神との友情

ヨハネ15:13-15

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15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
15:15 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

 宮本武蔵は『五輪の書』というものを書いて、その中で「神仏は敬して頼らず。」ということばを残しています。「神や仏は、敬いこそすれ、決して心をゆるして頼るものではない。頼れるのは、自分の腕だけである。」という意味なのでしょう。このことばは、日本人の宗教観をよく表わしていると思います。日本には至るところに神社仏閣があり、初詣には大勢の人が繰り出します。各家庭にも神棚や仏壇があり、毎日、灯明がともされ、ご飯が備えられたりします。神仏が大切にされているようなのですが、それは、形式や儀式だけで、実際の生活の中では、神々を意識し、仏の教えに従うということが、ほとんどありません。神や仏は神社や神棚、寺院や仏壇の中にだけいるもので、自分たちとは距離のある遠い存在であると思っています。それで、聖書が、「神が私たちを目の中に入れても痛くないほどに愛しておられる。」(申命記32:10)、「私たちは、神を恋焦がれる。」(詩篇84:2)などと言う時、そうしたことばをすぐには理解できないのです。神との関係がとても薄いからなのでしょう。また、クリスチャンの間でも、儀式や形式を守ることが信仰を持つことで、教会で忙しく活動することが、信仰を深めることだという思い違いが出てくるのだろうと思います。もちろん、儀式や形式のすべてが悪いわけでも、また教会での奉仕活動が不必要というわけでもありません。しかし、信仰とは本来、神に愛され、神を愛することであり、信仰を深めるとは、神との関係を深めることであるはずです。このことは、アメリカのクリスチャンにとってはあたりまえのことであっても、日本人クリスチャンには、このことがよく分かっていない場合が多いようです。聖書は、神と神を信じる者たちとの関係、キリストとクリスチャンとの関係がどんなものかを、さまざまな比喩を使って、わかりやすく描いていますので、それによって、私たちも神との関係に目覚め、神との関係を深めることが出来るのではないかと思います。

 一、花婿と花嫁

 キリストとクリスチャンの関係は、聖書の中でさまざまに描かれていますが、ヨハネの福音書には、四つの面から、キリストとクリスチャンの関係が、四つの面から示されています。その第一は、ヨハネ3:28-30にあります。「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」これは、キリストの先駆者となったバプテスマのヨハネのことばです。バプテスマのヨハネは、「キリストは花婿で、キリストを信じる者たちはその花嫁である。自分は、キリストでも花婿でもない。花婿の友人であって、花婿であるキリストこそ注目を浴び、栄光を受けなければならない。」と言っているのですが、キリストが花婿であり、クリスチャンが花嫁であるというのは、キリストとクリスチャンとの関係がどんなに深いものかを、みごとに言い表わしています。キリストとクリスチャンとの関係は、夫が他の誰よりも妻を愛するように、キリストがひたすらな愛でクリスチャンを愛してくださり、また、妻が他のすべてのものをさしおいて夫を愛するように、クリスチャンが献身的な愛でキリストを愛するという、愛の関係なのです。しかも聖書は、「花婿」「花嫁」という言葉を使って、キリストとクリスチャンとを新婚の夫婦として描いています。夫婦の愛というものは、何年経っても変わらないもの、変わってはならないものですが、新婚の夫婦には、熟年の夫婦にはない、新鮮さというものがありますね。キリストとクリスチャンが「花婿」と「花嫁」の関係に譬えられているのは、キリストに愛され、キリストを愛することの中にはいつも新鮮な喜びがあり、感動があることを教えています。私たちが、キリストの愛から離れて、その新鮮な喜びや感動を忘れる時、キリストは、黙示録にあるように「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2:4)と嘆かれることでしょう。主の愛を覚えて「主よ、あなたを愛します。」と、キリストへの愛を言い表わす私たちでありましょう。

