聖霊の内住

ヨハネ14:16-17

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14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

 イエスは世を去る前、弟子たちに多くのことを話されましたが、その中で、何度も聖霊について語らっておられます。ご自分が世を去って父のもとに行ったなら、聖霊を与えると、約束されました。5月は、「ペンテコステ」の月ですので、イエスが聖霊について教えておられることを学ぶことにしましょう。

 一、愛の贈りもの

 イエスは、やがて世を去り、父のみもとに帰っていかれます。けれども、イエスは弟子たちを、ひとりぼっちにはされません。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(14:18)と、イエスは言われました。

 聖書では、「孤児」や「やもめ」は最も弱い立場にある人々とされています。神は、そうした人々に心をかけ、社会に、それらの人々を保護するように命じておられます。詩篇68:5には「みなしごの父 やもめのためのさばき人は/聖なる住まいにおられる神」とあって、もし誰かが孤児ややもめを不当に扱うなら、聖なる神ご自身が孤児の父となり、やもめのさばき主となって、その者を罰し、社会に正義をもたらされることを言っています。父なる神は、ご自分を「みなしごの父」と呼ぶほどに、よるべのない人々を護ってくださる愛の神です。

 イエスが弟子たちに、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と、「孤児」という言葉を使われたのは、孤児を優しく護り、必要とあれば、力をもってその味方となってくださるほどの父なる神の大きな愛を、弟子たちに伝えるためでした。父なる神が、よるべのない者を愛し、決してお見捨てにならないように、イエスも、ご自分を信じる者を決して見捨てないと約束しておられるのです。

 イエスの愛は中途半端な愛ではありません。ヨハネ13:1に、こうあります。「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」「最後まで」というのは、テサロニケ第一2:16で同じ言葉が「極みに」と訳されているように、イエスがその愛を「極みまで」広げて、弟子たちを愛されたという意味です。古い日本語の訳(文語訳)では「極みまで愛したまえり」と訳されています。New Living Translation では“He now showed the disciples the full extent of his love.” とあって、「愛の完全な広がり」と訳されています。

 イエスの愛は、私たちを「とことん」愛し通される愛です。イエスが弟子たちに聖霊を送ると約束されたのは、その極限まで広げられた大きな愛、ご自分に頼る者を決して見捨てない愛によってだったのです。ですから、イエスが与えると約束された聖霊は、父なる神と主イエスからの愛の贈りものであると言うことができます。

 聖霊が愛の贈りものであることは、使徒信条にも、言い表されています。使徒信条は、3つの部分から成り立っています。「我は…父なる神を信ず」、「イエス・キリストを信ず」、そして、「聖霊を信ず」の各部分です。父なる神については短く、御子イエス・キリストについては詳しく書かれていますが、「聖霊を信ず」については、聖霊がどのようなお方で、何をされるのかは書かれていません。しかし、その後に続く「聖なる公同の教会」、「聖徒の交わり」、「罪の赦し」、「身体のよみがえり」、「永遠の生命」が、みな、父と御子によって与えられた救いの賜物であるように、聖霊もまた、父と御子からの賜物であると言われているのです。私は使徒信条を唱えるたびに、イエスの愛によって、聖霊という最高の賜物を受けていることに、心からの感謝を捧げています。

 二、もう一人の助け主

 聖霊は、父なる神と御子イエスからの愛の贈りものです。しかし、「贈りもの」といっても「品物」ではありません。聖霊は「者」であり、人格です。それは、イエスが神からの愛の贈りものでしたが、決して物体ではなくご人格であり、しかも、御子なる神、神ご自身であったのと同じです。

 最近、まだ十分に口のきけない子どもにもスマートフォンを与える親が増えました。ショッピングカートに乗せられている子どもがスマートフォンを手に持っていたり、レストランでスマートフォンを操作して、動画などを観ているのを見かけます。子どもは、母親や父親のそばにいて遊んでもらいたいのですが、親は、それが面倒なので、子どもにおもちゃがわりにスマートフォンを与えておいて、ショッピングや大人どうしの会話を楽しもうというわけです。イエスが聖霊を与えるとおっしゃったのは、親が子どもにおもちゃを与えるようなものとは違います。人格であるお方、神である聖霊を、イエスは与えてくださったのです。

 イエスは、聖霊を「もう一人の助け主」と呼ばれました。この「もう一人の」には、イエスと「同じもの」という意味があります。ナニーは親の代わりに子どもを預かって世話をしますが、子どもは、どんなにナニーになついていても、親が帰ってくると、ナニーを放っておいて、親のところにかけつけていきます。聖霊は、ナニーのようではありません。父なる神と同じ、たましいの親であり、御子イエスと同質、同格です。イエスが地上で父なる神に何も劣ることがなく、父の代理者であったように、聖霊もイエスに何一つ劣ることなく、完全にイエスに代わるお方なのです。

 聖霊は「助け主」と呼ばれていますが、これはギリシャ語で「パラクレートス」と言い、それには「そばに呼ばれた者」という意味があります。この言葉は、裁判のとき、依頼人に代わって法廷に立ち、依頼人を護ってくれる「弁護人」を指すのに使われています。先に、「みなしごの父 やもめのためのさばき人は/聖なる住まいにおられる神」(詩篇68:5)という箇所を引用しましたが、聖霊は、父なる神が孤児ややもめの弁護者であるように、神を信じ、キリストを信じる者の「弁護者」となってくださるのです。

