イエスとの友情

ヨハネ15:13-15

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15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

 一、イエスは主

 「いつくしみ深き友なるイエス」、「ああイエスきみこよなき友よ」、「世には良き友もかずあれど」など、賛美歌には、イエスが私たちの「友」であることを歌ったものが数多くあります。また、最近、イエスを、自分とあまり年齢の違わない弟子たちと、友だちのようにして過ごした30歳台の快活な青年教師だったとする本も出版されています。イエスの生涯を描いた映画でも、イエスが弟子たちと水をかけあって、遊んでいるシーンなどが組み込まれるようになりました。イエスが、私たちから遠く離れたところにおられ、高いところから重々しく語られるだけのお方ではない、私たちの「友」なのだと言いたいのでしょう。

 イエスご自身が、「あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません」(14-15節)と言っておられますから、イエスは、確かに、弟子たちの「友」です。しかし、それは、イエスが弟子たちの「お友だち」であるということではありません。弟子たちは、イエスを「友だち」とは見ていませんでした。人間的に言えば、「あいつはいい奴で、おれたちよりも賢いから、あいつの言うことを聞こうじゃないか」といって、イエスに従ったのではなかったのです。イエスが、決して魚が獲れる時刻でも場所でもないところで、網が破れ、船が沈みそうになるほどの魚をお与えになったのを見て、ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言いました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言っています。イエスが人の目にはひとりの青年教師にしか見えなかったとしても、ペテロにとって自分の家に招いて一緒に食事をするほど親しい間柄であったとしても、イエスは、私たちがその足元にひれ伏してあがめるべき、神の御子なのです。イエスは、弟子たちに、ご自分が、ユダヤの教師や預言者以上の者、メシア(キリスト)であることを聖書によって教え、また、数々の奇跡によって現され、変貌の山では、ご自身の栄光を弟子たちに見せています。弟子たちは、そうしたことによって、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)との信仰の告白に導かれたのです。

 イエスは「友」です。しかし、それは「お友だち」の一人という意味ではありません。イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしの友です」と言われたのは、弟子たちがイエスを「主」として信じることができてからでした。イエスが「あなたがたはわたしの友」と言われたらといって、イエスが「主」でなくなるわけではありません。イエスが私たちを「友」と呼ばれたのは、それによって、「主」であるお方が私たちを「友」とするほど愛されたことを、「主」であるお方を「友」とすることのできる恵みが私たちに与えられていることを教えるためだったのです。「イエスは主です」と信じ、告白する人が、イエスが私たちの友であることを知り、「わが友、主イエスよ」と、イエスを賛美することができるのです。

 二、十字架の愛

 イエスは、13節で「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われました。ご自分の愛を、友情に例えられたのです。愛情には、夫婦の愛、親子の愛、また、国や、尊敬する人に対する愛などがありますが、すべての愛のみなもとは神です。それらは、神の愛、キリストの愛の反映です。ですから、キリストと教会の間にある愛は夫婦の愛に例えられていますし、神が信じる者を神の子どもとし、その「父」となってくださることでは、神の愛が親子の愛で例えられているのです。それと同じように、ここでは、イエスの私たちへの愛が友と友との友情に例えられているのです。

 なぜ、イエスは、私たちへのご自分の愛を友情に例えられたのでしょうか。じつは、使徒パウロが、それを説き明かしています。ローマ5:6-8にこうあります。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」夫婦の関係は他の人がそこに入ってくることのできない密接なものです。親子や兄弟同士の血縁の関係は、生まれたときから定められたものです。しかし、友と友との関係は、定められたものというよりは、自分で選び、作り出していくものです。それは様々な時に、様々な場所で生まれるものす。アメリカでは、人種や言葉の違った人たちと出会い、広い国土で、いろいろな地域の人と友だちの関係を築くことができます。イエスが、私たちへの愛を友情に例えられたのは、それが自ら作り出すもの、広さを持ったものだからなのです。

 私たちは、もとから神の「友」ではありませんでした。いや、むしろ、神に逆らう「敵」でさえありました。パウロが「キリストは、…不敬虔な者たちのために死んでくださいました」と言っているように、私たちは「不敬虔な者」だったのです。それなのに、イエスは私たちの「友」となり、正しくも善良でもない私たちのために、その命をささげてくださいました。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われたように、この世ではありえない愛で、私たち罪人の身代わりに十字架で命を献げられたのです。イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしの友です」と言われたのは、「わたしは、友が友のために命を捨てるほどの愛で、自分の命を与えようとしている。あなたが、その友なのだ」という意味なのです。

