きわみまでの愛

ヨハネ13:1-5

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13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

 一、過越の食事

 クリスチャンがイースターを祝うころ、ユダヤの人々は、過越祭を祝います。ユダヤの暦でニサンの月の15日から22日です。わたしたちのカレンダーですと、今年は4月10日から18日となります。過越祭で一番大切なのは過越の食事です。

 この過越の食事のため、人々は、そのよほど前に家の大掃除をします。とくに台所は念入りに掃除をし、家の中からパン種を含むもの、パン、ケーキ、ビールなどを取り除きます。ビタミン剤や化粧品にもイーストが含まれるものがあるので、そうしたものも家の中に置かないほど、徹底しています。

 パン種は、人の心にある邪悪なものに譬えられており、家の中からパン種を取り除くのは、人の心の中から悪いものを取り除くことを表わします。コリント第一5:6-8にこうあります。「あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」これは教会中のひとりの不道徳な行いが、全体に影響しないように、それを断固としてしりぞけるようにと命じている箇所です。とても厳しい箇所ですが、使徒パウロはそれを教えるために、ユダヤの人たちが過越祭のとき、徹底してパン種を取り除くことを例にあげたのです。

 過越の食事の15の手順をすべてお話しすることはできませんので、そのいくつかだけをお話しします。食卓にはワインの杯が四つ用意されます。最初の杯は「きよめの杯」といって、儀式のはじめに飲みます。二番目の杯は「裁きの杯」といって、出エジプトのストーリーが終わってから飲みます。それから苦菜を塩水に浸して食べます。苦菜はエジプトでの苦しみを、塩水は、その苦しみのために流した涙を表わすとされています。他にも、エジプトからの解放に関連した食べ物がアパタイザーとして出されます。

 過越の食事では三枚のパンが特別にとりわけられます。三枚重ねられたパンの一番上は、天におられる神、一番下は地にいる人間、そして、真ん中のパンは神と人との仲立ちをする祭司を表わします。この真ん中のパンは二つに裂かれ、大きいほうが布に包まれ、食事が終わるまで隠されます。メインディッシュが終わると子どもたちがそのパンを探しに行き、みつけたら、家長のところに持っていきます。家長はそれを小さくちぎり、みんなで分けて食べます。その後、第三番目の杯、「贖いの杯」を飲みます。賛美を歌った後、最後の杯を飲み、皆で声をそろえて言います。「来年はエルサレムで!」そうして過越の食事を終わります。

 主イエスが弟子たちとともに守られた過越の食事は、現代のユダヤの人々が守っているものとほぼ同じだと考えられています。そうだとしたら、主イエスが弟子たちに「取って食べよ」と言われたパンは、食事の間隠されていて、食後にみんなでわけあった、「アフィコーメン」(デザートの意)と呼ばれるパンのことだと思われます。また、主イエスが「この杯から飲め」と言って回された杯は、第三番目の「贖いの杯」だと思われます。聖書は過越の食事の記事を「彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ、出かけて行った」(マルコ14:26)という言葉で締めくくっていますが、この「さんび」は、過越の食事の第14番目の儀式で、「ハレル」と呼ばれるものだったと思います。ちなみに、過越の食事で歌われる賛美というのは詩篇113から118篇です。

 二、主の晩餐

 主イエスは十字架を前に、弟子たちと過越の食事をすることを切望されました。それは、主イエスこそ、全人類の罪の身代わりとなって十字架の上で屠られる、過越の小羊であることを、目に見える形で示そうとされたからです。

 過越の食事で、「祭司」を表わすパンが二つに裂かれ、その半分が布に包まれて隠されるというのは、とても不思議です。それは、ユダヤの人々の伝統だけでは理解できません。イエス・キリストの十字架と復活によって、はじめてその意味が分かります。

 「祭司のパン」はイエス・キリストはを指しています。「キリスト」という言葉には、もともと「油注がれた者」という意味があり、旧約では、油注ぎを受けて任職されたのは、王と、祭司と、預言者でした。ふつう、この三つの職務は兼ねることはできませんが、主イエスは同時に、王であり、祭司であり、預言者であるお方です。祭司は、神と人との仲立ちとなるのですが、そのためには、神に捧げるべき犠牲が必要です。しかし、全人類を罪から贖うことができるような犠牲がどこにあるでしょうか。世界中の動物を捧げても足りはしません。それで、犠牲を捧げるべき祭司である、主イエスみずからが犠牲になって、ご自分を捧げられたのです。「祭司のパン」が裂かれるのは、そのことを意味していたのです。また、裂かれたパンが布に包まれて隠されたのは、主イエスの葬りを意味します。主は亜麻布に包まれ、岩を掘って造った墓に納められ、墓の入り口は大きな石で塞がれました(マルコ15:46)。布に包まれたパンと同じように、主イエスもまた、人の目から隠されたのです。

 しかし、主イエスは死から復活され、弟子たちにご自分の生きておられることを示されました。イエス・キリストを信じるわたしたちも、イエス・キリストの復活の命、永遠の命を分け与えられるのです。隠されていたパンが再び食卓に戻り、皆がそれを食べるというのは、イエス・キリストの復活を意味しています。

