あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。
私たちの人生で大切なものの一つは「確信」です。自分がしようとしていることに「確信」が持てないため決断ができず、行動に踏み出せないでいる人は、案外多いと思います。思い通りに物事が進まないと――人生には思い通りにならないことのほうが多いのですが――、そういう人はすぐいらいらして怒りをぶっつけたり、不安や恐れに捕らわれて自分の殻に閉じこもったりしてしまいます。誰もが、確信を持って人生を送りたい、確かな人生の歩みをしたいと願っていますが、どうしたらそれができるのでしょうか。
一、事実による確信
確信を持つためには、まず、事実を事実として認める必要があります。確信は、事実に基づいたもの、しかも、その全体を見て、知った上でのものでなければなりません。そうでないと、皆さんもよくご存知の「ゾウと目のみえない人たち」のお話しのようになってしまいます。そのお話では、王様が6人の目の見えない人たちに、ゾウを触って、それがどんな動物かを答えよと命じました。足を触った人は「柱のようです」と答え、尾を触った人は「綱のようです」と答えました。鼻を触った人は「木の枝のようです」と答え、耳を触った人は「扇のようです」と答えました。腹を触った盲人は「壁のようです」と答え、牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えました。それを聞いた王は言いました。「おまえたちの言うことは皆違うが、それはゾウの一部分にしか触れていないからだ。ゾウは、おまえたちの言うすべてを持っているのだ。」このお話しは、物事の一部だけを見て、それがすべてだと考えがちな私たちへの戒めです。
こうしたことを人に対してしていまうと、大きな間違いを犯してしまいます。その人のことで、少しでも自分が嫌な思いをした場合、その人の良い面を見ないで全部を否定してしまうようになってしまいます。「私は、一目見ただけで人のことがすべて分かる」と自慢していた人がいました。その人が、親切にも、私に「あの人とは付き合わないほうがよい」とアドバイスしてくれたことがあります。けれども、「付き合わないほうがよい」と言われたその人に会ってみると、良いものをたくさん持っていて、とてもプラスになったことがあります。一部だけしか見ないで物事や人を決めてかかることは、「確信」ではありません。それは「偏見」です。
イエスの時代のパリサイ人たちは、偏見を持ってイエスを見ていました。彼らは、イエスの「学歴」をとりあげて、どの教師からも習ったことがないのに、なぜ人を教えているのかと批判しました。「職業」をとりあげて、大工の子に過ぎないではないかと言って蔑みました。「出身地」をとりあげ、「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と言って、イエスを受け入れませんでした。イエスは聖書の預言を成就し、奇跡を行って、ご自分が神の御子であることを証明され、彼らは、それを、その目で見ていながら、決してイエスを信じようとはしなかったのです。彼らもまた、ゾウの一部しか触らなかった目の見えない人たちのようでした。イエスは、「確信」と「偏見」とを取り違えている人たちのことを嘆いて言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」(ヨハネ9:41)
二、信頼による確信
私たちの確信は、神がこの世界を創造され、人を愛しておられるという事実に基づいたものです。創世記によると、人は創造の6日間の一番最後に造られました。これは、神が人の住む環境をすべて整えてから、それを人に与えられたと考えてよいと思います。聖書は、神を「天を創造した方、…地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方…」(イザヤ45:18)と呼んで、神がこの世界を人のために造られたと言っています。神は、太陽、月、星を、地を照らし、時と日と年を知らせる「しるし」として天に置かれました。あの大きなエネルギーの塊である太陽や、大宇宙に広がる数知れない星を、神は、まるで部屋に飾りものをを飾るようにして、こともなげに天に配置されたのです。けれども、神は念入りに、愛を込め、手をかけて人を造られました。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された」(創世記1:27)とある通りです。
創造の事実を見るだけでも、私たちはそこに表れた神の全知全能に驚き、神の人への愛を感じずにはおれませんが、神は、なお、神から離れた罪人のために、ご自分の御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエスは、人を愛したのに人から憎まれ、人を癒やしたのに人から傷つけられ、人を生かしたのに死に追いやられましたが、イエスはそれらすべてを、私たちへの愛のゆえに忍ばれたのです。イエスはエルサレムのごく近くのゴルゴタの処刑場で十字架にかけられました。そこは、最も汚らわしく、呪われた場所ですが、神は、そこを、最も聖なる場所とし、祝福が湧き出るところとしてくださいました。イエスは、十字架という祭壇の上で、私たちの罪を赦し、きよめる犠牲としてご自分を献げられたのです。それだけではありません。イエスは三日目に復活され、信じる者を永遠の命で生かすお方となられました。
