聖霊の証し

ヨハネ15:26-27

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15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
15:27 あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。

 はじめて聖書を読む人は、普段使わない言葉があって戸惑うことでしょう。たとえば、「贖い」や「律法」など、聖書では大切な言葉ですが、普段は使いません。「証し」もまた、そんな言葉の一つです。「証し」は、裁判で使う言葉で、「証言」という意味があります。動詞では、「証言する」、「証明する」、「証拠立てる」、また「確証する」という意味があります。検事は犯罪を立証しようと証拠を集め、弁護士は無罪を勝ち取るために証人を呼びます。では、聖霊は何を、どのように証言し、証拠立て、確証なさるのでしょうか。きょうは、そのことを学びましょう。

 一、キリストを示す聖霊

 イエスは、恵みに満ちた人格と敬虔な生涯、また、言葉と力あるわざによって、ご自分が神の御子であり、救い主、キリストであることを示されました。ところが、イエスを信じようとしない人々は、「自分で自分がキリストだと言っても、信じることなどできない。あなたがキリストなら、その証拠を見せろ」と言いました。イエスはそれに答えて、ヨハネの福音書5章で、イエスを証しするものが4つあると言われました。第1は、バプテスマのヨハネ(5:33-35)、第2は、癒やしや奇跡などの力あるわざ(5:36)、第3は父なる神ご自身(5:37-38)、そして、第4が聖書です(5:39)。

 聖書は、救い主キリストの預言で満ちています。イエスのご生涯とみわざは、十字架、復活、昇天、そして再臨を含めて、あらかじめ聖書に記されていました。イエスは、それらの預言を一つひとつ成就していかれました。

 イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったとき、父なる神は、イエスに聖霊を降し、天からの声で、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われ、イエスが神の御子であり、世の救い主であることを証しされました(マタイ3:16-17)。

 バプテスマのヨハネもまた、イエスを指差して、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言い、「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。…それで、この方が神の子であると証しをしているのです」(ヨハネ1:32-34)と言っています。

 バプテスマのヨハネ、イエスの力あるわざ、父なる神、そして聖書のどれもが、イエスはキリストであると証言していますが、イエスは、きょうの箇所で、もう一つのもの、いや、もう一人のお方が、イエスを証しすると言われました。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」それは聖霊です。聖霊は人の心に働き、人が真理を知り、心を開いてそれを受け入れるよう導いてくださるのです。

 今まで信仰に何の関心もなかった人が、突然のようにして信仰を持つことがあります。以前のことですが、「きみが教会に行くのはいいけど、ぼくは絶対行かないよ」と奥さんにい言っていた人がありました。ところが、ある日、夫婦そろって教会に来たのです。最初、「きみが何を信じているか知っておきたいから来たのだ。ぼくが信じるためじゃないぞ」と言っていたのですが、神の言葉を聞き、学ぶうちに、彼が信仰を持ったのです。彼がバプテスマを受ける日、どんなに感謝したかわかりません。彼が信仰を持った背後には奥さんの隠れた祈りがあり、同年代の男性クリスチャンたちの励ましがあったことでしょうが、何よりも、聖霊が彼の心を開き、真理に導いてくださったからです。

 人は、「イエスは主キリストです」と告白して救われます。この信仰の告白を与えてくださるのが聖霊です。聖書にこうあります。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」(コリント第一12:3)私たちは、いつか、どこかで、たましいの内に語りかけてくださった聖霊の証しを聞き、それに聞き従って信仰に導かれました。誰にも、かならず、そのような時があります。いや、聖霊は、毎日、真理を示し、一刻一刻、信仰に招いておられます。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)聖書は、この言葉を聖霊の言葉だと行っています。私たちに語りかけてくださる聖霊の声に素直に従いましょう。

 二、神の子どもの確信を与える聖霊

 聖霊は、次に、イエスを信じる者が神の子どもであることを確証してくださいます。ヨハネ1:12には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」とあります。「この方」とはイエスのことです。本来、神は、御子イエスの「父」です。イエスは、お一人で父の愛を独占なさってもよかったのです。しかし、イエスは、ご自分を信じる者に、ご自分が持っておられる神の子の特権を分け与え、ご自分の父を、私たちの父ともしてくださいました。父なる神の愛、神との愛の交わりを私たちに分け与えてくださったのです。

 さらに、ヨハネ3:3-6には、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。…まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」とあって、聖霊が人を神の子どもとして生んでくださるとあります。イエスを信じるとき、聖霊が私たちの内に働き、私たちを造り変え、新しい命を与えてくださいます。私たちには、神の子どもの身分だけでなく、神の子どもの「命」、また「性質」が聖霊によって与えられているのです。これは、何という恵みでしょう。

 しかし、時として、私たちは、「自分は神の子どもにされたのに、少しも神の子どもらしくない」と感じることがあります。自分でそう思うだけでも、気が塞ぎますが、他の人から、そう言われたら、がっかりしてしまうことでしょう。けれども、聖霊は「パラクレートス」、慰め主です。「あなたは神の子どもだ。神に愛されている」と語りかけてくださるのです。ローマ8:14-16にこうあります。「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」たとえ、私たちがどんな状態であったとしても、聖霊は私たちが神の子どもであることを教え、私たちに、神に向かって「父よ」と叫ばせてくださるのです。イエスを信じ、聖霊を受けている者は、この「聖霊の証し」を持っています。

