13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
一、模範を示す
イエスは、受難週の日曜日から水曜日までは神殿で多くの人々を教えましたが、木曜日、過越を祝う日には、12弟子だけと一緒に過ごしました。イエスは、エルサレムのある家の二階の広間を、かねてから予約してあり、弟子たちに、そこで過越の食事ができるよう準備をさせました。ふつう、他の人の家で食事の席に着くときには、その家のしもべが来客の足を洗ってくれるのですが、このときは、イエスと弟子たちだけでした。そこには、水も、たらいも、手ぬぐいも用意されていましたが、弟子たちの誰も、イエスの足を洗い、また、他の弟子の足を洗おうとせず、そのまま席に着きました。するとイエスが席から立ち上がり、手ぬぐいをとり、たらいに水を入れ、それを持って、弟子たちの席の一つひとつを回り、弟子たちの足を順に洗い始めたのです。なぜ、イエスはそのようなことをなさったのでしょう。
イエスがそうされたのは、第一に、弟子たちに模範を示すためでした。14-15節で、イエスはこう言っておられます。「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」ここで、「互いに足を洗い合いあう」とは、「互いに、へりくだって、仕え合う」ことを意味しています。
イエスがそのことを実例で教えたのは、弟子たちの間で、「誰が一番偉いか」ということが、たびたび議論されていたからでした(ルカ9:46、22:24)。ヤコブとヨハネに至っては、母親と一緒に、親子三人でイエスのところに来ました。母親は、「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」(マタイ20:21)と言っています。彼らは、イエスが、奇跡を行う力によって、ローマ帝国からユダヤの国を独立させ、ご自分が王になる。そうすれば、自分たちを右大臣、左大臣にして欲しいと願ったのです。
しかし、イエスが打ち立てようとしておられるのは、この世の国ではなく、神の国でした。神の国は、この世の国とは違います。この世の国では権力を持つ者が他の人々を従わせようとします。しかし、神の国では、上に立つ人は、しもべとなって他の人に仕えるのです。イエスは、「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい」(ルカ22:26)と言って、神の国は、他の人の「足を洗う」、他の人に「仕える」ことによって、成長し、広がっていくと教えています。
レストランの Wendy’s の C.E.O.だった Dave Thomas 氏は高校を終えることができず、仕事をはじめてずいぶんたってから G.E.D.(高校卒業資格)を取ったのですが、彼は「ぼくは G.E.D. を取る以前に M.B.A. を取っていたんだよ」とよく言っていました。彼の言う M.B.A. とは、M.B.A.(Master of Business Administration)のことではなく、“Mop Bucket Attitude” のことでした。レストランのフロアーが汚れていれば、誰に言われなくても率先してモップとバケツを持ってきて掃除をする、そうした「進んで仕える姿勢」が、彼をビジネスの成功に導いたと言っています。
「人に仕える姿勢」が、人を成功に導く。それは、神の国ばかりでなく、この世においても働く原理、原則です。ビジネスで用いられている原則のほとんどは聖書から来ています。クリスチャンでない人たちもそれを実践して成功しているのに、クリスチャンが聖書を読んおり、イエスを信じているのに、それを実践しないで低迷しているとしたら、残念なことです。イエスが弟子たちの足を洗うことまでして、実例をもって教えてくださったことを、しっかり守りたいと思います。
二、十字架を予告する
さて、イエスが弟子たちの足を洗い始めたとき、弟子たちは、すぐに、イエスが何を教えようとされたのかを悟ったことでしょう。「誰が一番偉いか」と議論し、人の上に立つことを願い求めていたことを、きっと恥じたに違いありません。ですから、弟子たちはみなうなだれ、黙って、イエスに足を差し出し、イエスもまた、黙って、弟子たちの足を洗っていました。ところが、ペテロが沈黙を破りました。自分の番になったとき、ペテロは「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」(6節)と言いました。「そんなことをなさらないでください」という気持ちから言ったのでしょう。しかし、イエスは、「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(8節)と言われました。
この会話は何を教えているのでしょうか。イエスはこの後、十字架にかかられますが、それは、人を罪から救い出すためでした。十字架で流されたイエスの血が、人の罪を赦し、洗い、きよめるのです。イエスが弟子たちの足を洗われたのは、イエスこそ、人の罪を洗い、きよめてくださるお方であることを示し、十字架を予告するものでした。
罪、それは、神と人とを隔てるものです。しかし、イエスは、人をその罪から救い出すためにこの世に来てくださいました。神の恵みは罪を突き破って私たちに届くのです。私たちを神から引き離し、キリストの恵みから遠ざけるのは、むしろ、「私には、イエスに洗ってもらわなければならないような罪はない」と言って、自分の罪を認めないことにあります。
罪を認めようとしないことには、「高慢」という罪の根が潜んでいます。アダムとエバが犯したのは、この高慢の罪でした。蛇は、善悪を知る木の実について、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」(創世記3:5)と言って、アダムとエバをそそのかしました。それは、「あなたがたは神のようになる」という誘惑でしたが、アダムとエバは、神のかたちに、神の似姿に造られており、すでに「神のよう」であったので、そんな誘惑に乗る必要は全くなかったのです。ろころが、アダムとエバは、神に仕えるよりは、神と同等になろうとしたのです。