 弟子たちは、しばしば、律法学者やパリサイ人から非難され、やり込められていました。そんなとき、イエスはいつも、律法学者やパリサイ人に反論し、弟子たちをかばってこられました。イエスが天に帰られたあとは、「もう一人の弁護者」である聖霊が、イエスの代わりをしてくださいます。使徒6:9-10 に、ステパノについてこう書いています。「ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。」ステパノの内におられた聖霊が弁護者となって、反対者に答えてくださったのです。それは、他の弟子たちも同じでした。使徒たちは何度も最高法院に呼び出されましたが、聖霊は、常に、彼らの「弁護者」として働かれたのです。

 「助け主」、「弁護者」と訳される「パラクレートス」は、「慰め主」とも訳すことができます。聖霊は、何か困難に遭ったときだけの「助け主」、問題がなければ必要のない「弁護人」でもありません。人生の、また、生活のどんな場面でも、私たちを助け、弁護し、そして、慰めてくださるお方です。失敗したとき、悲しみのとき、苦しみのとき、孤独を感じるとき、落胆するとき、恐れを覚えるとき、あるいは怒りを感じるときでさえ、聖霊は「慰め主」として、私たちをたましいの内側から支えてくださるお方です。私たちは、どんな感情であれ、それを聖霊に委ね、生活のどんな分野でも、そこに聖霊が働いてくださるように願い求めたいと思います。そのようにして、聖霊が、神とイエスの愛によって贈られた「もう一人の助け主」であることを体験として知りたいと願います。

 三、いつまでも、ともに

 ヨハネ14:16で、イエスは、「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」と言われました。イエスは聖霊が、信じる者の内に住み、「いつまでも…ともにいる」ようになると約束されました。

 イエスが世に生まれる前から、永遠の先から、御子として存在しておられたように、聖霊も、ペンテコステの日に弟子たちに降る以前から、存在しておられました。聖霊は、父、御子とともに永遠の神です。聖霊のお働きは創世記のはじめから記されています。「はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」(創世記1:1-2)とあるように、聖霊は世界を生み出されたお方です。また、「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(同2:7)とあるように、聖霊は人に吹き込まれた「いのちの息」、人を生かしておられるお方です。

 しかし、旧約時代には、聖霊は、ある一定の期間、人に特別な能力を与えることはあっても、「いつまでも…ともにいる」、つまり、人の内に「住まわれる」ことはまれでした。たとえば、サウル王に神の霊が降ることがありましたが、彼が罪を犯した後は、神の霊は彼を離れ去り、わざわいの霊がサウルをおびえさせることになりました(サムエル第一16:14)。聖霊は、常に、人の霊とともにおられ、人のたましいのうちに宿られたわけではなかったのです。

 しかし、神は、選ばれた人々には、旧約時代にも聖霊を宿らせました。それは、新約時代を予告するためでした。ダビデは、大きな罪を犯したとき、神の前に悔い改めの祈りを捧げて、こう言いました。「私を あなたの御前から投げ捨てず/あなたの聖なる御霊を/私から取り去らないでください。」(詩篇51:11)「あなたの聖なる御霊を/私から取り去らないでください」との言葉は、聖霊が、ダビデと、常に、共におられたことを言っています。ダビデが、罪を悔い改めることができたのも、共におられた聖霊の働きだったのです。

 新約時代には、聖霊は、イエス・キリストを信じるすべての人の内に住んでくださいます。ローマ8:9, 11やテモテ第二1:14には聖霊が信じる者のうちに「住んでおられる」、「宿っておられる」とあります。そこには英語で言えば“dwell in” に相当する言葉が使われており、聖霊が私たちの「内に住まわれる」ことを、「聖霊の内住」(“indwelling”)と言います。聖霊は、時たま、私たちを訪れる「訪問者」ではなく、「家族」のように、いつも一緒に、私たちのすぐ側にいて、私たちを慰め、励まし、助け、導いてくださるお方なのです。

 イエスはヨハネ14:17で「この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」と言われました。神を信じない人やイエスを受け入れようとしない人が、聖霊を「見ることも知ることもない」のは本当です。聖霊を受けている人が信じていること、感じていること、話していること、行動していることを理解できないでいます。なぜ、クリスチャンは、大変なときにも平安でいられるんだろう、悲しみを乗り越えられるんだろう、自分にとって嫌なことでも受け入れ、他の人のために行動できるんだろう、そうしたことが分からないのです。しかし、イエスを信じる者は、自分の内に聖霊が住んでおられることを知ることができます。また、知っていなければならないのです。聖書は、「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(コリント第一3:16)と言っています。これに対して、「はい、知っています。もっと、知りたいのです。また、他の人に、私の内に聖霊が住んでおられることを知ってもらいたいのです」と答えたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちに、単なる「助け」だけでなく、「助け主」を、「護り」だけではなく、「弁護者」を、「慰め」だけではなく、「慰め主」を送ってくださいました。聖霊を頂いている私たちにとって、あなたは、遠くにおられるお方ではなく、「苦しむとき そこにある強き助け」です。この幸いを感謝します。この幸いに留まり、それを証しする私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/5/2024