14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。
一、弟子たちの困惑
きょうの箇所は、主イエスが最後の晩餐の後、ゲツセマネの園に向かわれるまでの間に、弟子たちに語られた言葉です。このとき、主イエスは、弟子たちに、ご自分が父のもとにお帰りになることをあからさまに告げました。あと数時間で主と別れなければならないと聞かされ、弟子たちは動揺し、まったく混乱してしまいました。
弟子たちは3年の間、主に従い続けてきました。そしてもうすぐそれまでの苦労が報われるときが来ると信じ、期待していました。ところが、主は弟子たちを残し、世を去るというのです。弟子たちは、主から訓練を受けてはきましたが、何ごとにおいても主に頼りきっていましたから、主がいなくなれば、これから何をどうして良いかまったく分かりませんでした。主が言われることが理解できない苛立ち、主から見離されるのではないかという不安、さらには、今まで主に従ってきたことが無駄だったのだろうかという疑問などが弟子たちの心を占領しました。弟子たちは「心を騒がせた」のです。
皆さんも、このときの弟子たちと同じように、予期もしなかったようなことに直面して、困惑し、混乱したことがありませんでしたか。そんなとき、皆さんはどのようにしてそこから立ち直ることができましたか。人生にはいつ、どんな事が起こるか分かりません。たとえ、今まで健康も、仕事も、家庭も、いろんな面で順調だったとしても、これからどんなことがわたしたちの人生に待ち受けているか誰もわかりません。なぜこんなことが起こるのか、いったい何がどうなっているのか分からない、そんな問題が押し寄せて来るかもしれません。そんなとき、皆さんはどうしますか。「心が騒ぐ」時、皆さんを支えてくれるものは何なのでしょうか。
二、キリストの困惑
わたしたちが「心騒ぐ」時、わたしたちを支えるのはイエス・キリストの言葉です。主イエスは、弟子たちに「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と言われました。これは単なる口先だけの言葉ではありません。この言葉には力があります。主イエスご自身が「心騒ぐ」体験をなさって、弟子たちの「騒ぐ」心のうちを十分に知っておられたからです。
ヨハネの福音書で「騒ぐ」という言葉が最初に出てくるのは、ヨハネ5:7です。そこでは、「水が動く」というところでこの言葉が使われています。ベテスダの池の水が動くとき、つまり、それがかき回されるとき、その池に最初に飛び込んだ者は、どんな病気でもいやされると言い伝えられていました。温泉の水が泡だったり、噴水のように吹き出したりすることがありますが、そんなことがベテスダの池にはあったのでしょう。「心騒ぐ」というのは、それと同じように、心の中がかき回されることを意味しています。池の水ばかりでなく、わたしたちの心もまた、突然の出来事によってかき回されます。ストレスが積りに積もってついに噴水のように吹き出してしまうことがあるのです。
次はヨハネ11:33です。ラザロが亡くなってから、主イエスは、ベタニヤの町に、ラザロの姉妹たち、マルタとマリヤを訪ねました。マルタとマリヤ、また多くの人々がラザロの死を嘆き悲しんでいました。その姿を見てイエスは「心を騒がせ」ました。主イエスはご自分の友ラザロの死に、ご自分の死を重ねあわせてご覧になり、「心を騒がせた」のです。
ヨハネ12:27では、主ご自身が「今わたしは心が騒いでいる」とおっしゃいました。主が十字架にかけられる数日前のことです。すぐそこに十字架の死が待っている、そのことを思って、主は「心を騒がせ」ました。そして、そのことを正直に口にし、父なる神に祈られたのです。
ヨハネ13:21は最後の晩餐の席で主がユダの裏切りを予告されたときのことです。「その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』」とあります。ご自分が選んだ十二弟子のひとりが裏切ろうとしているのです。主の心が騒がないはずがありません。
主が、弟子たちに「心を騒がせるな」とおっしゃったとき、主は「わたしも、心が騒いでいる。あなたたちの思いは良く分かる」という意味でおっしゃったのです。
主が、わたしたちに「心を騒がせるな」と言ってくださるときも、同じです。主は、わたしたちと変わらない人間となって、わたしたちが直面するあらゆる苦しみを味わってくださったお方です。第一コリント10:13に「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」とあります。「世の常でないものはない」というところは原文では「人の知らないものはない」と書かれています。この「人」とは、人間一般を指すのですが、この「人」を「イエス・キリスト」に置き換えても意味が通じます。「あなたがたの会った試錬で、イエス・キリストの知らないものはない。」これは真実です。主の知らない苦しみはありません。わたしたちが「心を騒がせる」どんな苦しみも主はすでに経験してくださっています。孤独も、誤解も、中傷も、裏切りさえも主は体験されたのです。主は、わたしたちのどんな苦しみも知っておられるのです。ですから、わたしたちも「心が騒ぐ」とき、主に向かいましょう。「わたしの心も騒いたのだ」とおっしゃって、わたしたちを理解してくださるお方のもとに行きましょう。