 二、羊飼いと羊

 第二に、キリストは羊飼いでクリスチャンは羊です。ヨハネ10:11と10:14で、キリストが「私は良い牧者です。」と言っておられるように、キリストは私たちを導き守ってくださるお方です。羊は、とても迷いやすい動物で、羊には羊飼いの導きが必要です。また、羊は、とても弱い動物で、自分を守るための角も、牙も、早く走ることのできる脚も持っていません。ですから、羊には羊飼いの守りが必要なのです。人間は、羊のように弱く、迷いやすいものですから、神に頼り、従えば良いのですが、人間は、同時に、羊のようにわがままで、自分の知恵や力を過信して、傲慢にも神に逆らい、神の牧場から飛び出してしまいました。イザヤ53:6にあるように、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おののおの、自分勝手な道に向かって行った。」のです。しかし、キリストは、神のもとから迷い出でいる者たちを、神の牧場に連れ戻す羊飼いとなってくださいました。ペテロ第一2:25に「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」とある通りです。

 しかし、「羊飼い」と「羊」のたとえは、単に、キリストが私たちを導く者で、私たちがキリストに従う者という以上のことを教えています。イザヤ53:6に「私たちはみな、羊のようにさまよい、おののおの、自分勝手な道に向かって行った。」とありましたが、そのすぐ後に「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。ペテロ第一2:25のすぐ前、24節には「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあります。神に逆らい、真理から迷い出た者たちのために、キリストは身代わりの刑罰を受け、十字架の苦しみを味わったのです。キリストは羊のために命を捨てた羊飼いです。ですから、キリストは「わたしは、良い牧者です。」と言った後、必ず「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言い、「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」(ヨハネ10:15)と言われたのです。

 詩篇23篇は、羊飼いである神への信頼を歌った歌ですが、その中に「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。」とあります。私は、この箇所の中に、文字通り死の陰を通り、犠牲の羊となってくださったキリストの姿を見ます。そして、復活された勝利のキリストを覚えます。「羊飼い」と「羊」というたとえには、キリストが私たちを贖い、私たちがその贖いの中に生かされているという、キリストとクリスチャンとの深い関係が描かれています。クリスチャンの、キリストに対する関係は、羊飼いであるキリストの導きに従う、その守りの中に憩うというだけでなく、私たちのために命をささげてくださった、キリストの命がけの愛を、いつも心に留め、そのことに深く感謝するものなのです。

 三、ぶどうの木とその枝

 キリストとクリスチャンの関係をあらわす第三のものは、「ぶどうの木とその枝」というたとえです。ヨハネ15:5で、キリストは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」と言われました。このたとえは、キリストとクリスチャンの関係が、いのちの関係であり、切っても切れない関係であることを表わしています。ぶどうの枝が、ぶどうの木から養分を得て育てられるように、私たちは、キリストのいのちによって生かされています。クリスチャンにとって、キリストは、あれば良いが、なくてもかまわないというようなアクセサリーのような存在ではありません。ぶどうの枝がその幹から切り取られたら、あとは枯れてしまうだけであるように、クリスチャンから、キリストを取り去ったら、それはもはや「もぬけの殻」です。どんなに長年の教会のメンバーであったとしても、多くの聖書の知識を持っていたとしても、また、教会で忙しく立ち働いていたとしても、キリストを内側に持っていなければ、キリストのいのちによって生かされていなければ、そして、神のために実を結んでいなければ、その人を「クリスチャン」と呼ぶことはできません。「クリスチャン」というのは、私がたびたび申し上げますように、「キリストの者」という意味であって、「キリスト教信者」という意味ではないからです。いわゆる「クリスチャンらしい」という、見かけの立派さが人をクリスチャンにするのではありません。クリスチャンとは、キリストの側から言えば、キリストが捕らえて離さない人のことですが、人間の側から言えば、キリストから離れては何もできないことを自覚して、キリストにくらいつて離れない人のことを言います。私たちとキリストとの関係が、このように、切っても切り離せない、いのちの関係であることを、私たちは、どれほど深く自覚しているでしょうか。聖書が教えるように、また、キリストのことばのとおりに、キリストと自分との関係をきちんととらえている人は、幸いだと思います。

