14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
一、人格の神
使徒パウロがアテネに滞在していたとき、「アレオパゴス」というところでイエス・キリストを証しする機会を与えられました。アテネの人々は数多くの神々を崇拝し、彼らが知りうるかぎりの神々のために祭壇を築いていました。そればかりでなく、自分たちがまだ知らない神もあるだろうからと、「知られていない神」のためにも祭壇を築いていました。それを知ったパウロは、こう話しはじめたのです。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。」(使徒17:22-23)
もし、パウロが日本で伝道したとしたら、同じように説教しただろうと思います。日本には、アテネに劣らず数多くの神々があって、いたる所で祀られているからです。日本の神々は「やおよろずの神々」と呼ばれますが、「やおよろず」は漢字で書けば「八百万」ですから、文字通り “eight million” もの神々がいることになります。ですから、日本で、「私は神を信じます」と言ったところで、「ああ、そうですか」と言われるだけで、おそらく何の抵抗もないでしょう。日本人の多くは、あらゆる「神」を受け入れますが、とくにどの神を信じるということはしないからです。
使徒信条が「私は神を信じます」というとき、その神は大文字の神です。英語では「神」は小文字の “god” ではなく大文字で始まる “God” が使われます。小文字の “god” は一般名詞ですが、大文字の “God” は固有名詞です。キリスト者が「神を信じる」というとき、それは「神」という概念を受け入れるということではなく、“God” の名で呼ばれるお方、ご人格に信頼するということを意味しているのです。
キリスト者がそのような意味で「私は神を信じます」と言うと、人々はいやな顔をして「そんなことは聞きたくない」と言われるか、アテネの人々がパウロに言ったように「そういう話はまたにしょう」(使徒17:32)と言われてしまうことでしょう。そして「私はこの神を信じます」と表明するとき反対が起こってくるでしょう。実際、初代のキリスト者は、その信仰告白のゆえに「無神論者」と呼ばれ、迫害を受けたのです。神を信じるキリスト者が「無神論者」と呼ばれたのは、おかしなことですが、それは、キリスト者がギリシャやローマの神々を信じなかったからです。
しかし、まことの信仰者は、「私は神を信じる」との信仰の告白をやめませんでした。なぜなら、明確な神への信仰、ご人格である神への信頼なしには人は救われないからです。神への真実な告白を保つ者、また、失敗やつまずきがあったとしても、この告白に立ち返る者だけが救いの確信を得ることができるからです。もし、信仰者がこの告白をあいまいにしてしまったら、誰が、まことの生ける神を知ることができるでしょうか。信仰者が神を真実に告白することがなければ、神は、人々にとって「知られない神」のままになってしまうのです。私たちは、いつ、どんなときも、明確に、「私は神を信じます」と告白する者でありたいと思います。
二、父なる神
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」とあるように、使徒信条は、神を「造り主」、また「父」と呼んでいます。この部分は、ラテン語の語順では、「神、父、全能、創造者」の順になっています。私たちの信じるお方は、まず「神」と呼ばれ、次に「父」と呼ばれ、それから「創造者」と呼ばれています。
では、神はどういう意味で「父」と呼ばれているのでしょうか。それは、第一に、神が「天と地」、つまり、あらゆるものを創造されたお方、万物の源だからです。ヒポクラテス(460-370 BC)は「医学の父」、ニュートン(1643-1727)は「近代科学の父」、バッハ(1685-1750)は「音楽の父」、アダム・スミス(1723-1790)は「経済学の父」と呼ばれています。日本にも、さまざまな「父」がいます。たとえば、嘉納治五郎は「柔道の父」と言われています。アメリカでは「建国の父」はひとりではなく、独立宣言や合衆国憲法に署名した多くの人々を指します。この人たちは、ドル紙幣にその肖像が刻まれています。1ドル札のジョージ・ワシントン、2ドル札のトマス・ジェファーソン、10ドル札のアレキサンダー・ハミルトン、100ドル札のベンジャミン・フランクリンたちです。これらの人々は、それまでは無く、その後も長く続くようになったものを生み出したので、「父」と呼ばれています。しかし、神は、そうした「父」たちの「父」であり、あらゆるものの根源であるお方です。
神が「父」と呼ばれるのは、第二に、イエス・キリストの父だからです。今、私は「『第二』に」と言いましたが、ほんとうは、こちらを「第一に」すべきだったと思います。神が「創造者」として「父」と呼ばれるのは、「父のようなお方」という意味ですが、「御子の父」という場合、神はほんとうに「父」なのです。御子が人となってお生まれになったのは、今から二千年前のことですが、その時はじめて御子が存在されるようになったのではありません。御子は永遠の先に父なる神から「生まれ」、父なる神とともにおられたのです。御子は造られたお方ではなく、むしろ、父なる神とともに世界を創造された方です。ヨハネ1:1-3に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」とある通りです。御子は造られたお方ではないので、人間の言葉では父から「生まれた」としか言いようがないのです。神は、この世界を創造される前から、御子の「父」、「父なる神」であられたのです。
