手ぬぐいを取って

ヨハネ13:3-5

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13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 カリフォルニアのサンフランシスコ・ベイにサンロレンゾという小さな町があります。そこの教会には、年に何回も出かけたものです。その教会にクラーク桂子さんという沖縄生まれの人がいます。彼女はアメリカ人と日本の女性との間に生まれましたが、両親は彼女を捨てて行方をくらましました。不幸な生い立ちでしたが、十代のころ、俳優の森繁久彌さんに出会い、実の子どものように可愛がられました。桂子さんは、アメリカのクリスチャン青年クラークさんと結婚するとき、彼女に戸籍がないことが分かり、アメリカ行きを拒否されました。それで、森繁さんは彼女を養女にして政府と掛け合い、ついに彼女のアメリカ行きを成功させたのだそうです。日本のマスコミは長い間このことを知らず、報道しませんでしたが、晩年の森繁さんへのインタビューでこのことが明らかになったのです。

 こういうのを「秘話」、秘められた話というのですが、実は、聖書にも「秘話」があります。ヨハネの福音書は、他のマタイ、マルコ、ルカの福音書よりもずっと後になって書かれ、そこには、他の福音書には書かれなかったこと、特に、イエスと弟子たちとのプライベートな会話が数多く残されています。ヨハネの福音書自体が「秘話」だと言って良いほどです。中でも、イエスが弟子たちの足を洗ったことは、他の福音書には全く書かれていません。これは「秘話」の中の「秘話」と言ってもよいでしょう。

 では、イエスが弟子たちの足を洗われたという「秘話」は、イエスについてどんなことを明らかにしているのでしょうか。

 一、しもべの姿

 それは、第一に、イエスが「しもべ」であることを明らかにしています。旧約時代、救い主は「王」として、しかも、ユダヤの人々が最も尊敬するダビデの王座を継ぐ者として預言されていました。聖書には、救い主を「しもべ」として預言している箇所があるのですが、人々はそこには目をとめず、救い主が「王」となってローマを打ち破り、ユダヤを独立させてくれることを期待していました。

 イエスは、十二弟子に、ご自分が、人々から仕えられるためではなく、人々に仕えて、ご自分の命さえも差し出される神の「しもべ」であることを教えてこられましたが、弟子たちもそれを理解しませんでした。それでイエスは、文字通り「しもべ」の姿になられました。聖書は「席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」と言っています。当時の「しもべ」たちは働きやすいように丈の短いものを着、エプロンのようなものを身に着けていました。イエスは、しもべたちとまったく同じ姿になられたのです。

 イエスの、このお姿は、ピリピ2:6-7に書かれていることを、目に見える形で表したものです。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」イエスが上着を脱がれたのは、ご自分の神としての栄光を脱ぎ捨て、この罪の世に降りて来られたことを表しています。イエスは、私たちと変わらない人間となり、人が味わう一切の苦しみ、痛みを味わってくださっただけでなく、私たち罪ある者のしもべとさえなり、罪びとの救いのために仕える者となられました。腰にタオルをまかれたイエスの姿は、ピリピ人への手紙で「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり」とあることを、実際の姿で表されたものでした。

 イエスは「しもべの姿をとり」ました。しかし、それは、イエスが本来の姿を隠して「しもべ」になられたということなのでしょうか。「しもべの姿」はイエスの本来のご性質に反するものなのでしょうか。このことについてヘンリ・ナウエンは次のように言っています。「神は、キリストの『しもべの姿』の中にご自分を啓示しようとされた。神は、『しもべの姿』以外の方法でご自分を知らせようとは願われなかった。『しもべの姿』こそ、神の自己啓示の姿なのである。」神は、そのお力から見れば「主なる神」ですが、その愛の観点から見れば「しもべなる神」である。ナウエンはそのことを言いたかったのでししょう。

 イエスは、弟子たちの前に跪いて足を洗われました。あらゆるものがイエスの前に跪いて礼拝をささげるべきなのに、なんと、そのイエスが跪いておられます。神であり、主であるお方が人に仕え、奉仕しておられるのです。どの宗教がそんな神を教えているでしょうか。神が人に仕え、人のために苦しみ、命をささげる。そんな教えはどこにもありません。誰も考えることも、思い浮かべることさえできなかったことです。それは神のみこころの中に秘められていましたが、神はそのことを預言者を通して示してこられ、この時、イエスによって目に見える形で明らかにされたのです。タオルを腰に巻き、跪いて弟子たちの足を洗われたイエスの姿に、「しもべ」の姿が現れています。

 二、イエスの愛

 イエスが弟子たちの足を洗われたことは、第二にイエスの私たちへの愛を表しています。ヨハネ13:1はこう言っています。「そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」英語では "He loved them to the end." と訳されていますが、この「最後まで」というのは、イエスの地上の生涯の最後までという意味にもとれますが、イエスの愛のすべてをもってという意味にもとれます。マリアが1リトラの香油を一滴残らずイエスに注いだように、イエスも弟子たちにその愛のすべてを注がれたという意味です。新改訳の以前の訳では、そうした意味を汲んで、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と訳されていました。

