12:20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。
12:21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
12:22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
12:25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
12:26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
今日は二月最後の日曜日、新しい年が始まってもう、二ヶ月が過ぎようとしています。「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」と言われますが、来週水曜日からレントがはじまり、レントの四十日が過ぎれば、もうイースターです。レントを迎えるこの時期に、ヨハネの福音書の学びも、イエスの十字架への道をたどる箇所に入りました。イエスは、地上でのご生涯の最後の一週間を、過越の祭りがおこなわれていたエルサレムですごしました。日曜日にエルサレムに入り、木曜日に弟子たちと最後の晩餐を守るまで、毎日神殿に登っては多くの人々を教えました。今朝の箇所には、ギリシャ人たちがイエスに会いにきたことが書いてありますが、これは、イエスの最後の一週間の火曜日に起こった出来事であると思われます。イエスは、ギリシャ人が面会を求めにきた時、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言いました。これはご自分の死あらためて予告したものですが、なぜ、ギリシャ人が会いに来たときに、このことばを語ったのでしょうか。今朝は、そのことから学ぶことにしましょう。
一、ギリシャ人の面会
ここに登場するギリシャ人たちは、おそらく、ユダヤ教に改宗した人々でしょう。そうでなければ、ギリシャ人がわざわざ、ユダヤ人のお祭りである過越にやってくることはなかったでしょうから。当時、ユダヤ人はユダヤだけではなく、ローマ帝国の発展とともに各地で伝道活動をしていましたから、ローマの支配下にあったギリシャにもユダヤ教への改宗者がいたのです。聖書に「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及します。」(コリント第一1:22)とあるように、ギリシャ人とユダヤ教とは、相容れないもののように思われますが、幾人かのギリシャ人にとっては、数多くの神々が登場するギリシャ神話よりも唯一まことの神を示すユダヤ教のほうが信じるに足るものであったのでしょう。また、ギリシャ哲学では、ものごとをすべて人間の論理、知恵、知識で解決しようとして、果てしのない議論になってしまいますが、ユダヤ教では、律法が最終的な答として提示されており、そうしたことも、ギリシャ人には魅力だったのでしょう。
しかし、ギリシャ人は、どんなにまことの神に心を向け、神のことばを受け入れても、やはり、異邦人である限り、そのままでは神に近づくことができませんでした。まず、割礼を受けてユダヤ人のようにならなければ、神に近づくことができなかったのです。それに、神殿には「異邦人の庭」というものがあって、たとえ、改宗者であっても、本来のユダヤ人でないものは、そこから先に足を踏み入れることは許されていなかったのです。ユダヤ人とギリシャ人の間には、そして、ユダヤ人と異邦人の間には乗り越えることのできない壁が依然として立ちふさがっていたのです。
そんなギリシャ人、異邦人たちが、わざわざイエスに会いたいと面会を求めてきました。ユダヤ人たちが、まことの救い主であるイエスのもとに来ようとはしなかったのに、異邦人であるギリシャ人がイエスを求めてやってきたのです。このことは、ユダヤ人と異邦人との間にあった壁が崩れ、異邦人であっても、直接、救い主によって神のもとに近づくことのできる時がやってきたことを表わす出来事でした。イエス・キリストの救いは、ユダヤ人と異邦人をひとつにし、ともに神のもとに近づけるものだったのです。エペソ人への手紙にこうあります。「しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:13-16)。ここで言われている二つのものとは、ユダヤ人と異邦人のことです。イエスはユダヤ人と異邦人とを隔てていた壁を取り除き、両者をひとつにしてくださったのです。イエス・キリストを信じる者は「もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族」となるのです。(エペソ2:19)地上では、残念ながら、人種や、思想、文化などによる差別があります。アメリカは差別の少ない国ですが、それでも、そのようなことで不利な目にあったり、いやな思いをすることがあります。しかし、神の国ではいっさいの差別はありません。天国では、「あらゆる国民、部族、民族、国語」が神と救い主イエスをほめたたえるのです。(黙示録5:9、7:9)
