新しい戒め

ヨハネ13:34-35

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13:34 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 ヨハネの福音書13章から16章には、イエスが最後の晩餐のとき弟子たちに語った言葉が書かれています。イエスはご自分が復活されることをご存知でしたが、たとえ3日の間でも、イエスが十字架で殺され、墓に葬られるのを見ることになる弟子たちを思って、彼らを励まし、支えるために、これらの言葉を語られました。その言葉は、この時の弟子たちばかりでなく、二千年後の弟子である私たちのためでもありました。私たちも、イエスが十字架を前にして語られた言葉を心して聴きたいと思います。

 一、新しい戒め

 イエスは数多くのことを語られましたが、最初に語られたのは「愛」についてです。34節に「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とあるように、「新しい愛の戒め」について語られました。

 イエスがここで「戒め」と言われたのは、「これをしてはいけない、あれもしてはいけない」といった意味での「戒め」、つまり「戒律」のことではありません。イエスは、ユダヤの人々が作り出した事細かな戒律にこだわりませんでした。たとえば、イエスが安息日に病気の人を癒やされ、パリサイ人や律法学者たちがそれを非難したとき、イエスは「安息日に良いことをするのは律法にかなっています」(マタイ12:12)、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」(マルコ2:27)と言っておられます。イエスは「安息日」を否定したのでも、それを破ったのでもありません。神の言葉に立ち返って、安息日の本来の意味を明らかにし、それを実行されたのです。

 イエスは、「すべての中で、どれが第一の戒めですか」との質問に、こう答えられました。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31)この言葉は、「十戒」の要約です。「十戒」の第一戒、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」から第四戒、「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」は、「神を愛すること」と要約できます。また、十戒の第五戒、「あなたの父と母を敬え」から第十戒、「すべてあなたの隣人のものを欲してはならない」は、「隣り人を愛すること」と要約できます。イエスは、十戒を要約して、それは「神への愛」と「隣り人への愛」にあると言われ、人は、この愛の戒めに生きるとき、幸せになれると教えられたのです。

 このように、「愛の戒め」そのものは、「十戒」の中にすでにありました。けれども、イエスは、ご自分の戒めを「新しい戒め」と呼んでおられます。なぜでしょう。「十戒」は、モーセが仲介者となって、神とイスラエルとの間に結ばれた旧い契約に基づくものですが、イエスの「新しい戒め」は、イエスご自身が仲介者となって、神と人との間に結んでくださった新しい契約に基づくものだからです。旧い契約(旧約)は、出エジプトの出来事と、そのときに流された過越の子羊の血によって成り立ったものですが、新しい契約(新約)は、十字架の出来事と、ご自身が過越の子羊となって流されたイエスの血によって結ばれた契約です。旧い契約は、ユダヤの人々に限定されていましたが、新しい契約は、それまで契約から除外され、「異邦人」と呼ばれていた全世界のすべての人を含んでいます。新しい契約では、イエスを信じる者は誰でも、罪が赦され、神の子どもとされるのです。イエスの戒めは、そのようにして神の子どもとされた人々のための戒め、「新しい戒め」として与えられたものです。

 もちろん、神はお一人であり、旧約時代にイスラエルを選び、愛し、導かれた神は、イエス・キリストの父なる神です。旧約も新約も、同じ神の愛に貫かれているのですが、旧約時代には、神の愛はまだ完全には示されていませんでした。しかし、新約時代には、神の愛はイエスの十字架によって完全に示されました。多くの人は、「愛」を表すのに、「ハート」の形を使いますが、聖書的にいうなら、愛の「形」は、「ハート」ではなく、「十字架」です。聖書は十字架を指してこう言っています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)イエスの愛の戒めは、この十字架の愛に基づくものなのです。

 二、戒めを守る力

 では、私たちはどのようにして、イエスの「愛の戒め」を守ることができるのでしょうか。

 イエスは、第一に「神を愛すること」、第二に「隣り人を愛する」ことを教え、そして「互いに愛し合うこと」を教えられました。「互いに愛し合うこと」は、「神を愛すること」、「隣り人を愛すること」に続く第三のものと言っていいでしょう。そのどれもは、私たちが神の愛に満たされなければ、決してできないものですが、「神を愛すること」については、神がどんなに素晴らしいお方、真実で、恵み深いお方であるかを知れば、神を愛して当然だと思うようになります。愛である神を愛するのは、ある意味で、やさしいことかもしれません。しかし、「隣り人を愛する」のは、神を愛することほど、簡単ではありません。「隣り人」と言っても、礼儀正しく、自分に良くしてくれる人ばかりとは限りません。近所の迷惑になるようなことをする人もいるからです。

 イエスが、「互いに愛し合いなさい」と言われたのは、弟子たちに対してあり、さらには、後の「教会」のメンバーに対してでした。「隣り人」よりもっと狭い範囲、また親密な関係の中で「互いに愛し合うこと」を求められました。これは、易しいようで、難しいことです。身近であればあるほど、その人の人格的なものが表に現れてくるからです。ドストエフスキーの小説に、修道院の長老の言葉として、こんなことが書かれていました。「博愛的な行為よりも、身近にいる人を愛することのほうがもっと難しい。遠くの見ず知らずの人を愛するなどと考えないで、まず、あなたの年老いた両親を敬い、夫に仕え、子ども愛してあげなさい。それこそが、キリストに喜ばれ、受け入れられる愛の行いなのだ。」確かにその通りだと思います。自分の好き嫌いでなく、相手の立場を理解する。欠点だらけの自分が、ただあわれみによって、赦され、神の愛を受けたのであれば、他の人の欠点を見て責めるのではなく、その人の良いところに目を留めて尊ぶことができるはずです。それが「互いに愛し合う」ことなのです。