 イエスはその愛をユダにさえ注がれました。ユダはこのあと、晩餐の席を立って出かけ、イエスを銀30枚、当時の奴隷の値段で祭司長たちに売り渡すのです。イエスはそれをご存知のうえで、ユダの足をも洗われ、彼をあわれまれました。ペテロはイエスが大祭司の官邸に引かれていったとき、その中庭まで入りこみましたが、「あなたはイエスの弟子だろう」と咎められたとき、「自分はイエスなど知らない」と、イエスを否定しました。イエスは、ペテロがご自分を否むだろうことをご存知でありながらも、彼にその愛を注がれました。他の弟子たちは、イエスが捕まえられたとき、我先にと逃げ出しました。イエスはご自分を見捨てて逃げ出す弟子たちのその足を丁寧に洗い、タオルでぬぐい、乾かしてくださいました。イエスは、弟子たちがイエスを見捨てることをご存知でしたが、それでも弟子たちを最後まで愛し通されました。「最後まで」、くだけた言葉でいえば、「とことん」愛されたのです。これが神の愛です。神の愛には限界がありません。神の愛はあきらめません。神は言われます。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)イエスは、弟子たちの足を洗うことによって、この真実で変わらない愛を示されたのです。私たちは、今も、この愛で愛されています。

 多くの人は、神に愛され、イエスに愛されるためには完全にならなければならない、どんな罪も犯さず、信仰深くなければならないと思っています。しかし、そんな完全な人は地上には誰もいません。イエスの時代のように、舗装されていない道を裸足やサンダル履きで歩けば、足は埃まみれになります。同じように私たちは毎日の歩みの中で、どこかで罪を犯し、不信仰になります。神は私たちが自分の罪に気づいたときすぐにそれを悔い改めて、赦しを願い、不信仰に陥ったとき、助けを求めて祈るのを待っておられます。ペテロは自分が足を洗ってもらう番になったとき「決して私の足を洗わないでください」と言いました。しかし、イエスは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と答えました(ヨハネ13:8)。私たちとイエスとの関係は、つねに、イエスに足を洗っていただくこと、つまり、罪を赦していただき、きよめていただくことの中にあります。そのたびに、私たちは罪ある者を愛し通されるイエスの「とことんまで」の愛、最後までの愛、変わらない愛、永遠の愛を体験できるのです。

 そして、そのような愛によって愛されることによって、私たちも他の人を愛することができるようになります。人は誰かに愛されてこそ、他を愛することができからです。愛されたことのない人は、他を愛することができません。クラーク桂子さんは親に捨てられ、親からの愛を受けることができずに育ちました。しかし、彼女は自分を愛して、命までも差し出してくださったイエスの愛を知り、自分がどんなに大きな愛で愛されているかを知り、その人生が一変したのです。

 私たちは、毎日、イエスに足を洗っていただいているでしょうか。日々に罪を赦され、きよめられることによって、しもべとなってまで、私たちを愛しておられるイエスの愛を、さらに深く知り、体験したいと心から願います。

 三、弟子たちへの模範

 イエスが弟子たちの足を洗ったのは、第三に、弟子たちに互いに「しもべ」となって仕え合うことを教えるためでした。弟子たちは、今まで、イエスの教えを聞き、模範を見てきたのに、「しもべ」となることをまだ学んでいなかったのです。このときの弟子たちの最大の関心事は、だれが一番偉いかということでした(ルカ22:24)。ですから、晩餐の前に、誰も進んで足を洗う役を買って出なかったのです。そんなとき、イエスが弟子たちの足を洗われたのですから、それは、弟子たちにとって、手厳しいレッスンとなったことでしょう。しかし、イエスは、弟子たちに見せつけるために足を洗われたのではありません。イエスが示された模範は、表面的に真似るものではなく、心の奥深いところで、イエスと同じ「しもべ」の姿を身につけるということです。

 人間は、他の動物と違って「神のかたち」につくられました。しかし、罪のためにそれを失ってしまいました。それで神は、「神のかたち」であるイエスを世に遣わし、イエスを信じる者のうちにキリストの姿を形造って、私たちのうちに「神のかたち」を回復しようとされたのです。そして、神が私たちのうちに形造ってくださるキリストの姿とは、キリストの「しもべ」としての姿です。イエスが「しもべ」となられたように、私たちも「しもべ」となって生きるとき、私たちのうちに「神のかたち」が回復していくのです。

 「しもべ」というと、強制されて働く、自由のない非人間的なものと考えられますが、神が求めておられ、私たちが目指している「しもべ」はもっと肯定的な意味のものです。たとえば、「医学のしもべ」という場合、それは、医学の進歩をひたすらに願って、そのために身を献げた人のことを言います。「芸術のしもべ」なら、芸術に専念し、没頭する人のことを言います。そのような人は、医学や芸術の価値を知っていて、それを愛し、強いられてではなく、その愛のゆえに、医学や芸術に仕えるのです。自ら進んで、自分が愛するもののしもべになるのです。しもべとなってその愛を表わすのです。イエスも、私たちの救いをひたすら求めて、みずから進んで「しもべ」となられました。このイエスの「しもべ」でありたい。そう願い、そのように生きることがイエスの模範にならうことなのです。

 英国のリーディング大学の哲学教授だった H. A. ホッジス は、かつて信仰に対して懐疑的な人でした。ところが、オックスフォードの街の一軒の書店の飾り窓に、主が弟子たちの足を洗っておられる姿を描いた絵をみました。じっと見ているうちに、その心にひとつの決心が与えられました。ホッジスはこう言っています。「その絵を見ているうちに、私は、絶対者が私のしもべであることを悟ったのです。もし、究極的実在者、絶対者があの絵のようにひくく身をかがめた姿のごときものであるとするなら、その神にこそ私は、私の忠誠を捧げようと心に決めたのです。」私たちも、私たちへの愛のゆえにしもべとなられたお方に、しもべとなって仕たいと心から願います。

 (祈り)

 父なる神さま、弟子の足を洗われた主イエスの御姿の中に、私たちへの真実で、永遠に尽きない愛を示してくださり、心から感謝します。イエスの「しもべ」となることなしに、イエスを「主」と呼ぶことはできません。私たちのうちに、「しもべのかたち」を造り、イエスの模範に従う者としてください。しもべなる主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/30/2025