 四、友と友

 キリストとクリスチャンとの関係は、ヨハネの福音書の3章で「花婿と花嫁」、10章で「羊飼いと羊」、15:5で「ぶどうの木とその枝」として描かれていました。どれも、キリストとクリスチャンとの親密な関係を表わしていますが、ヨハネの福音書には、もうひとつのたとえがあります。ヨハネ15:15に「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」とあるように、キリストがクリスチャンの「友」であり、クリスチャンもまたキリストの「友」であるというものです。ここで使われている「友」は、たんなる知り合いでも、「お友だち」でもなく、どんなことでも打ち明けることのできる「親友」という意味で使われています。聖歌には、「つみとがをにのう友なるイエスに」「ああイエスきみこよなき友よ」「世には良き友もかずあれど」など、イエス・キリストが私たちの友であることを歌った歌が数多くありますが、そのどれもが、キリストが、私たちの状況のすべてを知り、理解してくれる「友」であり、「親友」であるということが歌われています。キリストが私たちの「友」であるということは、とても心強いことで、皆さんもいろんなおりに、キリストが「友」であることを感じながら、信仰の歩みをしてきたことと思います。特に、正しいことを主張しても誰からも認めてもらえなかったり、理解してもらえなかった時などは、キリストが友であるということは、私たちの深い慰めとなり、私たちの歩みを支える大きな力となったことと思います。

 キリストが私たちの友であることは、誰にも分かりやすいことですが、私たちがキリストの友であるということは、あまりよく理解されていないように思います。今まで見てきた三つの比喩、「花婿と花嫁」「羊飼いと羊」「ぶどうの木とその枝」では、一方が主であり、一方はそれに従うものでした。花婿は花嫁のかしらであり、花嫁は花婿に従います。羊飼いは羊の先頭に立ち、羊は羊飼いについていきます。ぶどうの木は、ぶどうの枝を支えており、ぶどうの枝はぶどうの木に依存しています。ところが、四番目の比喩では、キリストもクリスチャンも、どちらも「友」です。ここでは、キリストと私たちとが対等に扱われているのです。キリストは私たちの主であり、私たちはキリストのしもべであるという立場は、変わることはないのですが、キリストは、私たちをたんなるしもべとしてではなく、友として扱ってくるださるというのです。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。」というのは、キリストが私たちを、対等の愛で愛してくださっていることを示しています。

 キリストの愛が対等の愛であるというのは、ヨハネ15:13によく表われています。キリストは「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)と言いました。「親が子ためにいのちを捨てる」や「子が親のためにいのちを捨てる」ではなく、なぜ、「友のために」なのでしょうか。今も昔も、親が子のために、子が親のために大きな犠牲を払う、夫が妻のために、妻が夫のために危険を犯してまで相手を守るということは良くあることで、そうした親子の愛や夫婦の愛は賞讃されるべきものです。しかし、親子の愛や夫婦の愛には、血縁関係や肉親の強いきずなに基づいたもので、ある意味では狭いものです。しかし、「友のために」という時には、血のつながりも何もない人のために、自分を犠牲にするわけですから、その愛は、純粋で、大きなものであるということができます。皆さんは、肉親の誰かが大変困っている時には、少々の犠牲を払うことができても、友人であるというだけでは、大きな犠牲を払うことをためらうのではないでしょうか。人間の愛は、それがどんなに尊いものであっても、何かの制限や限界があるものです。しかし、キリストは、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とのことば通りに、キリストとは、縁もゆかりもなかった私たちを「友」として愛してくださったのです。血縁も地縁も、コネもツテも、そんなものの全くない、純粋な愛で、私たちのために命をささげてくださったのです。これ以上の愛、これ以外の対等の愛がどこにあるでしょうか。この愛によって私たちはキリストの友とされているのです。

