キリストの平安

ヨハネ14:27

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14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

 一、心の平安

 アドベント第二週の主題は「平和」です。これはイエスがお生まれになた夜、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14)と天使が歌った言葉からとられました。それで、アドベント第二週に灯すキャンドルは「天使のキャンドル」と呼ばれるのです。

 「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。イスラエルの国では、人々は「シャローム」と言って挨拶を交わします。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「おやすみなさい」、なんでも「シャローム」ひとつで済ませることができますから、とても便利です。

 この「シャローム」という言葉にはいくつかの意味があります。それは第一に「争いのないこと」を指します。人類の歴史は、じつに戦争の歴史でした。いつでも、どこかで、人と人とが、民族と民族とが、国と国とが戦い、争いあってきました。21世紀になっても、それはかわりません。戦争や内乱で銃火を避けて逃げまわらなければならない人々にとって、「平和」は切実な祈り、願いです。

 「シャローム」の第二の意味は「繁栄」です。古代の人々にとって、農作物が日照りや暴風などから守られ、多くの収穫が与えられること、家畜が病気などから守られて、繁殖していくことなどが「シャローム」でした。魚をとる人々にとっては、大漁が「シャローム」だったことでしょう。現代では、農業ばかりでなく、工業も、商業も、サービス業も、エンターティンメントの仕事も盛んです。そうしたビジネスが繁栄して、経済的に豊かになることも「シャローム」だと考えられています。

 「シャローム」の第三の意味は「平安」です。これは、心の中に争いがなく、満ち足りていることを指します。アメリカに住むわたしたちは、幸いなことに、直接、戦争や内乱に巻きこまれてはいませんし、物質的にはとても豊かです。ところが、多くの場合、人の心は休まることがなく、満足することもありません。必要が満たされたら、もっと欲しいと思うのが人間です。それが良い意味での「向上心」となればよいのですが、人と競い、他の人のものを奪ってまでもモノやカネ、地位や権力、人気や名誉を手に入れようとするところに、ほんとうの平安があるわけはありません。

 企業の経営者でも、芸術家でも、頂点に登りつめた人ほど、いつまでトップの座を保っていられるだろうかと不安になると聞いています。そのため、企業であれば、粉飾決算や製品のデータのごまかしなど、芸術家であれば盗作など、決してしてはいけないことに手を出してしまうことがあるのです。普通の生活をしているわたしたちにも、人よりも自分が優れていることを誇示したい誘惑があって、同じような不安を持ち、同じような罪を犯してしまうことがあります。平穏で必要が満たされているからといって人の心は自動的に「平安」であるとはかぎらないのです。困難な環境の中でも、平安を失わずに生きている人もいれば、何もかも恵まれているのに、いつも不安と恐れの中に生きている人もあります。心の病は、物質的に貧しい国よりも、豊かな国に多いのです。心の「平安」、それは、聖書が教えるように、神によって与えられるのでなければ、わたしたちのものにはならないのです。

 二、イエスが体験した不安

 今朝の聖書の言葉は、イエス・キリストが弟子たちに語られた言葉です。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」イエスがこう言われたのは、最後の晩餐を終えてゲツセマネの園に向かうときでした。イエスは、そのゲツセマネの園で捕まえられ、翌日には十字架にかけられるのですが、弟子たちは、何かただならないことが起こることを感じとって、不安の中にありました。イエスは弟子たちに「心を騒がせるな」と言われましたが、弟子たちは、まさに、「心を騒がせて」いたのです。

 皆さんは、不安や心配、恐れの中にあるとき、「心配するな」、「恐れるな」と言われて、「心配するのをやめよう」、「恐れるのをやめよう」と考えを切り替えることができますか。おそらくできないでしょう。「心配するな」と言われても、心配がつのり、「恐れるな」と言われても、もっと恐れを感じるのが普通です。しかし、「心配するな」とあなたに言ってくれる人が、あなたの心配をよく分かってくれている人なら、「恐れるな」という言ってくれる人が、あなたの感じている恐れに共感してくれる人なら、その言葉に、きっと励まされことでしょう。

 イエスは、弟子たちに「心を騒がせるな」と言われましたが、それは弟子たちの不安を何も知らないで言われたのではありません。この時、イエス自身も、ご自分の最期の時が近づいていることを知って、「心を騒がして」おられたのです。

 「心を騒がせる」という言葉は、イエスについて、何度も使われています。最初はヨハネ11:33です。イエスは、親友ラザロが亡くなったとき、ベタニヤの町に、ラザロの姉妹たち、マルタとマリヤを訪ねました。そして、そこでマルタとマリヤ、また多くの人々がラザロの死を嘆き悲しんでいるのを見ました。そのとき、イエスは「心を騒がせ」たとあります。イエスはご自分の友ラザロの死をいたみ、涙を流し、ラザロの死に、もうすぐやってくるご自分の死を重ねあわせて、「心を騒がせた」のです。

 次に、ヨハネ12:27では、イエスご自身が「今わたしは心が騒いでいる」とおっしゃいました。イエスが十字架にかけられる数日前のことです。すぐそこに十字架の死が待っている、そのことを思って、イエスは「心を騒がせ」たのです。