三、キリストにある平安
主は、わたしたちの「心騒ぐ」思いをご存知です。しかし、もし、主がそれに勝利されなかたっとしたら、主の言葉はたんなる同情で終わります。「あなたがたは、心を騒がせないがよい」という言葉が力を持つのは、主が、その「心を騒がせた」事柄に勝利されたからです。主の「心を騒がせた」事柄とは何なのでしょうか。それは、「罪」と「死」です。
主は、弟子たちのように何が起きているか分からず「心を騒がせた」のではありません。これから何が起ころうとしているかを十分にご存じでした。しかも、その本質を見抜いておられました。これから起こる出来事は、神の御子が罪びととなり、いのちの主が死ぬという恐ろしいできごとでした。しかも、それが愛する父のみこころであり、その時が、一刻、一刻近づいているのです。主は、その現実に直面し、「心を騒がせ」ました。それは父に対する信頼が足らなかったからでも、心が弱かったからでもありません。むしろ、「罪」と「死」という恐ろしい現実の前に立ち、それをしっかりと見つめておられたゆえです。主はそれから逃げず、人々をそこから救い出すために、それに立ち向かれたのです。
わたしたちは聖書から教えられるまでは、「罪」がどんなに神の愛と恵みを損なっているか、十分に理解していませんでした。罪の結果である「死」がどんなに恐ろしいものかを分かっていませんでした。それで、「罪」や「死」に対して鈍感になり、そのことを思って「心を騒がせる」ということがありませんでした。ですから、イエスともあろうお方がそれほどまでに「心を騒がせた」ことを不思議に思ってしまうのです。しかし、聖書によって、問題の本質がどこにあるかを知ったとき、わたしたちもまた、正しい意味で「心を騒がせる」、つまり、罪を悲しみ、罪の結果に対して恐れをもつことができるようになりました。バッハの「マタイ受難曲」の冒頭の合唱は、こう歌っています。
来たれ、なんじら娘たち、来たりて共に嘆け。「来たりて共に嘆け…われらの罪を。」この呼びかけのように、自分の罪が分かり、その結末である死の恐ろしさが分かるとき、主の十字架の意味が分かるのです。主がわたしたちの罪をすべて背負って十字架にかかられたこと、罪の結果である永遠の死を引き受けてくださったことが分かるのです。キリストの恵みが、ほんとうに「アメージング・グレイス」であることが分かるのです。
見よ、(誰を、)花婿なるキリストを。
見よ、(いかに、)子羊のごときを。
見よ、(何を、)彼の屈辱を。
見よ、(いずこを、)われらの罪を。
愛と、恩寵とのゆえに
十字架を負いしキリストを見よ。
聖書が教える「救い」は、たんに「問題を上手に解決し、悩みをふりはらって、人生をエンジョイする」といったものではありません。わたしたちの人生のどんな問題もつきつめるなら、「罪」と「死」に行き着きます。この問題の解決なしに、人生の問題の本当の解決はありません。そして、この解決は、イエス・キリストによらなければ誰にもできないのです。イエス・キリストだけが罪と死に打ち勝った勝利の主です。イエス・キリストはご自分が罪びととなることによってわたしたちの罪を赦し、ご自分のいのちを投げ出してわたしたちにいのちを与えてくださいました。ですから、聖書はイエス・キリストの救いを「罪の赦し」と「永遠のいのち」という言葉で表わしているのです。わたしたちは、イエス・キリストを信じて「罪の赦し」と「永遠のいのち」をいただくのです。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」主は、わたしたちが心を騒がせなくてよいように、わたしたちのためにすべてを備えてくださったうえで、そうおっしゃったのです。主は、心を騒がせやすいわたしたちの弱さを知っておられます。「心を騒がせないように」という忠告ではなく、心を騒がせなくてよい救いを与えてくださいました。主は、ヨハネ14:27で、もういちど、「心が騒ぐ」という言葉を使ってこう言われました。
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。「心が騒ぐ」とき、この言葉に立ち返りましょう。主の力ある言葉を握りしめましょう。主の言葉の力を体験しましょう。
(祈り)
父なる神さま、主イエス・キリストの力あるお言葉を感謝します。「心が騒ぐ」とき、主の言葉に耳を傾けさせてください。そして、御言葉によってわたしたちを生かし、御言葉の約束のとおりの「平安」を体験させてください。わたしたちを愛して十字架に向かわれたイエス・キリストのお名前で祈ります。
3/1/2015