 しかし、そんなことは、頭では分かっていても、感情がついていかない、実行に移そうとしても、その力がないという場合があるかと思います。イエスの「愛の戒め」は、「よし、守ってやろう」と言って、自分の力で守れるものではありません。イエスの「愛の戒め」を守るには「イエスの愛」が必要です。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とは、「わたしがあなたを愛したとおりに、それと同じに、完璧に愛し合いなさい」という意味の言葉ではありません。誰も、イエスのように人を愛することなどできません。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのは、「わたしはあなたを愛した。今も愛している。わたしから受けた愛、わたしから今、受けている愛で、互いに愛し合いなさい」という意味なのです。イエスは言われました。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」(ヨハネ15:9)イエスが弟子たちを愛した愛は、父なる神が御子イエスを愛された愛でした。そのように弟子たちも、イエスによって愛された愛で互いに愛し合うのです。

 父なる神から御子イエスへの愛、御子イエスから私たちへの愛は、聖霊によって私たちに届けられます。ローマ5:5に「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」とある通りです。人は、誰かに愛されてはじめて人を愛することができます。愛されたことのない人、愛されていても、その愛を受けとめられなかった人は、素直に人を愛することができないのです。しかし、不幸にして人の愛を受けられなかったとしても、イエスを信じる者は、神の子どもとされ、神の愛で包まれます。神の子どもとして生まれ変わった「新しい心」でイエスの「新しい戒め」を行うことができるようになるのです。神の愛の届かない人は誰もいません。御言葉に導かれ、祈り求めるとき、聖霊は必ず働いて、私たちに神の愛を届けてくださいます。

 三、戒めと証し

 35節に、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とあります。神を愛し、隣り人を愛することは、人としての当然しなければならないことですが、恵み深い神は、そうする人に大きな祝福をもって報いてくださいます。けれども、イエスを信じる者が「互いに愛し合うこと」は、それ以上のものをもたらします。キリストを信じる者たちのの間にほんものの愛があれば、人々は、「この人たちはほんとうにキリストの弟子たちだ」と認めるようになり、それが、イエス・キリストを証しすることになり、キリストが宣べ伝えられることになるというのです。

 よくこんなことを聞きます。はじめて教会に来た人が、「家庭ではお互いが無関心、職場ではみんなが競い合っている。けれども、ここでは誰もが、お互いを受け入れあい、心にかけ、大切にしあい、祈り合っている」と言って感動し、神を求めるようになったという話です。「愛のあるところに神はいます」という言葉があります。私たちは互いに愛し合うことにおいて完全ではなくても、「互いに愛し合う」との戒めに生きようとするなら、それによって、私たちは、神を示し、キリストを証しすることができるようになるのです。

 私たちは、ユダヤの人々が守ろうとして出来なかった事細かな律法に縛られてはいませんので、どうかすると、「教会では何をしても許される」という間違った考えを持つことがあります。それは、使徒たちの時代にすでにありました。コリントの教会がその一つの例でした。コリントはアカヤ地方随一の商業都市で、経済的に恵まれていましたが、さまざまな不道徳が蔓延していて、そういった生活をすることを「コリント風に生きる」ことだと言って自慢していたほどでした。そんな風潮はコリント教会の中にも入り込み、教会に分裂・分派が生まれ、人間のわがままがのさばる教会となりました。そういうのを、「律法主義」の先頭に「無」という文字をつけて、「無律法主義」と言います。「律法主義」は神の恵み見失わせますが、「無律法主義」は尊い神の恵みを侮辱するものです。教会は、律法主義でも、無律法主義でもなく、神の戒めに従う場所です。そこには「キリストの律法」がなければなりません。

 パウロはこう言いました。コリント第一9:21に、「律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです」とあります。パウロは、ユダヤ人にも異邦人にも柔軟に対応しましたが、それは決して無節操なものではありませんでした。パウロは「私は…キリストの律法を守る者」と言っています。そして、パウロはこの「キリストの律法」を実践することについて、こう言いました。「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」(ガラテヤ6:2)「重荷を負い合う」といっても、何も大きなことをしなければならないということではありません。他の人が負っている重荷を理解してあげる、そのために祈ってあげる、それだけでも、重荷を負っている人にはどんなに大きな力になることでしょう。

 神を愛する、隣り人を愛する、そして、互いに愛し合う。この愛の戒め、キリストの戒め、キリストの律法に生き、愛の神を少しでも証ししていく私たちでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはどんなに大きな愛で私たちを愛しておられることでしょう。あなたは、イエスの十字架に、その愛を残すことなく表わしてくださり、聖霊によって信じる者、祈り求める者を、愛で満たしてくださいます。常に、あなたの愛を受け、その愛で、キリストの律法を成就することができますよう、助け、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/14/2024