実を結ぶ秘訣

ヨハネ15:7-8

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15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

 ヨハネ15:1-2で主イエスは言われました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」父なる神が、ぶどう園の農夫にたとえられています。ぶどう園の農夫は英語で "vine dresser" と言います。"dresser" というと装飾品や服などが入る引き出しの上に鏡がついている家具のことを指します。演劇の衣装係、着付けをする人も "dresser" と呼ばれます。車のタイヤの側面をピカピカにする薬品は「タイヤ・ドレッサー」と言います。"dresser" という言葉には、「手入れをする」、「仕上げる」、「きれいにする」という意味があるのです。父なる神は、キリストというぶどうの木につながる枝の手入れをして、より良い、多くの実を実らせてくださるのです。

 一、神の役割

 神がわたしたちをきれいにしてくださるのには、三つの段階があります。第一は、神がイエス・キリストによってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを正しい者と認めてくださることです。これを「義認」と言います。「義と認める」と書きます。

 主イエスは最後の晩餐の前に、弟子たちの足を、ひとりびとり順に洗いました。ペテロの番になったとき、ペテロはイエスに言いました。「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか。…わたしの足を決して洗わないで下さい。」(ヨハネ13:6、8)ペテロは師であり、主であるお方に足を洗わせるなど、畏れ多くて出来ないと思ったのです。しかし、イエスはペテロに言われました。「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」(ヨハネ13:8)主が弟子の足を洗ったことは、イエスがなさったように、互いに人に仕えることを教えるだけでなく、キリストによる罪の赦しのことを教えています。わたしたちが自分の罪を知り、それを悔い改め、主イエスに赦しを求める。そして、罪の赦しをいただく。わたしたちがキリストと関わりを持つのは、罪びととして救い主の前に出ることによってなのです。そのことを悟ったペテロは「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」(ヨハネ13:9)と言いました。「自分は罪のかたまりみたいな人間です。足だけではなく、どうぞ、手も頭も、全部洗ってきれいにしてください。」ペテロはそんな気持ちでそう言ったのでしょう。イエスは、その気持ちを受けとめてくださいましたが、ペテロにこう言われました。「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。」(ヨハネ13:10)。主が「あなたがたはきれいなのだ」と言われたのは、弟子たちが、主イエスに従う信仰によって罪の赦しを受け、すでにキリストにつながる者とされていることを指しています。聖なる神から「あなたはきれいなのだ」と言っていただけるのは、なんという恵みでしょう。これはキリストを信じ、罪を赦された者の大きな特権です。

 15章でも主は、「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」(ヨハネ15:3)と言われました。「わたしが語った言葉によって」というのは、弟子たちがキリストの言葉を聞いて、それに従ったことを指しています。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)とある通りです。神の言葉は聖なるものですが、神の言葉が自動的に人をきよくするのではありません。神の言葉を耳で「聞く」だけでなく、心の耳で「聴いて」、それを受け入れ、それに従うことによって、人は罪の赦しを受け、義と認められるのです。

 神がわたしたちをきよめてくださる第二の段階は「聖化」です。「聖なるものへと変化する」と書きます。「義認」は法律上、無罪になることです。キリストがわたしたちの罪の身代わりに十字架で死んでくださったことによって、イエス・キリストを信じる者に、無罪判決が与えられています。それだけでも、素晴らしいことなのですが、神は、さらに素晴らしい恵みをくださいます。それが「聖化」の恵みです。罪を赦された者も、まだ罪の性質を持っています。イエス・キリストを信じて神の子どもという身分を与えられてはいても、神の子どもらしくなっていくには、まだ、時間がかかります。「聖化」というのは、「正しい」と認められた者がほんとうに「正しく」なっていくこと、神の子どもとされた者が、神の御子であるキリストの姿に向って成長していくことを言います。神の目に「きれいな者」として受け入れられるだけでなく、ほんとうに「きれいな者」に変えられていく、それが「聖化」の恵みです。

