弟子の足を洗う主

ヨハネ13:1-11

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

 最近、森繁久弥さんの「大遺言」という記事を読む機会がありました。それを読んで、サンロレンゾ教会のクラーク愛子さんが、森繁久弥さんの養女であることを知りました。彼女は、戦後、アメリカ人と日本の女性との間に生まれ、十代のころ森繁さんに出会い、実の子どものように可愛がられました。やがて、クラークさんと結婚するためアメリカに渡ることになるのですが、その時、彼女にはきちんとした戸籍がないことがわかり、アメリカ行きを拒否されたのです。それで、森繁さんが彼女を養女にして政府と掛け合い、ついに彼女のアメリカ行きを成功させたのだそうです。森繁さんらしい暖かい話ですね。日本のマスコミは今までクラークさんのことを知らなかったのですが、今回、森繁さんの取材に出かけた記者が森繁さんといっしょにいた愛子さんに会って、このことがおおやけになりました。

 こういうのを秘められた話、「秘話」というのですが、実は、聖書にも「秘話」があるのです。ヨハネの福音書は、他のマタイ、マルコ、ルカの福音書よりもずっと後になって書かれ、そこには、他の福音書にはないこと、特に、イエスと弟子たちとのプライベートな会話が数多く書かれています。ヨハネの福音書自体が、「秘話」を集めたものと言って良いほどです。中でも、イエスが弟子たちの足を洗ったことは、他の福音書には書かれていません。これは「秘話」の中の「秘話」と言ってもよいでしょう。

 一、イエスの愛

 さて、この秘められた話の中に何が秘められているのでしょうか。それは、キリストの愛です。1節をごらんください。「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあります。これは口語訳では「彼らを最後まで愛し通された。」となっています。英語で言えば "He loved them to the end." です。「終わりまで」というのは、イエスが地上の生涯の最後の最後まで弟子たちを愛し通したという意味があり、口語訳はその意味をとっています。しかし、もう一つには、イエスがその愛のすべてを注ぎだしたという意味があり、新改訳はこちらの意味をとっています。マリヤがイエスに香油をささげた時、瓶の中の香油を一滴のこらず、注ぎだしたことでしょうが、そのように、何も残さず出し切ってしまうということです。

 イエスは三年間、弟子たちと共に過ごし、彼らを教えてきましたが、イエスや弟子たちのまわりにはたえず大ぜいの人々が取り囲んでいました。しかし、ここでは、十二弟子たちとだけで、時を過ごしています。イエスが、他の誰も入れないで、十二弟子たちとだけで最後の晩餐を守り、世に残していく彼らを特別にいつくしんで、ご自分の愛を最後まで示されたのです。イエスが弟子たちの足を洗ったのは、イエスの弟子たちへの愛を示すためでした。イエスが弟子の足を洗ったのは、イエスの弟子たちへの愛から出たものでした。

 イエスは弟子たちの足を洗ってから、弟子たちに「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(15節)と言っています。弟子たちの最大の関心事が常にだれが一番偉いかということだったということが、聖書のあちらこちらに書かれていますが、この最後の晩餐の時でさえ、彼らは同じことを話題にしていたのです(ルカ22:24)。それで、誰もすすんで足を洗う役を買って出るものがいなかったのです。イエスが弟子たちの足を洗ったのは、そんな彼らには手厳しいレッスンとなりました。しかし、イエスは、たんなるレッスンとして、弟子たちに見せつけるためにしたのではありません。もしそうなら、イエスのなさったことに何かしらの「いやみ」を感じるものですが、ここにはそういう雰囲気はありません。私たちがイエスにどう見習うべきかについては、今朝のメッセージの最後の部分でお話ししますが、イエスはこのことを、たんなるレッスン、たんなる模範としてではなく、弟子たちひとりびとりを愛して、その愛を表わすためにしてくださったのです。このことを、しっかりとこころに覚えておきましょう。イエスは、この世界の造り主であり、すべてのものの主権者、王の王、主の主です。マリヤがその足に三百デナリ、一年分の収入に匹敵する香油を注いだほど、尊いお方です。そんなイエスが、手ぬぐいを腰に巻き、たらいを手にとり、弟子たちひとりびとりの前にひざまづいて、その足を洗いはじめました。人が神の前にひざまづくのはあたりまえのことですが、ここでは神であられるお方が人の前にひざまづいておられるのです。イエスの愛は、神と人との立場を逆転させるほどの、大きな愛だったのです。イエスが洗ったのは、男たちの足ですから、きれいな足などひとつもなかったでしょう。イエスといっしょにイスラエル中を歩き回った足ですから、あちらこちらにタコができていたり、傷がついていたりしたかもしれません。イエスはそんな足のひとつひとつを丁寧に洗いました。あなたのために、これほどのことをした人がいるでしょうか。私は、ここを読むたびに、イエスの愛を深く感じます。イエスを信じる者は、この箇所から、イエスが、これほどに私たちを愛してくださっているということを確認することができるのです。

