ぶどうの木とその枝

ヨハネ15:1-6

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15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

 一、イエスの〝I AM〟宣言

 ヨハネの福音書には、イエスが「わたしは…です」と言われた言葉が7つあります。

「わたしはいのちのパンです。」(6:35)
「わたしは世の光です。」(8:12)
「わたしは門です。」(10:9)
「わたしは良い羊飼いです。」(10:14)
「わたしはよみがえりであり、いのちです。」(11:25)
「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」(14:16)

そして、きょうの箇所の、

「わたしはまことのぶどうの木です。」(15:1)

 これは、〝7つの I AM ステートメント〟と呼ばれていますが、実は、イエスが〝I AM〟と言われたのは、もう3箇所あります。最初はヨハネ4:25-26です。「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」「わたしがそれです」のところが〝I AM〟です。

 次は、ヨハネ6:20です。ガリラヤ湖で嵐に遇った弟子たちの船に、イエスは湖を歩いて近づき言われました。「わたしだ。恐れることはない。」ここにも、〝I AM〟という言葉が使われています。

 もう一箇所は、ヨハネ8:56-58です。イエスが、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです」と言われると、反対者たちは、「あなたはまだ五十歳になっていないのに、アブラハムを見たのか」と言って、イエスを気が狂った人のように扱いました。それに対してイエスは、「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」と答えられました。イエスはアブラハムの生まれる前から、つまり、永遠の先から存在しておられる〝I AM〟であると言われたのです。神のお名前「ヤーウェ」はヘブライ語の〝I AM〟から来ていますので、反対者たちはすぐに、イエスがご自分を神とされたことに気付きました。そして、そんな冒瀆は許しておけないと、怒り狂って、イエスに石を投げつけようとしました。しかし、イエスは人々の間を通って、神殿から出て行かれました。人々はイエスの神としての威厳にうたれ、手にした石を投げることができなかったのです。この3つを含めると〝I AM〟ステートメントは全部で10になります。

 〝I AM〟には「絶対者」という意味がありますので、イエスが「わたしはパンです、世の光です、門です、羊飼いです、よみがえりです、いのちです、道であり、真理であり、命です、そして、ぶどうの木です」と言われたとき、そこには「わたしこそ、いのちのパン、世の光、門、羊飼い、よみがえり、いのち、道、真理、命、ぶどうの木です。他にはいないのです」という意味が込められているのです。イエスは「わたしはパンです」と言われただけでなく、「わたしは〝いのちの〟パンです」と言われました。私たちを生かすお方は、イエスの他にはないという意味です。「わたしは門です」と言われたとき、「羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です」と言われ、人はイエスを通してのみ救われ、守られ、生かされ、養われると言っておられます。さらに、イエスはご自分をたんに「羊飼い」と呼ばれただけでなく、羊のために命を捨てる「〝良い〟羊飼い」と呼んでおられます。きょうの箇所でも、ご自分を「ぶどうの木」と呼ばれただけでなく、「〝まことの〟ぶどうの木」と呼んでおられます。

 世の中には「私こそ」と叫ぶ人々が多くいます。「私こそ、この国に自由と民主主義を与える者だ」という政治家もいれば、「私の意見こそ正しい。誰もが私に聞くべきだ」という学者もいます。また、「私の言うとおりにしたらお金を増やすことができる」といった投資の宣伝もあります。そうしたことを聞くたびに、私は、「そんなうまい方法があるのだったら、人に教えないで、自分で投資すればよいのに」と思ってしまいます。誰もが声高に「私が」、「私こそ」と叫びますが、真実にそう言うことができるのは、ただイエスだけです。イエスだけが、絶対の権威をもって、真実に、「わたしこそ〝I AM〟である」ということができるお方です。私たちは、このイエスを信じ、このイエスに頼るのです。

 二、イエスと私

 イエスは、このように、〝I AM〟であるお方なのですが、それを知るだけでは、私たちの力にはなりません。きょうの箇所で、イエスが「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(5節)と言っておられるように、「わたし」に続いて「あなた」と言われていることが大切なのです。

 他の〝I AM ステートメント〟には「わたし…あなた」という言葉は出てきませんが、同じ意味が込められています。「わたしはいのちのパン――あなたは、わたしによって生きる」、「わたしは世の光――あなたも世の光として輝く」、「わたしは門――あなたはわたしを通って救われる」、「わたしは良い羊飼い――あなたはわたしの牧場の羊」、「わたしはよみがえり、いのち――あなたもよみがえる」、「わたしは道、真理、命――あなたはわたしを通って生ける神に出会う」と、イエスはご自分に私たちを現し、語りかけておられるのです。

 イエスがサマリアの女に「わたしがそれ(キリスト)です」と言われたとき、そこには、「あなたはわたしがキリストであると信じますか」との信仰への招きが含まれています。嵐の中で弟子たちの船に近づかれたとき、イエスは「恐れるな」と言われましたが、それは、ギリシャ語では二人称の命令形です。「あなた」が含まれているのです。「わたしがいるではないか――あなたは恐れることはないのだ」と、「わたし…あなた」との言葉が使われています。また、イエスが反対者たちに「わたしは〝I AM〟である」と言われたときも、「わたしは主である――あなたはいつまで主に逆らうのか」という意味が込められ、主に逆らい続けている人々に悔い改めを求めておられたのです。

