15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
「愛」にはさまざまな姿があり、夫婦の愛や親子の愛には強い絆があります。わたしの知っている人の奥さんは腎臓病の夫のために自分の腎臓を提供しました。彼は、今、元気に働いており、奥さんにとても感謝していました。祈り会でいつも祈っている「K」さんの息子さんも母親に腎臓を提供しました。彼のは母親には合わなかったのですが、彼の腎臓が他の人のために使われるかわりに、母親に合った腎臓が移植されるという仕組みによって、彼は母親に自分の腎臓を提供することができました。夫が妻のために、妻が夫のために犠牲を払う、また親が子のために、子が親のために自らをささげるという美しい物語はわたしたちの身近にも数多くあります。
聖書でも、神は「夫」のように神の民を愛してくださったと言っていますし、イエス・キリストは「花婿」、教会は「花嫁」として描かれています。また、ルカ15章の「放蕩息子」の譬えにあるように、神は、悔い改めて神に立ち返るすべての者のあわれみ深い「父」となってくださいます。しかし、今朝の箇所では、主イエスは、ご自分の弟子たちへの愛を、友と友との愛、「友情」によって表わしておられます。
昔から友情の素晴らしさはさまざまな言葉で表現されてきました。キケロは「人生から友情を除けば、世界から太陽を除くに等しい」と言っています。ボナールは「恋愛は人を強くすると同時に弱くする。だが、友情は人を強くするばかりである」と言い、モーロアという人は「恋愛というものは、振幅が大きくて、情熱の波にもてあそばれる。だが、友情は静かで安定した流れを辿る」と言っています。聖書にはダビデとヨナタンのうるわしい友情物語があります。サウル王はダビデを亡き者にしようとするのですが、ヨナタンはサウル王の息子でありながら、ダビデと友情を結び、ダビデをかばい逃してやるのです。また、聖書には「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある」(箴言18:24)という格言もあります。
夫婦の愛や親子の愛は決して友情に劣っているわけではありません。しかし、肉親の愛には、ある程度の「狭さ」があり、「義務」や「必然」と言ったものが入り込んでくることがあります。それにくらべ友情はもっと広く、純粋です。キリストは弟子たちを「友」と呼ぶことによって、ご自分の愛を示そうとされたのです。それはどんな愛でしょうか。
一、対等の愛
それは第一に、「対等の愛」です。夫婦の愛や親子の愛、また師弟の愛は、完全に対等ではありません。夫婦はその権利においては確かに平等ですが、その役割においては夫が主導権をとり、決断し、また責任を負います。親子の関係でも同じです。しかし、友と友の関係は、完全に対等です。イエスは、ヨハネ15:14で「あなたがたはわたしの友である」と言い、15節で 「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼んだ」と仰いました。「師」であり「主」であるお方が、あえて、弟子たちと対等の者になり、対等の愛で、弟子たちを愛してくださったのです。
わたしたちは学校や職場で友人を見つけます。けれども、いったん友情が結ばれたなら、そこには「同僚」、「先輩と後輩」、また「上司と部下」といった関係をこえた心と心の交流が生まれます。ボナールは「友人同士は完全な平等のうちに生きる。この平等は、まず第一に、彼らが会ったときに社会上のあらゆる相違を忘れるという事実から生まれる」と言っています。
わたしにはひとまわり(12歳)年齢の違う友人がいます。友人というよりも、先輩であり、先生である人なのですが、この人はなんでもわたしに話し、わたしに信頼し、わたしに友として接してくださっています。わたしのレベルにまで降りて来て、わたしと対等につきあってくださっているのだと思います。友情が対等の愛であると言っても、全く対等な人はどこにもいないわけですから、どちらかが、愛から生まれた謙遜をもって接していかなければなりせん。主イエスがわたしたちの「友」となってくださったのは、その謙遜によってです。わたしたちがキリストを友として持つことができるのはキリストの愛と恵みによるのです。そのことに感謝し、キリストの謙遜を思い、それに倣いたいと思います。