ギリシャ人がやってきた時に、イエスは「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言いました。このギリシャ人たちも、世界中の人々がおひとりの神を、おひとりの救い主によってほめたたえ、神の栄光が表わされる、そんな時がやって来たことを、イエスは見ておられたのです。しかし、このことは、何の苦労もなしに成就することではありません。それはイエスの大きな犠牲なしには成就しないのです。イエスは、ギリシャ人が明快を求めに来たことによって、ユダヤ人のためばかりでなく、ギリシャ人をはじめすべての人々のために命をささげる時がすぐそこに来ていることを知り、ここで、あらためてご自分の死を口にされたのです。
二、イエスの死の予告
イエスはご自分のことを「一粒の麦」という言葉で言い表わしました。「一粒の麦」ということばは有名で、みなさんは、聖書を読む前からこの言葉を知っていたと思います。しかし、この言葉の正確な意味は何なのでしょうか。ユダヤを代表する植物にはぶどうやいちじくなどもあるのですがなぜ、イエスはご自分を「麦」と呼ばれたのでしょうか。イエスが「一粒」と言ったのには何か意味があるのでしょうか。みなさんは、そんなことを考えてみたことがありますか。
イエスがご自分を「麦」と呼んだことは、イエスがご自分を「いのちのパン」と呼んだことと関係があります。イエスは「わたしはいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じるものはどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と言いました。イエスは私たちにいのちを与えるお方です。私たち人間は、神によって生かされているのに過ぎませんが、イエスは生きておられるお方です。罪のために霊的に死んでいる私たちを、生かしてくださるお方はイエスの他ありません。イエスは私たちを生かすためにそのいのちを投げ出してくださいました。自分の豊かないのちのあまりを人間にすこしだけ削って分け与えるというのでなく、すべてを投げ出してくださったのです。イエスは私たちに「食べられる」ためにご自分を差し出されました。パンが人の食べ物となる時には、裂かれ、噛み砕かれ、胃の中で溶けていきますね。そのように、イエスも十字架の上で、そのからだもたましいも裂かれ、砕かれて、ご自分を無にされたのです。
パンの原材料は麦です。麦はパンとなって人々を養うものですから、イエスはここでも、ご自分が人々にいのちを与えるものであることを主張しておられます。そして、パンが裂かれ、砕かれ、無になることによって人々にいのちを与えるように、麦粒もまた「地に落ちて死ぬ」必要があるのです。イエスがご自分を「麦粒」と呼んだのは、イエスが私たちを生かすお方であること、しかも、そのいのちを惜しみなく私たちに与えてくださるお方であることを表わしています。
一粒の麦から芽が出て、苗となり、やがてまた麦粒を生み出し、そこから、畑いっぱいの麦が生え、やがて大きな収穫になるということは、誰もが知っている事実です。イエスは「一粒の麦が…豊かな実を結びます。」と言うことによって、イエスのたったひとりの死であっても、それが全人類に救いをもたらすものであることをも示しています。ユダヤ人だけではなく、ギリシャ人も、ローマ人も、また、時間を超えて、その時から現代にいたるすべての人々に、イエスの二千年前の十字架がすべての人を生かすものとなるのです。なぜ、ひとりの死が多くの人の命となるのでしょうか。それは、イエスが、他の人よりも偉大だったからでしょうか。いいえ、イエスがいくら人類の歴史の中でぬきんでいたとしても、人類のひとりにすぎないなら、このような救いを与えることはできません。人の目には、イエスは数え切れないほどの麦粒の中の「一粒」に見えたでしょう。しかし、実際は、この「一粒」は他の麦粒と姿形は似ていても、本質のまったく違う「一粒」です。この一粒は、他の麦粒とはちがった、「ただひとつ」いのちを持った麦粒です。イエスはご自分を「一粒の麦」と呼ぶことによって、ご自分がかけがえのない神のひとり子、ただひとり私たちを救うことのできるお方、あとにも先にもないただひとりの救い主であるということを私たちに教えているのです。あなたは、このいのちの与え主から、永遠のいのちを受けているでしょうか。イエスはあなたにとって恐ろしいお方ではありません。あなたを命がけで愛してくださっているお方です。しかし、軽んじていいお方ではありません。イエスは小さな「一粒の麦」のように人の目に見えたとしても、信じる人うちに豊かな実を結ぶ力のあるお方です。恐れることなく、軽んじることなく、信仰をもってイエスを今、心に迎えいれましょう。
三、私たちへの招き
イエスの「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という言葉は、イエスの死を予告することばですが、同時に、イエスは、このことばを弟子たちにも与えています。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言ったあとで、それを説明するようにして、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(12:25-26)と言っています。「死ねば、豊かな実を結ぶ」「自分のいのちを愛する者はそれを失い、いのちを憎む者はそれを保つ」というのはとても逆説的な表現です。私たちは皆、死ねば終わりではないか、財産でも、健康でも、能力でも、信用でも失ったら終わり、喧嘩も負ければ終わり、人生は失敗したら終わりと私たちは教えられてきました。ところが、イエスは私たちに、「死ねば、豊かな実を結ぶ」と言ったばかりでなく、そのことをご自分の十字架の死によってみごとに実証しました。もし、イエスが十字架で私たちのために命を捨てなかったら、イエスの復活もありません。イエスの復活がなければイエスの昇天もなく、イエスの昇天がなければ聖霊の降臨もありません。聖霊の降臨がなければ、教会もなく、教会がなければ、この世で誰も救われてはいないのです。イエスの死によって私たちの救いがなしとげられ、イエスの復活によって福音がはじまり、イエスの昇天によって聖霊が降り、聖霊によって教会が生まれ、教会によって、救いの福音が全世界に宣べ伝えられ、世界60億のうち三分の一、20億の人々がイエスを救い主とあがめるようになったのです。イエスは、私たちに「死んで生きる」道を示し、私たちに、イエスのように生きるようにと教えています。
