聖霊の教え

ヨハネ14:25〜26

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14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 一、弟子たちの無理解

 ユダヤでは、「教師」は「ラビ」と呼ばれました。ラビは律法の研究者、また、伝承者でした。人々に律法を教えるとともに、律法に基づいて、もめごとを解決する裁判官のようなこともしました。それで、イエスに遺産相続の調停を願い出る人もありました(ルカ12:13)。しかし、イエスは、他のラビがしていたようなことはしませんでしたし、他のラビのようには語りませんでした。イエスの説教は退屈な律法の解説でも、古くからの言い伝えを繰り返すだけのものでもありませんでした。聞く人々の現実に語りかけるものでした。だからといって、それは、たんに、人生の知恵を語るだけのものではありませんでした。山上の説教で、イエスは、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。…野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 …今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ」(マタイ5:26-30)と言われました。父なる神のいつくしみを語り、神への信仰を教えておられます。神への信仰、それこそが人生の最高の知恵であり、日々の生活の秘訣であると言われたのです。

 イエスは、ご自身と、その言葉によって、人々に神を表わし、神のお心を示されました。イエスの教えを聞いた人たちは、イエスが神について語っているというよりは、神がイエスを通して語っておられると感じました。それで、聖書はこう言っています。「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」(マタイ27:28-29)ここで、「権威ある者」とは、神のことです。神だけが、本当の権威を持っておられるお方です。イエスの時代のラビたちは、自分たちよりも以前のラビたちからの言い伝えを根拠にしていました。先人の「権威」をよりどころにして話していました。しかし、イエスは、人の言葉ではなく、権威ある神の言葉を語られました。ある学者が「ラビたちは口ごもり、イエスは語った」と言っている通りです。

 実際、イエスの言葉は、父なる神の言葉そのものでした。しかし、すべての人が、イエスが語っておられることを理解し、受け入れたわけではありませんでした。イエスは、イエスの語ることを理解せず、信じようとしない人々にこう言われました。「わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」(ヨハネ12:49-50)また、弟子たちにも、こう言われました。「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。」(ヨハネ14:10)

 群衆だけでなく、弟子たちもイエスの言っておられることを理解していませんでした。イエスが話しておられる間にも、弟子たちは、「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。…何を話しておられるのか私たちには分からない」(ヨハネ16:17-18)と言って、互いにヒソヒソと話し合っていました。イエスは、そんな弟子たちに言われました。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(26節)イエスは、弟子たちが無理解なままでいることがないように、聖霊を遣わすと、約束されたのです。

 二、真理の御霊

 イエスは、「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます」(ヨハネ16:13)と言われ、聖霊を「真理の御霊」と呼びました。聖霊が人を「真理」に導いてくださるからです。

 しかし、「真理」とは何でしょうか。それは、単なる「情報」でしょうか。「知識」でしょうか。もちろん、私たちに「情報」は必要です。「知識」もなくてならないものです。私たちの信仰は、知性や理性、論理を無視して、ただやみくもに、信じ込む、信念を強く持つというものではありません。

 神が存在されることと、神が全知全能のお方であることは、あらゆる学問の基礎です。学問は、知性や理性、論理があってはじめて成り立つものです。無神論を唱える人々は、神がその知恵により、そのお力によりこの世界を創造されたことを認めません。世界は偶然の産物であり、人間もまた偶然が重なりあって生まれたものであると言います。そうだとしたら、人間に知性があるといっても、それは単に頭脳の中での電気信号のやりとりにすぎないことになります。そうであれば、そんな電気信号が作り出す一切の論理はありません。

 ところが、この世界には、誰も否定できない秩序があり、人は、その知性によって、それを見出すことができます。4月8日に、テキサスでも皆既日食を見ることができましたが、天文学者は、いつ、どの地域で皆既日食を見ることができるか、計算して知っています。NASA はずいぶん前から、皆既日食の情報を提供していました。それで、日食観測用のメガネや、写真撮影用の器具などの宣伝が盛んに行われ、日食観測のツアーまで組まれていました。日食の出来事一つをとっても、神が、この世界を法則に基づいて造られ、人間に知性を与えて、その法則を探り出すことができるようにされたことが分かります。

 世界に存在する秩序は、天体だけではなく、生物の細胞のレベルにも、また、あらゆる物質の原子の中にも見ることができます。科学者はそれらを発見し、技術者はそれを利用してさまざまなものを作りあげてきました。音楽にも一定の法則があります。ある研究者は、天体の配置を音符に置き換えると、みごとな音楽になると言っています。

