14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
一、神の愛
「母の日」おめでとうございます。「母の日」は1907年、アナ・ジャービスさんが母親を偲んで行った記念礼拝から始まりました。「母の日」には家族そろって教会に行き、こどもたちが母への感謝を書いた手紙を渡すというのが、伝統的な「母の日」の祝い方でした。ところが「母の日」がポピュラーになるにつれて、それが商業化されていきました。「母の日」の創設に力を尽くしたアナ・ジャービスさん自身が、その商業化に反対して、逮捕されたりもしています。
アナさんの存命中にさえ、「母の日」が商業化してしまっていたとしたら、今は、もっとそうかもしれません。教会からはじまった祝祭日が世の中に広まるのは良いことかもしれませんが、その祝日の本来の意味が忘れられたり、薄められたりしたまま、再び教会に戻ってくるとしたら、それはとても残念なことです。クリスマス、イースター、母の日など、教会からはじまったものは、教会では、本来の形でお祝いしたいと思います。
「母の日」には、母の愛が覚えられ、その労苦がいたわられます。しかし、礼拝は、神を崇め、感謝するものですから、礼拝では、母の愛に感謝するとともに、それにまさる神の愛を感謝したいと思います。母の愛もまた、神の愛から出たものですから、愛の神ををあがめて礼拝をささげたいと思います。
聖書では神は「父」と呼ばれます。「父」という言葉は、神の愛の大きさを表わしています。しかし、だからといって、神が「母」のような細やかな愛を持っておられないということではありません。神は、イザヤ書49:15で、こう言っておられます。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」
かつては、どの国でも「捨て子」が多くいました。現在では少なくなったとはいえ、全く無くなったわけではありません。そうした子どもを守るため、ドイツでは、Babyklappe というものが設けられました。自分で育てられなくなった赤ちゃんを預けておく場所です。それをモデルにしたのが、日本の「こうのとりのゆりかご」(通称「赤ちゃんポスト」)です。全国でただ一箇所、熊本の慈恵病院にあります。それが開設されたのが、2007年4月のことで、今年は開設から10年になるというので、そのことが話題になりました。そこに預けられた子どもたちが、やがて養子になったり、里親に育てられたりしていますが、それができない子どもたちも多くいて、孤児院にいる子どももあるとのことです。
テキサスでは、年間百人もの赤ちゃんが捨てられ、そのうち16人が亡くなっています。トイレやゴミ箱で発見されることもあるそうです。そうした赤ちゃんを救うために Baby Moses Law というものがつくられました。川に捨てられた赤ちゃんのモーセがエジプトの王女に救われたということから名付けられた法律です。これは、親がどうしても育てられない場合、生後2ヶ月までの赤ちゃんを引き取って育てるという制度です。消防署や病院に “SAFE BABY SITE” のサインがあるのを見たことがあるかと思いますが、そこに赤ちゃんを連れていくことができます。カリフォルニアでは “Safe Surrender Site” というサインが消防署にあります。
子どもを捨てたくて捨てる親などだれもいないでしょう。そこにはそうせざるを得ないさまざまな理由があるのでしょう。そうしたことを解決するために、母親が子どもを捨てるといったことが起こらないようにと、さまざまな取り組みがなされています。しかし、それを防ぐことができない悲しい現実があります。しかし、神は、さまざまな理由で、母から捨てられた子ども、また、母の愛を十分に受けられなかった人たちに言われます。「たとい母親がその子を忘れるようなことがあっても、わたしは忘れない。見放さない。」わたしたちは、たとえ、母の愛を十分に受けられなかったとしても、神の愛によって、それを補ってあまりあるものを受けることができます。幼い頃や若い頃の心の傷がいやされるのは簡単なことではないでしょう。しかし、信じる者は、神の愛によってそれを乗り越えることができます。詩篇27:10に「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」とあるように、神が、神に頼る者を決して見捨てないとの確信を持つことができます。
二、キリストの約束
この神の愛は、イエス・キリストによって、よりいっそう確かなものとなりました。イエスは、わたしたちに約束されました。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(ヨハネ14:18)まるで、母親が四六時中子どもから目を離さず、どんなことがあっても子どもを見放さないように、イエス・キリストは信じる者と一緒にいてくださるというのです。では、イエスはどのようにしてわたしたちと一緒にいてくださるのでしょうか。
第一に、復活によってです。イエスが弟子たちに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」と言われたのは、最後の晩餐を終え、十字架を前にしてのことでした。弟子たちは、イエスの言葉をすべて理解できたわけではありませんが、これからただならぬことが起ころうとしていることは、すでに感じ取っていました。イエスは世を去ろうとしておられます。しかし、いのちの主が死んだままであるはずがありません。主は予告されたとおり、三日の後、復活されました。イエスが十字架にかかられたとき、弟子たちは主を見捨てましたが、主は決して弟子たちをお見捨てにはならず、復活して、弟子たちのところに戻ってこられたのです。
第二は、聖霊によってです。復活されたイエスは、四十日ののち、天にお帰りになりましたが、そこから、もうひとりの助け主、聖霊を与えてくださいました。主イエスが天に帰られるかわりに、天から聖霊が来られたのです。この聖霊は、信じる者の内に住んでくださり、キリストは聖霊によってわたしたちと共にいてくださるのです。聖書で神は「父」、主イエスは「息子」と呼ばれ、どちらも男性のイメージがあるのですが、聖霊は、信じる者を神の子どもとして生み、育て、導き、養い、教え、慰めてくださるお方で、聖霊には「母親」のイメージがあります。わたしたちは聖霊によって、「たとい母親がその子を忘れるようなことがあっても、わたしは忘れない。見放さない」と言われた神の、母親にまさる愛を体験できるのです。
第三に、主イエスの再臨によってです。主イエスが天に帰られた後も、わたしたちは決して地上にとり残されているわけではありませんが、やがて、主イエスが、もういちど地上に来られ、私たちが天にあげられるとき、わたしたちは、主イエスが備えてくださった天のマンションに迎えられ、主イエスと共に住むのです。主とともに、永遠にです。
Ludie Day Pickettは、この主イエスの約束の言葉をもとに一篇の詩を書きました。それは「主は捨てたまわじ」(No, Never Alone)という賛美になって、今もよく歌われています(聖歌612/新聖歌205)。英語の歌詞の4節目にこうあります。
主はあの丘でわたしのために死なれたここには主イエスが、わたしたちをひとりにしないため、また、わたしたちを天に受け入れるため、十字架でそのいのちさえも投げ出してくださったことが歌われています。この主イエス約束を信じ、十字架に示された神の愛を受け入れましょう。そして、 “No, never alone” との確信をもって、神を賛美しましょう。
わたしのためその脇腹を刺し通された
わたしのためその泉を開かれた
それは真っ赤な、きよめの血潮
わたしのため、主は栄光のうちに待っておられる
その王座に着いて
主はわたしを捨てないと約束された
けっしてわたしをひとりにしないと
ひとりにしない ひとりにしない
主はわたしを捨てないと約束された
決してわたしをひとりにしないと
(祈り)
父なる神さま、わたしたちに母を与えて、養い育ててくださったあなたの愛を心から感謝します。不幸にして母の愛を十分に得られなかったとしても、わたしたちには、あなたの愛があります。母も子も、あなたの愛に満たされ、よりよい母と子の関係を築くことができますよう、わたしたちを助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/14/2017