私は、最近「イエスのように生きる」ということを深く考えています。私は、「イエスによって生きる」こということを十六歳の時に知りました。私のために命をささげてくださり、復活されたイエスを信じるなら、その力によって生かされ、この世を力強く生きることを聖書を読んで知りました。私は、心もからだも弱いこどもでしたが、十六歳の時、イエスを信じてイエスの恵みと力によって心もからだも強くされました。それで私は「イエスのために生き」たいと願いました。神の恵みによって、また多くの人の助けによって、イエスのために何がしかのことをさせて頂きました。しかし、私は、今、それらのことを「イエスのように生きる」ことによって成し遂げてきただろうかと反省しています。「イエスのために」ということは、その成果が目に見えますからわかりやすいのですが、「イエスのように」ということは、なかなか見えてきません。牧師としてこのことをした、執事としてあのことをした、理事としてこんなことを成し遂げたということはたやすいのですが、果たして「イエスのように」それをしただろうかと、お互いにふりかえってみる必要があるように思います。
中世の聖徒と言われる人々は、皆、イエスのように生きようと努力した人々でした。アッシジのフランチェスコは、いっさいの所有を捨て、たった一枚の衣に荒縄を帯にして、奉仕と瞑想と説教の生活に生きました。現代でもマザー・テレサのように、すべてをなげうって、報いを求めない奉仕に生きた人々が、数多くいます。そして、こうした人々の生活を学んでみますと、例外なく、イエスのように生きるために、イエスのように死んでいった人だということがわかります。それは誰かのために命をささげたとか、殉教したという実際の死のことでなく、よろこんで自分を死なせて、神と人とに仕えたということです。イエスは、父なる神を愛して、そのすべてのみこころに従いました。神のみこころが十字架の死であっても、それに従いました。また、イエスは、ご自分の死以外に人々を救う道がないことを知って、人々への愛のために、その命さえもささげました。イエスは、十字架にかかる前に、神への愛と、人々への愛のゆえに、すでに自分を死なせていたのです。私たちが実際に命を投げ出すというのでなく、神への愛において、人への愛において、日々、自分を死なせて生きていくようにと、私たちに教えているのです。
「自分を死なせること」、それはよく「自我の死」と言われます。こどもに「せかいの真中にはなにがいる?」と聞くと、「蚊がいる」と答えます。「せ・か・い」の真中は「か」ですね。では、罪の世界の中心はというと、これは「が」、「我」です。多くの場合、「私が」「私が」という自己主張、自己本位、自己中心が世界を、社会を、家庭を、そしてひとりびとりの人格を壊しているのです。私たちが古い自我に死ぬなら、私たちはイエスのように生きることができます。自我に死ぬということは、あれもしない、これもしない、ひたすら自分を殺すという、禁欲的な難行苦行の世界ではありません。それは積極的には新しい自己に生きることなのです。そんなことが可能なのでしょうか。それは、キリストの十字架と復活によって可能なのです。キリストの十字架、それは、キリストが私のために死んでくださった場所ですが、それと同時に、古い自我が信仰によってイエスと共に死ぬことのできる場所なのです。キリストと共に死ぬ者だけが、キリストによって生かされ、キリストのように生き、キリストのために生きることができるようになります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)この聖書のことばが語っている体験に導かれる時、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」とのみことばが私たちの人生に成就するのです。
(祈り)
父なる神さま、今、私たちは「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」という言葉の重みを味わっています。ある人にとっては、イエスが死なれたことはいまだに不可解なことであるかもしれません。そのような人々に、イエスが私に豊かな人生を与えるため、一粒の麦となられたことをはっきりと示してください。また、イエスのように生きるため、イエスと共に死ぬということについて思いめぐらしているおひとりびとりに、そのことを真剣に求める思いを与えてください。あなたが私たちに与えてくださった新しい生き方へのチャレンジを与え続けてください。あなたは、「もし死ねば、豊かな実を結ぶ」と教えてくださいました。この霊的な課題に取り組むことによって、私たちを本当の意味で「下に根を張り、上に実を結ぶ」ものとしてください。一粒の麦となってくださったイエス・キリストのお名前で祈ります。
2/23/2003