 神は、人を愛し、常に、人に呼びかけ、手を差し伸ばしてくださっています。神は言われました。「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト記6:7)、「わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(レビ記26:12)、「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エレミヤ7:23, 11:4, 30:22)神は「わたしが神である」と言われるだけではなく、「あなたの神となる」と言われるのです。聖書には、「わたしはあなたがたの神、主である」との言葉が繰り返されています。

 ですから、イエスが私たちに「わたしは…である」と言われるとき、それは「わたしは、〝あなたの〟パン、〝あなたの〟光、〝あなたの〟門、〝あなたの〟羊飼い、〝あなたの〟よみがえり、また、いのち、〝あなたの〟道、真理、命なのだ」という意味を込めて言っておられることになります。私たちは、それに対して、「あなたは〝わたしの〟パン、〝わたしの〟光、〝わたしの〟門、〝わたしの〟羊飼い、〝わたしの〟よみがえり、また、いのち、〝わたしの〟道、真理、命です」とお答えしたいと思います。そうすることが「信じる」ということなのです。

 神がおられ、その全知全能によってすべてのものを造り、治めておられる。それは客観的な事実であって、私たちが認めるべきものです。しかし、信仰とは、たんに事実を認めることではありません。それだけでは、神と私の間に、「わたしとあなた」という愛の関係は生まれません。神は、私たちに、「わたしはあなたの神、あなたはわたしのもの」と言っておられるのですから、私たちも「あなたは私の神、私はあなたのものです」とお答えするのです。そこに生まれる神との愛の関係、それが信仰です。

 三、ぶどうの木とその枝

 イエスは、ご自分と弟子たちとの、こうした信仰の関係を「ぶどうの木」とその「枝」にたとえられました。

 イエスがご自分を、杉の木でも、棕櫚の木でもなく、「ぶどうの木」と呼ばれたのには意味があります。「ぶどうの木」は神の民としてのイスラエルを表すからです。詩篇80:8-9にこうあります。「あなたは エジプトから/ぶどうの木を引き抜き/異邦の民を追い出して/それを植えられました。その木のために/あなたが地を整えられたので/それは深く根を張り/地の全面に広がりました。」イスラエルがエジプトから救い出され、約束の地で栄えた様子が書かれています。また、イザヤ5:1-2にはこう書かれています。「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。」これは、後になってイスラエルが神に逆らい、神が望まれた実を結ばなかったことを言っています。「ぶどう」は豊かさのシンボルなのですが、イスラエルはそのシンボルにそぐわないものになってしまったのです。そこで、神は、イスラエルに代わって、イエス・キリストをまことのぶどうの木とし、イエス・キリストを信じる者たちをその枝とし、イエス・キリストにつながる者たちが、神のために実を結ぶようにしてくださったのです。

 イエス・キリストとキリストを信じる者とが、「ぶどうの木」とその「枝」にたとえられているのは、キリストとクリスチャンとの関係が、切っても切り離せない一体の関係であることを教えています。キリストを自分の前に置いてキリストを信じ、キリストに従う、また、自分の上に置いて礼拝する、それだけがキリストとクリスチャンとの関係のすべてではありません。キリストとクリスチャンは右と左に、あるいは上と下に並んでいる、それは事実ですが、同時に、クリスチャンは、木と枝がつながっており、枝が木の一部であるように、クリスチャンはキリストにつながっている者、キリストの一部でもあるのです。「クリスチャン」という名のもともとの意味は「キリストの者」、あるいは、「キリストに結ばれた者」であって、キリストとクリスチャンは、ぶどうの木とその枝のように一体であることを表しています。枝が幹から養分を受けて育ち、実を結ぶように、クリスチャンは、キリストにつながり、キリストの命を受けて、実を結ぶ者となるのです。

 では、私たちは、どのようにしてキリストにつながり、また、実を結ぶことができるのでしょうか。その第一歩は、「わたしはぶどうの木」と言われるイエスに「私はあなたの枝です」とお答えすることです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」との〝I AMステートメント〟は、力強く、また、励ましに満ちています。そこには「わたし…あなた」との言葉があるからです。枝は幹から出るもので、木の一部です。キリストはクリスチャンに「あなたはわたしから生まれたもの、わたしの一部だ」と言っておられるからです。この言葉を信じ、受け入れ、自分がぶどうの木につながっているぶどうの枝であることを、心の中で正しくイメージし、それを喜び、確信しましょう。そこから一歩が始まるのです。

 ヨハネの福音書15章は、ぶどうの枝として実を結ぶ秘訣が書かれています。これから、そのことを学びます。学んだことを実行し、実際に実を結ぶ者となりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたから遠く離れていた私たちに、あなたは「わたしはあなたの神、あなたはわたしのもの」と呼びかけ、ぶどうの木であるキリストの枝としてくださいました。この週、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」と言われたイエスのお言葉を思い巡らし、自分が「キリストの者」、「キリストに結ばれた者」であることを深く自覚することができるよう助け、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/1/2024