二、共有の愛
キリストの友としての愛は、第二に、「共有の愛」です。主イエスは「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである」と言われました。「僕は主人のしていることを知らない」というのは、古代社会だけでなく、今もその通りです。大きな企業の経営者は自分が雇っている人に経営方針について相談しませんし、経営の悩みを語ることなどありません。また、雇われている人が直接経営者と親しく語り合う機会などありません。雇用者(employer)はめったなことでは被雇用者(employee)に自分の胸のうちをうちあけたりはしません。それをするのは、友と友との間でだけです。
妻に告げないこと、夫に告げないことであっても、友だちに告げるということは、よくあることです。夫婦といえども、男と女です。ずいぶん以前ですが、John Gray という人が男女の違いについて "Men Are from Mars, Women Are from Venus" という本を書きました。それは五千万部(50 million)も売れた文字通りのミリオン・セラーになりました。この本には、男と女は同じ人間でありながら、異星人ほどの違いがある。それをよく理解しなければ愛情を育てることはできないといったことが書かれています。ですから、妻にも分かってもらえない男の気持ち、夫にも分かってもらえない女の気持ちというものがあるわけです。それで、人々はそうしたことを、同性の親友に打ち明けるのです。うまくいっている夫婦は、それぞれに同性の信頼できる友人を持っていると言われています。アリストテレスは「友情とは二つの肉体に宿れる一つの魂である」と言いました。友とは、心の内を打ち明けたなら、それを受けとめてくれる人のことです。エルバード・ハーバードという人は「友人とは、あなたについてすべてのことを知っていて、 それにもかかわらずあなたを好んでいる人のことである」と言っています。
主イエスもご自分のなさろうとしていることと、それに対するご自分のお気持ちを弟子たちに打ち明けられました。神は創造者であり、わたしたちは被造物です。神は主権者であり、わたしたちはそのしもべです。神にはご自分の計画や思いを人間に知らせる義務はありません。また、しもべにもそれを知る権利はありません。しもべは主人から言いつけられたことを忠実に果たせばいいだけです。イエスは神の御子として父とだけ心を通わせていればよかったのかもしれません。しかし、父のみこころを弟子たちに明らかになさいました。イエスは弟子たちをしもべとしてではなく、友として扱われたからです。
では、イエスが弟子たちに父のみこころを打ち明けられたのは、父の心に逆らってのことでしょうか。いいえ、違います。父は、ご自分のみこころを知らせるために御子を遣わされたのです。神は、旧約時代にも人を友と呼び、人にそのみこころをあきらかになさいました。神は、まるで「人がその友と語るように、…モーセと顔を合わせて語られ」ました(出エジプト33:11)。また、神は、ソドムを滅ぼそうとするとき、そのことをアブラハムに打ち明けています。アブラハムはそれを知って、ソドムの町のためにとりなしをし、それによってそこに住んでいた甥のロトが救われることになりました(創世記18章)。アブラハムは「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれましたが、主イエスも弟子たちを「友」と呼んで、モーセやアブラハムにも明らかにされなかった神のみこころをあますところなく、弟子たちに示されたのです。15節に「わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせた」とあるとおりです。
三、犠牲の愛
キリストの友としての愛は、第三に、「犠牲の愛」です。イエスはヨハネ15:13で「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と言われました。イエスは身を低くして弟子たちの「友」となってくださったばかりか、さらにご自分を低くして、ご自分を人類の罪のための犠牲とされました。友であるイエスは、文字通り、その友のためにご自分の命を捧げてくださったのです。イエスがわたしたちを「友」と呼ばれたその愛は、「その友のために自分の命を捨てる」という犠牲の愛です。