 罪が赦され、神の子どもとされ、永遠の命をいただく。この救いは、主イエスが十字架の上で流してくださった尊い血によってもたらされます。それで、主イエスは「贖いの杯」を弟子たちに分けて、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マルコ14:24)と言われたのです。

 主イエスは、ユダヤの伝統に従って過越の食事を守られました。しかし、それを新しいものへと変えられました。イスラエルのエジプトからの救いだけでなく、イエス・キリストの十字架と復活によって、すべての人が罪から救われることを記念するものにされたのです。主イエスのなさった過越の食事は、しばしば、「最後の晩餐」と呼ばれます。そう呼んでさしつかえないのですが、じつは、それは、そののち教会が今にいたるまで守り続けている「主の晩餐」の「最初」のもの、「最初の晩餐」でもあったのです。

 「過越の食事」は、主イエスの十字架と復活によってはじめて意味を持つようになり、そこから「主の晩餐」が生まれました。ですから、わたしたちは、主の晩餐をたんなる儀式としてではなく、意味あるものとして守りたいと思います。そこにある救いの素晴らしさに心からの感謝と感動をもって、これにあずかりたいと思います。

 三、きわみまでの愛

 さて、きょうの聖書、ヨハネ13:1-5ですが、ここは、イエスが弟子たちとなさった「過越の食事」を描いている箇所です。ところが、ヨハネは、マタイ、マルコ、ルカと違って、「主の晩餐」のパンにも、杯にも触れていません。どうしてでしょうか。それは、ヨハネが、たとえば「五千人の給食」など、他の出来事を通して「主の晩餐」が意味することを表現しようとしているからです。ここでは、主イエスが弟子たちの足を洗われたことを描くことによって「主の晩餐」の意味を解き明かそうとしています。

 主イエスは、弟子たちの足を洗うことによって、弟子たちに互いに仕え合うべきことを教えられたのですが、これは、弟子教育のためだけになされたものではありあません。ヨハネ13:1に「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」とあるように、主イエスが弟子たちの足を洗われたのは、主イエスの弟子たちへの愛がほとばしり出て、そうせずにはおれなかったからです。それは弟子たちのための模範となりましたが、ただ模範を示すためだけのものではなかったのです。

 1節の「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」という言葉に、わたしはいつも感動します。たしかに、わたしたちも、誰かを愛します。しかし、多くの場合、その人が自分に親切にしてくれたり、自分の言うことを聞いてくれたりするかぎりにおいてです。わたしたちの多くは、ちょっとしたことで、自分のことを分かってくれなかった、自分が期待したとおりのことをしてくれなかったと言って、人を愛することをやめてしまいます。逆に憎んだり、仕返しをしたりすることもあります。しかし、主イエスは、弟子たちを「最後まで愛し通され」ました。きょうの箇所には、ユダの裏切りのことが書かれていますが、主イエスは、ご自分を裏切ろうとしているユダの足さえ、黙々と洗われたのです。主イエスが弟子たちの足を洗われたところにユダの裏切りのことが書かれているのは、主イエスの愛が、人を「最後まで愛し通される」愛であることをより強く示すためなのでしょう。

 さきほど、過越の食事のときに、布に包まれたパンは主イエスを表わすと言いましたが、実は、主イエスが布に包まれたことは聖書に三度出てくるのです。最初は、誕生の時です。ルカ2:6-7に「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」とあります。次が、このヨハネ13:4です。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き」とあります。そして三度目が、マルコ15:46にあるように、亡くなられたあと、布に包まれ、墓に葬られたとある箇所です。主イエスが身にまとわれたこれらの布は、主イエスが「しもべ」となられたことを意味します。主イエスは神の御子であるのに、その栄光を捨て、ご自分を「贖いの供え物」とするほどにまで、罪人の「しもべ」となって、人に仕えてくださったのです。

 アーモー兄弟が書いた “Easter Devotional Series” には、“samurai”という言葉が何度も出てきます。「侍」とは仕える人のことです。主イエスほど徹底して人に仕えてくださったお方はありません。主は人に仕え、仕え通されました。人はその「きわみまでの愛」によって救われるのです。ヨハネは、晩餐式のパンにも、杯にも触れていませんが、しもべになりきって、ご自分を差し出し、血を注ぎ出してくださった愛、「きわみまでの愛」を、ここで描いています。聖書は、この主イエスの愛を描くことによって、わたしたちが主の晩餐にあずかるとき、このキリストの愛を受けるように、この愛を味わうように、この愛に答えるようにと、わたしたちを招いているのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、御子イエスによって、「過越の食事」を「主の晩餐」として、教会に与えてくださいました。主の晩餐に与るたびに、そこにある救いの奥義を深く理解させてください。また、主の晩餐には、キリストの愛が形をとって表われています。どうぞ、わたしたちが、ここでその愛に触れ、それによって生かされることが出来るようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/2/2017