 「聖化」は、わたしたちの心からはじまって、言葉や態度、日常の生活、人との関わり、社会での役割など、あらゆる分野に及びますが、いちばん大切なのは、やはり、心の変化です。「心」には、理性、感情、意志といった働きがあり、「聖化」はそのどれにも働きます。ローマ12:2に「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」とあります。ここで「心」と訳されている言葉は「理性」のことです。物の考え方や基本的な人生観、世界観を指します。イエス・キリストを信じ、その信仰に成長しいくなら、おのずと物の考え方が変わり、人生観や世界観も当然変わっていくのです。信仰を持たなかった時には自分を中心に、この世を基準にして考えてきたことが、信仰を持ってからは、神を第一に、神の言葉を基準に考えるようになっていきます。法律を破りさえしなければ何をしてもいい、人に迷惑をかけなければ自分の好きなようにしていいと、自分のことしか考えないでふるまってきたことが正されていきます。物の考え方が変われば、行動が変わるだけでなく、物の感じ方、感情も変わっていきます。今まで気に留めなかった他の人の痛みや苦しみに共感できるようになります。人への配慮や影響を考えて自分の言動に気をつけることができるようになります。また、いたずらに恐れたり、何事にも逃げ腰になっていた人に、勇気や確信が与えられていきます。

 神がわたしたちをきよめてくださる第三の段階は「栄化」です。「栄光に変化する」と書きます。これは「聖化」の完成と言ってよいでしょう。キリストがわたしたちを天に迎えるため再び来られるとき、また、わたしたちが地上から天に移されるとき、わたしたちは完全にきよめられます。天には罪がありません。そこは栄光に満ちています。「義認」によってわたしたちは罪の刑罰から救われました。「聖化」によって日々に、罪の力から救われ続けます。そして、最後の日には、「栄化」によって、罪の存在そのものからも救われるのです。神の救いは、なんと完全なものでしょうか。

 二、人の役割

 ぶどうの枝が実を結ぶために神がしてくださることを見ましたので、今度は、人がしなければならないことを見ておきましょう。

 Vine dresser が枯れた枝を切り取ったり、邪魔になる部分を取り除いたりするとき、ぶどうの枝は不満を持ったり、逆らったり、拒絶したりしません。実際のぶどうの枝は、vine dresser のすることに対して全くの受け身です。されるがままになっています。植物はみなそうです。しかし、人間は違います。神の言葉を拒絶したり、神のなさることに逆らったり、たとえ、逆らわなかったとしても、不満を持ったりします。人間には「自由意志」が与えられており、神が語られることを聞くこともできれば、それに耳を塞ぐこともでき、神がなさることを受け入れることもできれば、無視することもできるからです。

 しかし、わたしたちの「自由意志」は全く「自由」かというとそうではなく、物が高い所から地面に落ち、水が低い所に流れるように、罪ある人間の「自由意志」には、神から離れた方向に向かおうとします。そうなら、神はわたしたちから自由意志をとりあげて、神を信じさせればよいではないかと言う人もありますが、それでは、わたしたちは人間ではなくロボットになってしまいます。信仰は、神を選びとることです。自由がなければ選択は無く、選択が無ければ信仰は無く、信仰がなければ救いはわたしたちに届かないのです。神は人間に信仰を求めておられ、そのために人間に「自由意志」を与えておられるのです。

 わたしたちがキリストにつながるためには、最初に話しましたように、罪を赦され、神に受け入れられる必要があります。そのためには、自分が「罪びと」であることを認めることからはじめなければなりません。聖書に「義人はいない、ひとりもいない。…すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ローマ3:10、23)とあるように、人間には罪があります。神を知らない人でも、正直な人は自分には罪があることを認めます。もし、自分に罪が無いと言うなら、その人はキリストと関わることも、キリストとつながれることもありません。なぜなら、キリストは罪びとの救い主だからです。神と人とを切り離すものが罪です。しかし、人が自分の罪を認めるなら、それはその人と神とを結びつけてくれます。自分が「罪びと」(sinner)であることを受け入れることが「聖徒」(saint)として変えられていく第一歩です。キリストは、わたしたちの救いのためにすべてを成し遂げてくださいました。今度はわたしたちが、「主よ、わたしはあなたを、わたしの救い主として受け入れます。わたしの罪を赦し、神の子どもとして受け入れてください」と祈り、願う番なのです。