 ところで、しもべと友の違いは、いくらでもありますが、ひとつだけ挙げるとすれば、しもべは主人の思いを知らないが、友は、その友のこころを知っているということだと思います。主人は、しもべには命令を与えるだけで、決して自分の意見や感情を伝えはしません。まして、自分の悩みや秘密を打ち明けることはありません。職場でも、上司が部下に命令を下す時には、たとえその指示が良い結果をもたらす自信がなくても、それには触れないで、命令を下します。また、ビジネスの関係では、取引先に経営上の悩みを打ち明けたり、競争相手に自分が考えている経営上のアイデアを明らかにしたりはしません。そんなことをしたら、信用をなくしてしまったり、競争相手に先を越され、たちまち、ビジネスが成り立たなくなってしまいます。しかし、信頼のおける友には、これからしようとしていることや、今、どうしようかと思い悩んでいることを打ち明けます。それで、キリストも弟子たちに「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」と言われたのです。実際、キリストは、私たちに有無を言わさず命令に従わせることが出来るのに、最初の弟子たちにも、また、私たちにも、ご自分のしようとしていることを示して、私たちがそれをよく知り、納得した上で、キリストの計画に従うようにしてくださっています。神は、おひとりですべてを成し遂げることのできるお方です。主は誰にも相談する必要も、報告する必要もないお方です。「主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。」(イザヤ40:14)とある通りです。なのに、神が、あえて、私たちを友と呼んで、ご自分のご計画を知らせ、その思いを伝えようとしておられるのは、なんという大きな愛でしょうか。私たちは、神の友として何と大きな特権を与えられていることでしょうか。

 神が、神を信じる者にそのお心を打ち明けられるた実例は、創世記18章にあります。神が旅人の姿でアブラハムに現われ、ソドムの町に向って行かれた時、アブラハムもいっしょにソドムの町を見下ろす丘までやってきました。その時、神は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」(創世記18:17-18)と考えられました。そして、神はアブラハムに、神がソドムの町を滅ぼそうとしていることを告げました。それで、アブラハムは、ソドムの町にいる甥のロトとその家族のためにとりなしをする機会を得ました。アブラハムは聖書で「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれていますが、それは、神がアブラハムにご自分の計画を明らかにし、アブラハムが神に祈りをもって応答したことの中に見ることができるのです。

 神は、私たちにもアブラハムのように「神の友」となることを願っておられます。神は、私たちが、神の目的を、計画を、導きを知るようにと、たえず、私たちにみことばをもって語りかけ、教え、導こうとしておられます。私たちは、神の良き友として、神の声に耳を傾け、神から学び、神の思いを知る者となっているでしょうか。韓国のチョー・ヨンギ師が、その本の中で、こんなことを書いていました。まだ開拓伝道をしていた時、奥さんに聞いてもらいたいことがあったので、「ちょっとこっちに来て、いっしょに座って話をしようよ。」と言ったところ、奥さんが「私は、一日中仕事をしてきたんですよ。家に帰ってきたら、帰ってきたで、掃除をし、洗濯をし、そして食事の仕度もしなければならないのよ。これは、みんなあなたのためなのよ。忙しくて、じっと座ってなんかいられません。」と答えたというのです。その時、チョー・ヨンギ師は、奥さんの態度にちょっと腹を立てましたが、すぐに思い直して、心の中でこう祈ったそうです。「ああ、神さま、私は今、家内の忙しさを理解しないで、家内がなんて勝手なことを言うのだろうと思ってしまったことをお赦しください。神さま、私も、あなたが、私と語り合いたいを願っておられるのに、『私は忙しいのです。今は、時間がありません。私が忙しいのはみんなあなたのためなのですから、ご理解ください。』などと、あなたに答えてきました。そのことをお赦しください。神さま、あなたは、私と語り合いたいと望んでおられるのですね。あなたは、私が忙しくすることよりも、あなたに聞き、あなたに語りかけることのほうを何倍も喜んでくださることが、今、分かりました。」この祈りは、神の友となるために、神との友情を深めるために、私たちに出来る最善が何であるのかを良く教えています。私たちも同じように祈りながら、神との友情を深めていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、アブラハムを「友」と呼び、キリストもまた弟子たちを「友」と呼ばれました。もとは、神の敵であった者を、キリストのゆえに赦し、キリストにあって「友」と呼んで愛してくださっていることを、心から感謝いたします。あなたを求めておられるおひとりびとりが、あなたとの愛の関係に導かれますように、また、そこに導かれた者たちが、さらにあなたとの愛の関係を深めることができるように、あなたとの友情を深めることを、私たちの生活で第一のこととすることができますように、助けてください。私たちの友、イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/23/2005