14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
今週木曜日はイースターからちょうど40日目で、キリストの昇天日です。この日は、教会の祝祭日として長い間守られてきましたが、平日に教会に集まることが難しくなってきましたので、今では、来週の日曜日を「キリストの昇天主日」として、主の昇天を記念するようになりました。ドイツでは「主の昇天日」は、今でも「国民の祝日」になっています。けれども、ドイツでは「父の日」と呼ばれ、男同士でビールを飲み明かす日になってしまいました。
一、聖霊は助け主
しかし、本来の「昇天日」はビールと何の関係もありません。イエスは天に昇っていかれるとき、聖霊を約束されました。「昇天日」は聖霊を受けるための準備の日でした。
イエスは、十字架にかかられる前の日、弟子たちと過越の食事を共にし、その後、長い時間、弟子たちに数多くのことをお話しになりました。ヨハネの福音書13章から17章には、そのときのイエスの言葉がしるされています。きょうの箇所はイエスが聖霊について話された最初の箇所です。
イエスは、ここで、聖霊を「もうひとりの助け主」と呼んでおられます。「助け主」、英語では “Helper” ですが、これは、もちろん「お手伝い」という意味ではありません。聖書ではこう言われています。「私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾」(詩篇33:20)、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(詩篇46:1)、「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(詩篇54:4)私たちは、私たちの人生で、自分の力ではどうにもならないこと、人間の力の及ばないことに、何度か出くわすものです。どんな助けもなく、孤立してしまったように感じることがあります。しかし、そんなときにも、私たちを助けてくださるお方、それが聖霊です。
この「助け主」という言葉はギリシャ語で「パラクレートス」といいます。「パラ」(側に)と「カレオー」(呼び寄せる)が組み合わさってできた言葉です。これは、法廷での「弁護人」のことを意味します。身に覚えのないことで非難され、今まで親しかった人たちからも誤解される。とてもつらいことです。そんなときも、私たちの側を離れず、弁護してくださるお方、それが聖霊です。聖書には「私を弁護してください」という祈りが数多く出てきます(詩篇7:8、26:1、35:24)。詩篇54:1には「神よ。御名によって、私をお救いください。あなたの権威によって、私を弁護してください」とあります。聖霊は、こうした祈りに答えてくださるお方、神がそのような祈りに答えるために与えてくださった「弁護者」です。
また、「パラクレートス」には、「慰め主」という意味もあります。私たちは、悲しいこと、つらいことに出会ったとき、誰かから声をかけてもらい、心配してもらえるのは、とてもありがたいことです。誰かが自分のことを心配してくれている、祈ってくれている。そのことを知るだけでも、助けられ、励まされます。しかし、深い悲しみに陥ったときや、心が折れてしまったとき、また、失望しきってしまったとき、人の助けだけでは、たましいの奥深いところにある空白を埋めることができません。いったん折れてしまった心を立ち直らせることはできないのです。けれども、そんなときでも、私たちのたましいを満たし、もういちど心を強め、失望に代えて希望を与えてくださるお方がおられます。それが「慰め主」である聖霊です。
コリント第二1:3に「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように」とあるように、父なる神は「慰めの神」す。神は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方」(イザヤ57:15)ですが、だからといって、この地上で、さまざまな問題と格闘している人、苦しみの中にあえいでいる人、悲しみに沈んでいる人々のことをご覧にならないというのではありません。もし、私たちが重荷や苦しみ、悲しみの中で自分の無力を悟り、高慢な思いを砕かれ、へりくだって神に助けを呼び求めるなら、神は、私たちの「慰めの神」となってくださいます。神は言われます。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」聖霊は、まさに、この通りの「慰め主」なのです。
聖霊は、私たちの「助け主」、「弁護人」、「慰め主」としてすでに世に来てくださいました。それなのに、なぜ、今も「聖霊よ、来てください」と祈るのでしょうか。それは、すでに世に来てくだった聖霊を、文字通りの「パラクレートス」として、私たちの側に招く祈りです。私たちに近づいてくださる聖霊に、私たちの方からも、へりくだりと信仰によって近づこうとすることなのです。いままで、自分の頑張りでやっていたことを聖霊にお任せする。自分にはできないとあきらめていたことに、聖霊の助けを求めてチャレンジしていく。私たちは、「聖霊よ、来てください」との祈りによって、助け主、弁護者、そして慰め主となってくださるように、願い求めるのです。
二、聖霊はイエスの代理者
イエスは、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」と言われ、聖霊を「助け主」と呼ばれましたが、そのとき、「もうひとりの」という言葉を付け加えられました。「もうひとりの」を表すときに使われるギリシャ語には「アロス」と「ヘテロス」の二つがあります。「アロス」は「同種類の」ものを表すときに使い、「ヘテロス」は「別種類の」ものを指すときに使います。聖書は、じつに注意深く書かれていて、ここでは、「ヘテロス」ではなく「アロス」が使われ、聖霊がイエスと同じ神であり、同じ栄光と力を持ち、同じ使命をもっておられる方であることを示しています。