 イエスはペテロに「全身を洗ったあなたはすでにきよい」と言われました。しかし、ペテロは、なお、イエスに足を洗っていただく必要がありました。イエス・キリストを信じてバプテスマを受け、自分はきよめられたから、あとは何もしなくても大丈夫というわけではありません。その後も、絶えずきよめられていく必要があります。しかし、この「きよめ」も、わたしたちの意志にかかわりなく行われるのではありません。わたしたちの側に「きよめられたい」という願いが起こり、「きよめてください」と祈ることによって、神の「聖化」はわたしたちのうちに働くのです。ある人が「このまま何の成長もないままわたしの人生が終わるとしたら、とても残念です。わたしはこのままでは神の前に出ることはできません」と言いましたが、「自分を変えたい」「自分は変えられる必要がある」と感じている人は幸いです。神は、きよめられたいという願いに応じて、わたしたちをきよめてくださるからです。

 きよめられることと祈りには深いつながりがあります。ヨハネ15:7-8は祈りについて教えています。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。」「なんでも望ものを求めるがよい」とは大胆なことばです。ほんとうにどんな祈りでもかなうのでしょうか。みこころにかなう祈りはかないます。ですから、「なんでも望むもの」が与えられるというのは、わたしたちが、神のみこころだけを願い求めるようになることを言っているのです。祈る人は神のみこころを知ります。そして、神のみこころを知る者は、みこころを求めます。それで、その人の祈りは神に聞かれ、答えられるのです。わたしたちの「自由意志」は、祈りの中で神のみこころとひとつとなって、ほんとうに「自由」になるのです。

 ヨハネ15章では、神の「聖化」の働きは、枯れた枝や無駄な枝を取り除く「剪定」作業にたとえられています。剪定作業ではぶどうの枝にハサミを入れますが、「ハサミを入れる」ことは、きよめられるためには「痛み」を通らなければならないことを暗示しています。人には痛みを通してしかきよめられないものがあります。「神さま、わたしが間違った歩みをしたとき、わたしを責めてくださって感謝します。それによってわたしはあなたに立ち返ることができました」と祈った人がいました。きよめられることは、人間にとってなによりも望ましいもの、「痛み」という代償を払ってでも価値あるものなのです。もちろん、神はいたずらにわたしたちを試練に遭わせるお方ではありませんし、わたしたちも毎日、「試みに遭わせず、悪より救いい出したまえ」と祈るのですが、それでも、苦しみや痛みが避けられないときがあります。しかし、祈る者は、どんな苦しみも、神の愛から出ていること、そこにはかならず解決があること、最終的にはわたしたちの祝福になることを知るようになります。四方八方がふさがっているような中でも、天を見上げることができます。祈りの中で不満が喜びに変わり、頑固な心が解きほぐされていきます。

 ぶどうの枝であるわたしたちが実を結ぶために、神はわたしたちを手入れしてくださいます。わたしたちを「きれいに」し、きよめてくださるのです。それは神の働きです。しかし、同時に、それは人間の応答にかかっています。真実なクリスチャンのたましいの奥底には、「わたしをきよめてください」と願ううめきがあります。この祈りをもって神のきよめのわざに答えましょう。「わたしをきよめてください」という祈りは幸いな祈りです。なぜなら、「きよめてください」という祈りほど、みこころにかなった祈りはなく、神はその祈りに必ず答えてくださるからです。この祈りをもって新しい週を、一日をはじめましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、キリストはまことのぶどうの木、わたしたちはその枝です。あなたは、わたしたちがもっとしっかりとキリストにつながり、さらに豊かな実を結ぶため、わたしたちをきよめてくださいますが、わたしたちは時として、あなたのきよめのみわざに無頓着であったり、それを知らず知らずのうちに拒んでしまっていることがあります。どうぞ、わたしたちの心にきよめを求める思いを与えてください。それがわたしたちの日々の祈りとなり、わたしたちの口から、あなたにの耳に届きますように。主イエスのお名前で祈ります。

7/20/2014