 新聖歌264は、こう歌っています。「われ贖われて自由にせられ、キリストにありて、安き身なり。十字架の血潮に聖められて、ハレルヤを叫ぶ、身とはなりぬ。我はイエスのもの、主はわがもの、御霊のあかしは心にあり。」私たちを神の子どもとして生んでくださった聖霊は、私たちに父の神の愛を届け、「あなたは神の子ども」と、語りかけてくださいます。私たちはこの証しに支えられて、落胆の日も、苦しみの時も、それを乗り越えることができるのです。

 三、共に証しする聖霊

 聖霊は、さらに、私たちをイエス・キリストの証人とし、証しの言葉を与えてくださいます。イエスが「真理の御霊が来るとき、…あなたがたも証しします」と言われた通りです。

 この言葉は、ペンテコステの日に成就しました。弟子たちに聖霊が降ったとき、ペテロは立ち上がり、人々に語りました。「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。」(使徒2:22)こう言ってからイエスの十字架と復活を語り、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(同2:32)と言いました。この日から弟子たちはキリストの証人となり、キリストを証しし始めました。そして、その「証し」によって、この日、3,000人の人たちが、イエスを信じ、弟子に加えられました。

 最初に、「証し」は法廷での「証言」のことだと言いましたが、実際、弟子たちは、ユダヤの最高法院という法廷に立たされました。ペテロとヨハネは最高法院で尋問を受けました。それは、まったく乱暴な取り調べで、ペテロとヨハネを弁護する者も、二人のために証言する人もありませんでした。しかし、最も力強い「パラクレートス」、弁護者、聖霊が二人と共におられました。ペテロは、この法廷でも、イエスの十字架と復活を証言しました。聖書は、このときの人々の反応について、「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた」(使徒4:13)と言っています。「二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた」との言葉は、イエスが「あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです」と言われたことと関連しています。弟子たちはイエスがともにおられたときにはイエスに守られていました。イエスを天に送ったあとは、もう一人の弁護者、聖霊によって守られました。ペテロの証しは、ペテロとともにおられた聖霊の証しであると言ってよいのです。そして、その聖霊の証しは、イエスが今も生きておられ、信じる者とともにおられ、信じる者の口を通して語っておられるのです。人々はそれを認めざるをえませんでした。

 私たちも、「なぜ、クリスチャンになったのか」、「神が愛なら、どうして地上に戦争や病気、さまざまな不幸があるのか」、「私はクリスチャンだと言う人からひどい目にあわされた。クリスチャンは信用できない」などと言われることがあるかもしれません。そう言う人のすべてが、真剣に答えを求めているわけではありませんが、そんなときは、イエス・キリストを証しする機会となります。聖書は「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(ペテロ第一3:15)と教えています。けれども、自分にはそんな「用意」もなく、何をどう話してよいか分からないことが多いと思います。そんなときには、イエスのこの言葉を思い起こしましょう。「また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」(ルカ12:11-12)今のアメリカでは、クリスチャンだからというので、司法当局に呼び出されたり、法廷に立たされたりといったことはありませんが、思わぬときに、信仰を「弁明」しなければならなくなるかもしれません。そんなとき、慌てず、聖霊の助けがあることを信じ、その助けを呼び求めましょう。

 この言葉は「弁明の用意をしていなさい」との言葉と矛盾するものではありません。イエスは、弁明の用意をしなくてよいと言われたのでなく、「心配しなくてよい」と言われたのです。どんなに十分な準備ができていても、いざとなると、誰もが心配したり、不安になったり、恐れたりするものです。そんなとき、聖霊が助け、導いてくださることを信じるのです。聖霊ご自身が、私たちに代わって証言してくださるのです。それが、「聖霊の証し」です。自分の知恵や力に頼って相手を説得させようとしても、それでイエスを証しできるわけではありません。むしろ、自分の足らなさを知って、「聖霊よ、私を助け、言葉を与えてください」と祈るとき、聖霊は、私たちを助けてくださるばかりでなく、私たちの言葉を聞く人たちにも働きかけて、イエス・キリストを証ししてくださるのです。

 まず、私たち自身が、聖霊の証しによって、「イエスは主キリスト」との信仰に導かれましょう。次に、自分は神の子どもであるとの聖霊の証しを持っていましょう。この二つの「聖霊の証し」を持つとき、私たちは、イエス・キリストの証人となることができます。キリストの良い「証し人」となれるよう、いつも聖霊の証しを祈り求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、ペンテコステの日、弟子たちが受けたのと同じ聖霊が私たちにも与えられていることを感謝します。聖霊はキリストを証しされるお方です。聖霊をいただいている私たちも、自分たちが置かれた場所で、聖霊に信頼し、イエス・キリストの良い証し人となれますよう助けてください。そして、「あなたがたも証しします」との御言葉が、私たちを通して成就しますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/19/2024