 二、しもべの姿

 イエスが弟子たちの足を洗ったのは、イエスの愛から出たことでしたが、イエスは、その愛をしもべとの姿で表わしました。イエスは、「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」(4節)ました。「上着を脱ぎ」というのは、キリストは神の栄光という衣を脱ぎ捨てて、この世界に降りてきてくださったことを表わしています。このことばは、ピリピ人への手紙2:6-7を思い起こさせます。そこには、こうあります。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」旧約にダビデ王は、契約の箱をエルサレムに迎える時、王の衣を脱いで亜麻布の服を着たとあります。この時、ダビデはよろこびのあまり踊りましたが、それを見た妻ミカルはダビデを心の中でさげすみました。「王たるものが、しもべの姿をして、なんとはしたない。」とでも思ったのでしょう。(サムエル第二6:14,16)ダビデ王は神への愛のゆえに、王服を脱ぎ捨てたのですが、天の王であるイエスもまた神への愛、また私たちへの愛のゆえに、王の王、主の主としての位を捨て、その栄光を天に置いて、私たちのところに来てくださったのです。

 イエスは、上着を脱いで、そのかわりに手ぬぐいを身につけました。これは、イエスが、私たちと変わらない人間性を身にまとってくださったことを表わします。イエスは罪は犯しませんでしたが、空腹になったり、疲れたり、眠くなるなど、人間の持つ制限や弱さをすべて持っていました。そしてイエスは、誰よりも低いしもべとなり、人々の救いのためにご自分をささげてくださいました。ピリピ人への手紙の続く節に「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:7)とある通りです。

 神の御子イエスは、父なる神の右の座にいて、すべての者を裁き、そこから全世界を、宇宙を治めるお方です。それが、本来のキリストの姿です。しかし、聖書では、キリストは常に「しもべの姿」として描かれています。イザヤ書53章には、私たちの罪を背負って苦しむ「しもべ」の姿があります。「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」(イザヤ53:2-4)新約でも、イエスは「しもべ」として描かれており、イエスご自身、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)と言っています。

 どの宗教でも、神や仏の慈悲を教えます。しかし、そこでの神や仏の慈悲は、高いところからあわれみを垂れるだけのものです。けれども、私たちが知っているように、本当の愛は、高いところから、救いを求める人々のまっただ中に降りくだることではないでしょうか。真実な愛は、しもべの姿でしか示されないのです。ただひとり、キリストだけが栄光の御座をおりて、辱めのきわみである十字架にかかってくださったお方です。しもべの姿をとってくださった救い主は、イエスの他ありません。イエスのしもべの姿の中に、私たちを救う愛があらわれているのです。

 三、イエスにならう

 弟子たちの足を洗い終ったイエスは弟子たちに「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(14-15節)と言いました。最初に少し触れましたように、イエスが弟子の足を洗ったのは、レッスンや模範のためだけではありませんが、イエスが、私たちもイエスのようになり、イエスのしたようにすることを望んでおられるのは事実です。いくつかの教会では、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように」ということばを文字どおりに受け取って、受難週の木曜日に本当に足を洗い合います。また別の教会では足のかわりに、靴を磨きあうそうです。私たちの教会では、そうしたことはしませんが、目に見えない形で足を洗い合うことはしなければならないと思います。それは、どういうことかというと、私たちがイエスがとられたのと同じしもべの姿を身につけるということです。