 さらに、ヨハネ13:21にも同じ言葉が使われています。最後の晩餐の席でイエスがユダの裏切りを予告されたときのことです。「その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』」とあります。ご自分が選んだ十二弟子のひとりが裏切ろうとしているのです。イエスの心が騒がないはずがありません。

 このようにイエスは、ご自身が「心を騒がせた」お方なので、わたしたちの不安や恐れを分かってくださるのです。イエスはそれを知識としてではなく、体験として知っておられ、「わたしの心も騒いだことがあるのだ」と言って、わたしたちの騒ぐ心を理解してくださるのです。

 第一コリント10:13に「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」とあります。「世の常でないものはない」と訳されているところは原文では「人の知らないものはない」とあります。この「人」という言葉は、人間一般を指すのですが、この「人」を「イエス・キリスト」に置き換えても意味が通じます。「あなたがたの会った試錬で、イエス・キリストの知らないものはない。」これは真実です。イエスの知らない苦しみはありません。わたしたちが「心を騒がせる」どんな苦しみもイエスはすでに経験してくださっています。孤独も、誤解も、中傷も、裏切りさえもイエスは体験されたのです。イエスは、わたしたちのどんな苦しみも知っておられるのです。ですから、わたしたちは「心が騒ぐ」とき、イエスのもとに行くのです。行って、そこで解決と平安をいただくのです。 

 三、キリストが与える平安

 しかし、イエスは神の御子なのに、どうして「心を騒がせた」のでしょうか。神の御子なら、たとえ、十字架刑が待っていても、雄々しくそれに耐えることができたのではないでしょうか。たしかに、イエスに襲いかかろうとしているものが、たんなる迫害や苦難だけなら、イエスは、こうも心を騒がせることはありませんでした。しかし、イエスが直面しておられたのは、罪と死の力そのものでした。

 現代の人々は、あまりにも「罪」や「死」を軽く見ています。それを無視し、考えないようにさえしています。どんなに時代が進み、人間の知恵や技術が発達しても、人は、罪と死を克服することはできません。聖書の光によって、罪と死に正しく向き合うことがなければ、そこから救われることはないのです。イエスは人の罪の深さをよくご存知でした。それが人を神から引き離し、お互いの関係を壊し、世界に争いと荒廃をもたらすものであることを見ぬいておられました。罪こそ、「平和」、「繁栄」、「平安」を壊すものなのです。また、「死」とは、たんに肉体が機能しなくなることではなく、人が神から引き離されることであることも知っておられました。

 だれでも自分の世界だけにいると、案外、自分のことが見えないものです。罪と死が支配する世界の中にどっぷりつかっていると、それが当たり前になってしまうのです。しかし、罪のないお方、いのちの主である神の御子には、罪と死の本質と現実がはっきりと見えました。見えたからこそ、イエスは、そのことに「心を騒がせた」のです。

 イエスが心を騒がせたのは、ご自分に迫ってくる罪と死の現実に対してだけではありませんでした。罪と死から人々を救い出すという使命を思ってのことでした。イエスが神の御子の力を発揮すれば、罪と死を根こそぎ滅ぼしてしまうことがお出来になったでしょう。しかし、それでは、それとともに人も世界も滅びてしまいます。それでイエスは、人を救い罪を消し去ること、人を生かし死を滅ぼすことを求められました。そして、ご自分が人の罪を背負って、十字架の上で死ぬという道を歩まれたのです。

 イエスは人の罪を背負って十字架にかかり、人が神のもとに帰ることができる道を開いてくださいました。かつては神の敵であった者が、神の子どもとして、神に受け入れられるようにしてくださいました。ほんとうの平安は、このイエスの救いから来るのです。

 この世は、このような平安を与えることはできません。いくら生命保険を積んでも、もらえるのはお金だけで、永遠の命も、復活も決して手に入れることはできません。この世が与えるものは、たんなる「安心」に過ぎません。ときには、根拠のない「気休め」でしかないときもあります。しかし、イエスがくださる「平安」は違います。それは、わたしたちに本物の安らぎを与え、わたしたちの人生を豊かにし、世界を平和に導くものです。「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」とイエスが言われたとおりです。

 イエスは、ヨハネ14:1でも弟子たちに「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と言われました。そして、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:2-3)とおっしゃって、信じる者に永遠の住まいを約束されました。ここに決してなくならない平安があります。人は、神に立ち帰り、永遠の確かな保証を与えられて、はじめて、ほんとうの平安を得るのです。

 ある人の文章に「恐れは許可なく心に忍び込み、無力感を与え、心の平和を奪う」とありました。ほんとうにそうです。平安だ、安心だと思っている日々であっても、不安や恐れが突然襲ってくることがあるのです。その不安や恐れは、言葉では表せない、自分でもよく理解できないものであるかもしれません。しかし、そんなときでも、キリストが与えてくださる平安がわたしたちを守ります。そして、それは、求める者に必ず与えられます。きょう、この日を、この平安を、求め、受け取る、さいわいな日としようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエス・キリストがわたしたちの不安な心を知っていてくださるばかりか、自分でも気づいていない不安と恐れから、わたしたちを解放してくださることを感謝します。たえず、主が残してくだった平安、キリストの平安を求めるわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

12/4/2016