造られたものが、造り主が与えた分を越えて、神と同等にり、神さえも超えようとする。ここに罪の根があります。この罪がきよめられないかぎり、ほんとうの意味で、「互いに仕え合う」ことはできません。私たちはみな、イエスに洗ってもらわなければならないのです。
イエスの時代、人々はサンダルを履いて歩きました。水浴して全身をきれいにしても、歩けば足は土埃にまみれます。同じように、バプテスマを受けて罪の赦しを受けた者も、日々の歩みの中で罪を犯します。私たちには、日々の悔い改めや赦し、きよめが必要なのです。「私には罪がない」と言うところに赦しやきよめはありません。そうでなければ、イエスは私たちと関係のないお方になり、私たちとイエスとの交わりは途絶えてしまうのです。日ごとにイエスに「洗っていただく」ところに、イエスとの交わりがあり、イエスにある歩みがあります。
三、愛を表す
イエスが弟子たちの足を洗ったのは、弟子たちに模範を示すため、また、十字架を予告するためでしたが、イエスは、それらのことを「愛」によってされました。1節に「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」とある通りです。「最後まで」という言葉には、イエスが地上の生涯の最後の最後まで弟子たちを愛し続けられたというだけでなく、弟子たちを「とことん」愛されたという意味もあります。ヤコブやヨハネのように立身出世を求める弟子であっても、ペテロのようにやがてイエスを否定する弟子であっても、さらにはユダのようにイエスを裏切るような弟子であっても、イエスは、その一人ひとりを愛し抜かれたのです。古い日本語の訳では「極みまでこれを愛したまえり」とあり、新改訳の以前の訳では「イエスは、その愛を残るところなく示された」とあります。新共同訳では「この上なく愛し抜かれた」とあって、イエスのお心がよく伝わってきます。
マリヤは、イエスに香油をささげたとき、その壺を割って、今のお金で3万ドルにもなる香油を一滴のこらず注ぎ出しましたが、イエスも、このとき、弟子たちにご自分の愛を残すところなく注ぎ出されたのです。もし、そのような愛がなければ、イエスが弟子たちの足を洗ったことは、「誰が一番偉いか」と言っていた弟子たちへの「あてつけ」になってしまいます。けれども、きょうの箇所にはそのようなものを感じさせるものはひとつもありません。ここには、ちょっと偉い人が、へりくだって、下々の者にあわれみを示したといった以上のものが示されています。ここには、「神が人を愛された」という聖書にしかないメッセージがるのです。
3節に「イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた」とありますが、これは、イエスが地上での救いのみわざを終え、天に昇り、父なる神の右の座に着いて、すべての物を治めるようになることを指しています。イエスは王の王、主の主、万物の支配者です。そのお方が、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰に巻いています。これは、しもべの姿そのものです。かつてダビデ王は契約の箱をエルサレムに迎えるとき、王の服をぬぎ、簡素な麻布の衣だけを着て、契約の箱をかつぐ祭司たちの行列に加わったことがありますが、イエスは、このとき、王の王、主の主としての栄光を脱ぎ捨て、弟子たちのしもべになられたのです。
イエスは、たらいを手にとり、弟子たちひとりびとりの前にひざまづきました。人が神の前にひざまづくのはあたりまえのことですが、ここでは神であられるお方が人の前にひざまづいておられるのです。イエスの愛は、神と人との立場を逆転させるほどの愛だったのです。
人の罪は、自らが神になろうとすることでした。ところが、そんな人間のために神であるイエスは、人となられました。しかも、しもべのしもべとなり、人の罪を背負い、罪びととさえなられました。鞭で打たれ、嘲られ、罵られ、人間扱いされませんでした。人々はイエスをののしって言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。」(マタイ27:42)イエスは降りようと思えば十字架から降りることもできました。しかし、そうしたら、世界の誰も救われることがないのです。イエスは、苦しみと辱めを黙って耐えました。耐えただけでなく、自分を苦しめている人々のために、とりなし祈りました。なぜ、そんなことができたのでしょう。それは、愛のゆえです。イエスを十字架に留め置いたのは、ユダヤの最高法院の権威でも、ローマ帝国の権力でも、イエスの両手、両足を貫いた釘でもありませんでした。それは、イエスの愛でした。
どの宗教も、「神を敬え」、「神に従え」とは言いますが、「神を愛せよ」とは教えません。なぜでしょう。愛は双方向のものだからです。イエス・キリストを知るまで、私たちが神として崇めていたもののどれひとつも、私たちを愛するものはありませんでした。人を愛することのない神は、人に愛を求めることはできません。私たちは、私を愛してくださる神を知らず、神を愛することも知りませんでした。しかし、今、弟子たちの足を洗い、十字架にかけられたイエスを見て、神が、神が私たちを愛してくださっていることを知りました。私たちを極みまで愛してくださるお方、私たちが愛することのできるお方を知ったのです。イエス・キリストによって、ほんとうの愛を知りました。この幸いを感謝しましょう。そして、もっと主を愛する者にしてくださいと願い、祈りましょう。
(祈り)
愛する神さま、あなたの他、私たちを愛してくださる神は、どこにもありません。そして、私たちが、あなたを愛することができるのは、あなたが、まず、私たちを愛してくださったからです。イエスが弟子たちの足を洗い、十字架にかかられたことの中にあなたの愛が見事に表されています。この愛を覚えて過ごす受難週としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/2/2023