 この時の弟子たちは、イエスが世を去られると聞いて動転していましたので、イエスが言われたことを十分には理解できませんでした。イエスが十字架にかけられたとき、正午から午後3時まで、あたりは暗闇で覆われました。弟子たちもまた、イエスにかけた期待や希望を奪われ、まるで暗闇に突き落とされたようでした。しかし、三日目にイエスはよみがえられました。弟子たちは再びイエスにお会いしました。弟子たちは、このときやっと、イエスが言われた言葉の意味を理解することができました。イエスが、私たちを「友」として愛し、その友のために命をささげられたことが分かったのです。それで、ヨハネは、こう書きました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:9-10)「ここに愛がある。」そう言ってヨハネが指さしているのは、イエスの十字架です。私たちを「友」と呼び、その「友」のために命を献げられた場所です。イエスの愛は言葉だけのものではありません。ぼんやりとした、つかみどころのない概念でもありません。イエスの愛は、じつに十字架に形をとって表れています。ここに、十字架に、愛があるのです。

 三、イエスの友情

 15節で、イエスは「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです」と言われました。ここに、弟子たちを「友」と呼ばれたイエスの「友情」を見ることができます。

 「しもべなら主人が何をするのか知らない」というのは、古代社会だけでなく、現代もその通りです。大きな企業の経営者は自分が雇っている人に経営方針について相談しませんし、経営の悩みを語ることなどありません。また、雇われている人が直接経営者と親しく語り合う機会などありません。

 しかし、主イエスはご自分のなさろうとしていることを弟子たちに打ち明けられました。神は創造者であり、私たちは被造物です。神は主権者であり、私たちはそのしもべです。神にはご自分の計画や思いを人間に知らせる義務はありません。古代には、しもべには主人から言いつけられたことを忠実に果たすことだけが求められていました。ところが、イエスは父のみこころを弟子たちに明らかにされました。イエスは弟子たちをしもべとしてではなく、友として扱われたのです。

 神は、旧約時代にも人を友と呼び、人にそのみこころをあきらかになさいました。神は、ソドムを滅ぼそうとするとき、そのことをアブラハムに打ち明けました。それを知ってアブラハムはソドムの町のためにとりなしをし、それによってそこに住んでいた甥のロトが救われることになりました(創世記18章)。それで、アブラハムは「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれました。また神は、まるで「人がその友と語るように、…モーセと顔を合わせて語られ」ました(出エジプト33:11)。そのように、主イエスも弟子たちを「友」と呼んで、モーセやアブラハムにも明らかにされなかった神のみこころを残すところなく、弟子たちに示されたのです。15節に「父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです」とあるとおりです。

 イエスが、弟子たちを「しもべ」ではなく「友」と呼ばれ、神のみこころのうちにある救いの計画を明かされたのは、弟子たちを、「人類の救い」という大事業のパートナーにするためでした。今日でも、経営者は会社の経営についていちいち社員に知らせたりはしませんが、仕事のパートナーには、経営方針や将来の見通し、またリスクについて詳しく打ち明けます。イエスは、弟子たちを、そして私たちを「友」と呼ぶことによって、私たちを「世界の救い」という事業のパートナーにしてくださり、その計画を私たちに明らかにしてくださったのです。イエスは私たちを信頼して、その事業の一部を任せてくださいました。そこに、私たちへのイエスの友情があります。

 イエス・キリストの救いは、「ゴルゴダ」、または「カルバリ」と呼ばれる処刑場に立てられた十字架の上で成し遂げられました。326年に、イエスがそこに架けられたとされる十字架がカルバリの跡地で見つかりました。それは「聖十字架」と呼ばれて保存されたのですが、今では、それがどこにあるかは誰も知りません。しかし、わたしたちにとって大切なのは、材木としての十字架ではありません。十字架が示す神の愛です。十字架が語る愛と救いのメッセージ、「十字架のことば」です。イエスはご自分がかけられた十字架が記念碑として保存されることを望まれませんでした。十字架は、特定の場所にとどめられるものではなく、全世界に伝えられるべきものなのです。イエスが望んでおられるのは、すべての人の心の目にキリストの十字架が描き出され、人々が十字架の救いを受けることです。イエスは、私たちに、この十字架のことばが「救いを得させる神の力」であることを証しする役割を与えておられます。この役割を果たすこと、それがイエスの友情にこたえることになるのです。

 イエス・キリストは、見ず知らずの者、神の敵でさえあった私たちを愛して、ご自分の「友」としてくださいました。そして、「友」である私たちのために命を捨ててくださいました。これよりも大きな愛はありません。また、イエスは私たちを「友」として信頼し、人々の救いのためにその愛を証しするパートナーとしてくださいました。このイエスの友情に応えましょう。そして、イエスとの友情を深めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに与えられた家族、親族、信仰の兄弟姉妹、また、友人を感謝します。しかし、どんなに多くの友があっても、イエス・キリストにまさる友はありません。イエスの愛を受けてこそ、私たちは、はじめて、家族、親族を大切にし、兄弟姉妹を愛することができます。イエスとの友情を育てることによって、人々との友情を育てることができます。私たちに、なおも、十字架の愛を示してください。私たちの、かけがえのない友、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/22/2024