わたしは、この愛を思うとき、いつもひとりの人を思い起こします。この人はポーランド人で、ポーランドがドイツに占領されたとき、ナチスに反対したというので、ゲシュタポに捕まえられ、アウシェヴィッツ収容所に入れられました。1941年2月のことです。囚人たちの名前は剥奪され、彼は囚人番号で「16670」と呼ばれました。
その年の夏のある日、この人の班から脱走者が出ました。収容所の所長はその班全員を集め、その中から無差別に10人を選びました。見せしめのため餓死刑にするためです。すると、その中のひとりが突然「私には妻も子もいるのです」と言って泣き崩れました。囚人番号「5659」でした。そのときです。囚人の中からひとりの人が所長の前に進み出ました。所長はすぐに彼に銃を突きつけましたが、その人は落ち着いた穏やかな顔で言いました。「お願いしたいことがあります。私には妻も子もありません。妻子あるこの人の身代わりになりたいのです。」所長は驚きのあまり、すぐには言葉がでませんでした。囚人たちがみな生き残るのに必死なときに、他の人の身代わりになりたいという囚人が現れたからです。ふつうなら、そんな申し出が受け入れられるわけがなく、この人はその場で射殺されていたでしょう。ところが不思議なことに、所長はこの申し出を受け入れたのです。受刑者名簿に、囚人番号「5659」のかわりに「16670」が書き込まれました。
この人と他の9人は着物を脱がされ、「死の地下室」と呼ばれる餓死監房に入れられました。着物を脱がされたのは着物を食べないようにするためでした。そこでは食べ物のひとかけらも、水一滴も与えられませんでした。飢えと渇きのため、発狂し、叫びやうめき声が聞こえるはずなのに、監視員が聞いたのは賛美と祈りの声だけでした。「死の地下室」は聖堂にかわったのです。2週間後、6名の者たちはすでに息絶えていましたが、この人を含め4人にはまだ息がありました。しかし、薬物を注射され殺害されました。1941年8月14日、この人が47歳のときでした。それで、今月14日はこの人の記念日として世界中で覚えられるようになりました。
この人とは、マキシミリアーノ・コルベ神父です。ドイツのボンヘッファー牧師、アメリカのキング牧師とともに、20世紀の殉教者のひとりとして、彼の彫像はロンドンのウェストミンスター・アベイに飾られています。コルベ神父は「人がその友のために自分の命を捨てる」という大きな愛を実行したのです。
戦争が終わってヨーロッパに再び自由が訪れたとき、囚人番号で「5659」と呼ばれた、元ポーランドの軍曹フランシスコ・ガヨヴァニチェクは、どこにでも招かれるところに行って、コルベ神父のことを語り伝えました。彼は、世を去る間際まで、コルベ神父の愛の犠牲を語り続けて止まなかったと言われています。
わたしたちも、わたしたちの身代わりとなって死んでくださった方を持っています。それは、わたしたちの友となってくださったイエス・キリストです。イエス・キリストが友であることを知るなら、人は孤独から救われます。「イエスに勝る友われになし」(新生讃美歌498)という賛美の通り、イエス・キリストはわたしたちの友となり、苦しみの時には支え、迷いの時に導いてくださるのです。わたしたちは、主イエスから「対等の愛」、「共有の愛」、そして「犠牲の愛」で愛されています。わたしたちはこの愛を受けて互いに愛し合います。そして、それによってキリストの愛を人々に知らせるのです。わたしたちの友であるお方との尽きることのない「友情」を、感謝しながら、育んでいきましょう。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちに家族、親族、友人、また教会の兄弟姉妹が与えられていることを感謝します。多くの友があっても、イエス・キリストにまさる友はありません。イエスの愛を受けてこそ、わたしたちは互いに愛し合い、家族、親族、友人を大切にすることことができるようになります。主の晩餐によって、イエス・キリストの犠牲の愛をわたしたちに明らかに示してください。キリストの愛といのちによってわたしたちを養ってください。友である主イエス・キリストのお名前で祈ります。
8/3/2014