 人間は、他の動物と違って神のかたちにつくられました。神のかたちとは、神の持っておられるきよさや正しさ、愛や真実といったご性質のことです。人間は、神と同じご性質につくられたのですが、罪のためにそれを失ってしまいました。クリスチャンになるというのは失った神のかたちを取り戻すことであり、クリスチャンとして成長するとは、神のかたちが私たちのうちにかたちづくられることです。そして、神のかたちとは、つまり、キリストの姿であり、神は私たちがキリストの姿に似ていくことを願っておられるのです。そして、私たちがならわなければならないキリストの姿とはしもべとしての姿なのです。ところが、罪の性質は、しもべになることを最も嫌うのです。ミルトンの『失楽園』は天地創造と人間の堕落を描いた壮大な詩ですが、そこに、堕落した天使、つまり悪魔と悪霊たちについてこんなふうに言っています。

 「同輩たちにまさって身を栄光のうちにおこうと望み、
 彼はみずからを至高者に匹敵する者と確信した。」
 感謝の思いをいだくことすら弱さのしるしだ、それゆえ彼はいった。
 「天で仕えるよりは地獄で治めたほうがましだ。」
 他の天の精霊はいった、
 「軽んぜられるよりはむしろ存在しないほうがましだ」と。

 造られたものが、造り主が与えた分を越えて、他のものの上に立ち、神と同等になろう、神をさえ超えようとするところに罪があるのです。もっと身近な例では、ある団体で、組織図をつくったところ、それを見たある人が、「なんで俺の名前が、あいつの名前の下にあるんだ」と怒ったということを聞きました。自分が一番でなければ気が済まないのが、人間の罪です。罪の本質は、決してしもべの姿をとろうとしないことにあります。

 では、どうしたら、人は本当の意味でしもべの姿を取り戻すことができるのでしょうか。イエスのしたことを外面的にまねることによってでしょうか。いいえ、そうしたことでは、私たちの罪と、罪の根である自我や高慢は解決しないのです。イエスを信じ、イエスによって罪を赦していただき、また、きよめていただくこと以外に、人は本当にへりくだって、しもべになることはありません。イエスはぺテロに言いました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(8節)このことばの意味はお分かりですね。自分には何の罪もない、汚れもないと言い張る人ではなく、自分の罪を知り、赦しを請う者、自分の汚れを認め、きよめを求める人が、イエスと関わりを持つ人であり、罪の赦しときよめの中に生きる人の中にしもべの姿がつくられていくのです。

 ところで、「しもべ」というと、人のいいなりになって自由がない、強制されて働く非人間的なものと考えますが、「しもべ」という言葉には否定的な意味ばかりでなく、もっと肯定的な意味もあります。「医学のしもべ」という場合、それは、医学の進歩をひたすらに願って、そのために身を献げた人のことを言い、「芸術のしもべ」というのは、芸術に専念し、没頭する人のことを言います。そのような人は、医学や芸術の価値を知って、それを愛し、強いられてではなく、その愛のゆえに、医学に、芸術に仕えていくのです。人は自分が愛するもののしもべになるのです。しもべとなってその愛を表わすのです。イエスも、私たちの救いをひたすら求めて、みずから進んでしもべとなられたのです。イザヤ書にこうあります。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」(イザヤ41:1-4)神が私たちに求めておられるのは、イエスのようなしもべの姿です。

 英国のリーディング大学の哲学教授 H.A.ホッジスは、それまで、信仰に対して懐疑的な人でした。ところが、オックスフォードの街の一軒の書店の飾り窓に、主が弟子たちの足を洗っている姿を描いている絵を見ているうちに、その心にひとつの決心が与えられました。ホッジスはこう言っています。「その絵を見ているうちに、私は、絶対者が私のしもべであることを悟ったのです。もし、究極的実在者、絶対者があの絵のようにひくく身をかがめた姿のごときものであるとするなら、その神にこそ私は、私の忠誠を捧げようと心に決めたのです。」私たちも、私たちへの愛のゆえにしもべとなってくださったお方に、しもべとなって仕えましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、弟子の足を洗った主イエスの御姿の中に、私たちへの大きな、貴い愛を示してくださり、心から感謝します。しもべの姿の何であるかをイエスに習い、私たちもしもべとなって仕えるものとしてください。まず、あなたに仕えることによって、はじめて、私たちは互いに仕え合うことができるようになります。私たちに、キリストの心を、キリストの姿を持つものとさせてください。しもべなる主、イエスのお名前で祈ります。

3/2/2003