に体験し、人々に示すことができるのです。十字架の愛を思いみるこの一週間、キリストの愛を体験し、経験し、あかしする私たちとしていただきましょう。
(祈り)
愛なる神さま。私たちは、主キリストから、あなたが御子を愛し、御子が私たちを愛された愛で互いに愛し合うよう命じられています。あなたの永遠の愛、不変の愛、純粋な愛から程遠い私たちですが、いつどんな場合でも、愛は、あなたから、キリストを通して流れ出、聖霊によって私たちに注がれていることを知らせ、私たちをあなたの愛の中にとどまらせてください。そして、キリストの十字架の愛の幾分かでも人々に示すことのできる私たちとしてください。私たちを「友」と呼んで命をささげてくださった主イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/13/2003