このイエス・キリストを信じる者は、この世で守られ、永遠の御国に行くことができます。もし、私たちが救われ、守られ、祝福を受けることを、自分の善良さや、善い行い、また、人のために払った犠牲などを根拠にして得ようとしたら、誰一人救われることはなく、自分は救われているという確信を持つことはできないでしょう。救いと、救いの確信は自分の努力によって得られるものではありません。それは、イエス・キリストによって救いを成し遂げてくださった神の愛に信頼することからしか生まれないのです。
パウロはローマ人への手紙の7章で自分がどんなに罪深い者であるかを告白しています。ところが、8章では、「私はこう確信しています」と叫んで、こう言っています。「死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)「どんな被造物も」とありますが、これは、神が世界を創造されたという事実に基づいた確信です。「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛」は、イエス・キリストのご生涯と十字架、復活によって証明されました。このように、私たちは、神が示してくださった事実に基づき、そこに示しておられる神の愛に信頼して救いの確信を持ち、その確信によって力強く人生を歩むことができるのです。
三、体験による確信
さて、きょうの箇所ですが、このイエスの言葉は、私たちの信仰の確信を強めてくれる言葉です。イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」それは、本当のことです。漁のあと網を縫っていた漁師たちに、また、収税所で帳簿を作っていた収税人に、イエスの方から声をかけ、イエスが彼らを弟子にしたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました」――イエスは、そう言うことによって、イエスが世を去られると聞いて動揺している弟子たちに確信を与えようとされました。「わたしがあなたがたを選び、任命したのだから、わたしがあなたがたの責任をとる。あなたがたが、わたしの与えた使命を果たすことができるようにする」と言われたのです。
弟子たちは、このときはまだ確信を持てないでいましたが、の言葉に従うことができませんでしたが、イエスの復活の後、その確信を持ち、聖霊を受けてからは、より一層確信に満たされました。ペテロは、生まれつき足の不自由な人が施しを求めたとき言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)ペテロが「私にあるもの」と言ったのは、癒やしの力のことでもあるのですが、それよりももっと力ある「イエス・キリストの名」です。ペテロは、自分に与えられている癒やしの力だけでなく、その力の与え主、イエス・キリストの御名をこの人に与え、この人はキリストの御名によって癒やされたのです。ペテロは自分を使徒に任命されたイエスに信頼し、その信頼から確信を強めていったのです。
イエスの御名は、使徒たちに使命を果たす力であるとともに、人々の祈りが聞き届けられ、結果を得るためのものでもありました。イエスが「また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです」と言われた通りです。初代のクリスチャンは、この約束を信じて祈りました。誰もが使徒たちと同じように伝道したわけではありませんが、誰もが日々に祈り、ことあるごとに集まって祈り、イエスが託された福音を宣べ伝えるという使命を、祈りによって果たしました。祈りが聞かれるとの確信は、実際に祈らなければ得ることができません。祈って答えられると、さらに祈るようになります。
そのような体験の積み重ねが、私たちにイエスにある確信を与えます。思いもしなかったことが起こるとき、たとえ、一時的に動揺することがあっても、主が助け、導いてくださるとの確信が与えられます。何をどうしたらよいか分からないときも、主が道を開いてくださると信じることができます。確信の強さと信念の強さとは違います。それは、自分自身を、その弱さも含めて、イエスにお任せすることによって得られるものです。使徒パウロは、殉教を前にして、愛弟子テモテにこう書き残しました。「そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」(テモテ第二1:12)「その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信している。」イエスは、この確信を私たちにもお与えくださいます。このような確信に立って、日々を歩むお互いでありましょう。
(祈り)
父なる神さま、イエスは「わたしがあなたを選んだ」と語りかけ、イエスを信じ頼る者こそ、確信に満ちた人生を送ることができると教えてくださいました。私たちはその教えに従います。日々の祈りを通して、私たちに、主イエスにある確信を増し加えてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
9/29/2024