 また、「フィボナッチ数列」というものがあって、これは、螺旋形を生み出すもので、木や花が葉を付けるとき、螺旋状に葉をつけ、効率よく太陽の光を受け止めます。この螺旋を平面にしたときの縦・横の比率は、およそ 1:1.6 で「黄金比」と呼ばれます。人体や顔は、「黄金比」に近いほど、美しく感じるので、絵画や彫像などの芸術作品の多くが「黄金比」を取り入れています。最も身近なものでは、クレディット・カードの縦・横の比率です。クレディットカードは、縦が5センチと少し、横が8センチと少しで、5対8の比率、黄金比になっています。神の創造のみわざは、芸術的でさえあるのです。

 このように知識を追究するだけでも、ある程度神を知ることができます。それは、神が、ご自分が造られた世界の中に、ご自分の知恵と力を表しておられるからです。しかし、自然界からだけでは、神のいつくしみや真実、愛やあわれみは分かりません。それで、神は、ご自分の御子を人として、世に遣わしてくださいました。イエスが世に来られたのは、「神について」教えるためではありません。それなら、神はすでに、聖書を与え、預言者を与えておられました。イエスは、「神について」ではなく、「神を」、「神ご自身」を教えるために来られたのです。神について知ることと、神ご自身を知ることとは、違います。「神を知る」とは、私たちが、そのたましいで神の愛に触れ、その愛によって変えられることです。神との人格の出会いを与えるもの、それは、「知識」以上のもの、「真理」です。もちろん「神について」の知識、情報は必要です。しかし、「情報」(information)だけでは、私たちの「変化」(transformation)は生まれません。私たちを造り変えるもの、それが「真理」です。イエスが、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)と言われた、救いの真理です。そして、この真理に導いてくださるのが、聖霊なのです。

 三、教師である聖霊

 弟子たちは、聖霊を受けるまでは、イエスの教えのすべてを理解することはありませんでした。しかし、聖霊を受けた後は、イエスが、弟子たちに言われたように、イエスが教えておられたことを思い起こし、それを理解しました。はっきりと分かり、確信に導かれたのです。

 弟子たちが、イエスの教えをどんなに正確に理解したかを示す例は、いくつもありますが、その中の一つを取り上げましょう。イエスは弟子たちにこう教えられました。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(ルカ24:47-48)そして、ペンテコステの日に弟子たちは聖霊を受けました。その日、ペテロは、イエスの十字架と復活を証しし、人々にこう勧めました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)ルカ24:47-48のイエスの言葉と使徒2:38のペテロの言葉は、見事に一致しています。イエスの教えを十分に理解できず、時々ちぐはぐなことを口にしていたペテロは、ここではイエスが教えたとおりのことをきちんと人々に語っています。それは、聖霊がペテロを教え、イエスが語られたことを思い起こさせてくださったからです。イエスから教師としてのつとめを引き継がれた聖霊は、弟子たちを真理へと導いてくださったのです。

 弟子たちを真理に導かれた聖霊は、今も、私たちの内に働いて、私たちを教え続けてくださいます。たんに教えるだけでなく、私たちの知性ばかりでなく、意志にも、感情にも働きかけ、私たちに真理を受け入れることができるよう助けてくださいます。知識は知るだけでいいのですが、真理はそれを受け入れ、それに信頼し、実行すること、つまり、信仰を要求します。ですから、どんなに優秀な頭脳を持っていても、それで人は真理に至ることはできません。知識から真理へ、そして、信仰へと導かれるのは、聖霊の働きによるのです。

 子どものころから聞かされていた聖書のこの言葉、若いころに学んだ聖書のあの言葉が、ある日「ああ、そうだったのだのか。この言葉は、このようなことを意味していたのか」と分かる時があります。それは、聖霊の働きです。いつも親しんでいる聖書の言葉が、ある状況の中で心に強く迫ってきて、「そうだ、このことばのとおりに信じ、実行してみよう」と促されることもあります。それもまた聖霊の働きです。ですから、聖書を学ぶ時には、いつも「聖霊よ、私を教えてください」と願い求め、聖書を開きたいと思います。

 使徒パウロはこう祈りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」(エペソ1:17-19)この箇所は、そのまま祈ってもよいし、自分の言葉で置き換えて祈ってもよいでしょう。どんなときにも、とくに聖書を読むときには、「知恵と啓示の御霊」を願い求めましょう。私たちを救い、生かし、永遠の命を与える真理へと、聖霊によって導かれたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、ありとあらゆる情報が溢れている時代に生きています。多くの人が、その中で真理を見失っています。そんな中であなたを信じる者までもが、福音の真理を見失い、そこからそれてしまうことがあります。それでは、この世から真理の光が消えてしまいます。聖霊によって、私たちを真理に導き、そこに留めてください。イエスこそ、「道、真理、いのち」です。私たちが、イエスに出会い、もっとイエスを知り、信頼し、従うことができるよう、聖霊により導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/12/2024