神が父であることは、神が愛のお方であることを物語っています。親が子を愛すること以上に大きな愛はありません。神は創造主として、ご自分のお造りになった世界をいつくしんでおられますが、それ以上の愛を御子に注いでおられます。神は、見ることも聞くことも、感じることもない理念や概念ではありません。心を持たない原理や法則でもありません。神はご人格です。しかも、ひとりぼっちの愛を知らないお方ではなく、永遠の先から御子とともにおられ、人知では量り知れない大きく、高く、深い愛で御子を愛しておられる愛の神なのです。神は、その愛を、御子イエスを通して、信じる者に分け与えてくださいます。神を信じるとは、この「愛の神」から愛され、「愛の神」を愛する関係へ導かれ、それを深めていくことなのです。
三、イエス・キリストの父
神がイエス・キリストの父であるというのは、他の宗教の人々、とくにイスラムの人々には、とんでもない教えなのだそうです。スコット・ハーンという聖書学者が、イスラムの学者と公開討論会をすることになりました。その準備のため、イスラムの学者と話し合いをしていたとき、ハーン博士が「父なる神は…」と口にしたとたん、イスラムの学者は、すぐに怒りを表して、「神、アッラーは、すべてを超越したお方であり、神を人間になぞらえてはいけない」と言いだしました。ハーン博士が「イエス・キリストは神の御子であって…」と言うと、「神は人ではないから、子を持つことなどありえない」と反論され、「キリストを信じる者もまた神の子どもとなって神の愛を受ける」と語ろうとすると、「神はすべての者の主(マスター)であって、人間はしもべ(サーバント)に過ぎない。人間が神を『父』と呼ぶなど、冒涜である」とまくしたてられました。結局、ふたりの話は平行線のまま終わり、公開討論会もキャンセルされたそうです。
私は、この話を聞いて、聖書の教えが一般の宗教とどんなに違っているかを改めて教えられました。「ユダヤ教、キリスト教、またイスラム教は『一神教』で、『多神教』から見れば皆同じようなものだ」と良く言われますが、決してそうではないのです。ほんとうの意味で人を愛してくださる神を教え、示してくださったのは、御子イエス・キリストの他ありません。私たちは、御子であるイエス・キリストを通してはじめて、愛の神であることを知り、その愛を受けることができるのです。イエス・キリストを神の御子と信じる信仰なしには、父なる、愛の神を信じることはできません。神の愛が分からず、神を「父」と呼んで、その愛を受けることができないのです。ですからイエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われ、使徒信条は「私は神…とイエス・キリストを信じます」と告白しているのです。私たちは「神」を、「父なる神」として、また、「イエス・キリストの父なる神」として信じているのです。
イエスは言われました「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」(ヨハネ14:6-7)イエスは、ここで、人はどうしたら道を見出し、真理を学び、いのちを育むことができるかを教えておられるのではありません。イエスが宗教の指導者にすぎなければそういったことを話されたでしょう。よく「キリスト教とはキリストである」と言われますが、まさに、その通りで、イエスの教えの中心はいつでも、イエスご自身です。イエスは「わたしが道である。わたしに従いなさい。」「わたしが真理である。わたしから学びなさい。」「わたしがいのちである。わたしを信じなさい」と言われるのです。
「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」多くの人は、このことばを「排他的」だと言います。もし、イエスがどんなに優れた人物であったとしても、人にすぎないのなら、このようなことばはきわめて独善的で排他的でしょう。しかし、イエスが父なる神のひとり子であるなら、このことばほど真実なことばはありません。古代では、王は王子に実際の政治を任せ、資産家の主人は息子に財産の運営を任せました。その場合、王子のことばは王のことばであり、息子が結んだ契約は主人が結んだものと同じでした。神の御子のことばは父なる神のことばであり、イエスのなさることは、神がなさることなのです。ですから、イエスは「わたしを知るものは父を知り、わたしを見たものは父を見たのだ」と言われ、「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と言われたのです。
「私は神を信じます。」それは「神」という概念を信じることではなく、生ける、ご人格である神に信頼することです。それは、父である愛の神と真実な愛で結ばれることです。そして、そのことは、父の御子であり、人の救い主であるイエス・キリストを信じることによってなされるのです。私たちはイエス・キリストを信じてはじめて、「私は神を信じます。イエス・キリストの父なる神を信じます」と、確信をもって告白することができるようになるのです。
(祈り)
イエス・キリストの父なる神さま、あなたは、御子イエス・キリストによって私たちにご自身を現し、あなたの愛のうちに招いてくださいました。どうぞ、私たちに、「私はイエス・キリストの父なる神を信じます」という明確な信仰の告白を与えてくさい。私たちの信仰告白によって、多くの人々があなたを見出すことができますよう導いてください。イエスの御名で祈ります。
1/13/2019