ピリポが「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(ヨハネ14:8)と言ったとき、イエスは「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)とお答えになりました。イエスは、ご自分が神の御子であり、父とひとつである、父の代理者であると言われました。そして、その上で、聖霊を「もうひとりの助け主」と呼ばれたのです。つまり、御子イエスが御父の完全な代理者であるように、聖霊も、御子イエスとかわるこのない、御子の完全な代理者であると言われたのです。御子が見えない神を目に見える姿で現されたように、聖霊は御子イエスのお姿を信じる者のたましいの内に描いてくださるのです。
イエスは御父と等しいお方、神の御子だからこそ、父なる神の代理者となることができました。同じように、聖霊も、御父とも御子とも等しいお方だからこそ、御子の代理者となることができるのです。御子は御父の栄光を表し、聖霊は御子の栄光を表すのです。しかし、御父から御子へ、御子から聖霊へと引き継がれるにつれて神の栄光が減っていくというのではありません。御父の栄光も、御子が表す栄光も、聖霊が示す栄光も全く同じものです。私たちが受けた聖霊は、御父や御子に劣るとか、神以下のお方だというのではありません。聖霊は、御父や御子と変わらないお方です。私たちは聖霊によって、神ご自身を、「パラクレートス」、側近くに呼び寄せられたお方として持つことができるのです。これは、驚くべき奥義です。
三、聖霊は真理の教師
聖霊は、私たちの「助け主」、しかも、御父や御子と変わらないお方。このようなお方が私たちと共におられ、また、私たちの内に宿っておられる。これは、信仰を持つまでは、また、聖霊を意識し、聖霊に教えを請うまでは分からなかったことでした。しかし、信仰を持ち、聖書に教えられて、私たちは聖霊を理解するようになりました。そして、その理解を与えてくださったのも、聖霊でした。イエスが「その方は、真理の御霊です」と言われた通り、聖霊は私たちを真理に導いてくださるお方です。
イエスは御父の栄光を表され、イエスの言葉は聖書に遺され、誰もが読むことができますが、すべての人がそれを理解し、イエスを信じているわけではありません。どんなに優秀な頭脳を持っていても、聖霊によって教えられるのでなければ、人は真理に至ることができないのです。神の真理はイエスによって解き明かされましたが、それを理解するには、さらに聖霊の働きが必要です。真理は御父から御子へ、そして御子から聖霊へと引き継がれ、私たちに伝えられます。ヨハネ16:14に「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」とある通りです。
きょうの箇所の17節に「世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです」とあるように、信仰を持つ者と信仰を持たない者との大きな違いは、聖霊を受けているか、受けていないかの違いにあります。イエスを信じない人は、聖霊を知らないばかりか、聖霊を受けたいとも思わないでしょう。しかし、イエスを知ろう、イエスに従おうとするとき、私たちは自分の力でそれができないことを知ります。私たちにイエスのことを教え、イエスに従う力を与えてくださる「もうひとりの助け主」が、かならず必要になるのです。
真理に導かれるとは、たんに「神について」、「イエスについて」何かを知ることではありません。「神について」、「イエスについて」ではなく、「神を」知り、「イエスを」知ることです。つまり、神とイエスを「ことがら」としてでなく「人格」として知ることです。私たちが誰かのことを知るというとき、その人の誕生や経歴、その他のデータを数多く持っているということではありませんね。その人の人格に触れ、その人と人格と人格の関係を持つことです。そして人格と人格との交流が、友情に、信仰者同士の場合は「兄弟愛」になっていくのです。人は、そのような人間関係によって幸いを得、自らを成長させることができます。同じように、神との間に人格と人格の関係、つまり、神を愛し敬い、また信頼するという関係を育てることによって、そのたましいに深い満足が与えられ、人生の実りを得ることができるのです。
信仰とは「イエス・キリストは救い主である」という一般的なステートメントを承認することではありません。イエス・キリストが人格のすべてをかけて、私たちを愛してくださったように、私たちも、人格のすべてをもってその愛にお答えしようとすることです。
聖書に「神の顔」という言葉があります。これは神が人格であることを意味しており、「神の顔を求める」とは、人格である神を、わたしたちも全人格をもって求めるということを意味しています。聖霊は、私たちの知性だけではなく、意志にも、感情にも、全人格に働きかけてくださいます。そして、私たちが、人格と人格との関係との中で神を知るようにしてくださいます。「真理の御霊」である聖霊は、そのようにして、私たちを真理に導いてくださるのです。
イエスは言われました。「しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」イエスを信じる者には、聖霊が、その人の内に住んでくださいます。イエスを信じて、聖霊を私たちのうちにお迎えしましょう。この聖霊によって、さらに神を知り、イエスを知る者とされていきましょう。聖霊がくださる神とのまじわりの幸いを味わいましょう。イエスを知ることにおいて、さらに成長していきましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちに聖霊をお与えくださり、感謝します。私たちは、聖霊が信じる者と共におられること、信じる者を慰め、助けてくださること、真理に導いてくださることを学びました。この知識がたんなる知識で終わることなく、日々の生活の中で、聖霊の豊かな働きを体験することができるよう、私たちを導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
5/22/2022