12:1 さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
12:3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
一、イエスへのささげもの
イエスはエルサレムで過越の祭を祝うため、弟子たちを連れてベタニアの村に来られました。ベタニアからエルサレムまではほんのすぐでした。ベタニアの村の人々は、イエスがラザロをよみがえらせたのを目撃していましたから、イエスを歓迎し、土曜日の日没、安息日が終わるとすぐに大きな晩餐会を催しました。
マルコ14:3によると、この晩餐会は「ツァラアトに冒された人シモンの家」で行われたとあります。シモンはイエスにツァラアトをきよめてもらった人です。彼の家が村で一番大きかったからでしょうか、シモンはこの晩餐会のために自分の屋敷を提供しました。また、ラザロはこの晩餐会の主催者となったことでしょう。そして、マルタは給仕役を買ってでました。。村の人々は、心を込めて作った食事を持って集まってきました。それぞれが自分にできる最善のものをイエスに捧げたいと思ったのです。
マリアも当然、自分にできる最善のものでイエスをもてなしたいと考えました。そして、イエスのために香油を用意することを思いつきました。詩篇23:5に「あなたは私の前に食卓を整え/頭に香油を注いでくださいます」とあるように、晩餐会では、来客の頭に香油を注いで歓迎するのが、当時のユダヤでの習わしでした。マリアは、イエスのためにその香油を用意しようとしたのです。
当時上等の香油は外国から輸入され、香りが抜けないように石膏で固められた壺に入っていました。それはとても高価なもので、1リトラ(およそ300グラム)入りのもので300デナリというのが相場でした。1デナリは1日分の労賃でしたから、300デナリといえば、およそ1年分の収入にあたります。そんな高価なものを年若いマリアが買えるわけがありませんから、おそらくは、両親が彼女の結婚のときの持参金代わりに遺してくれたものかもしれません。大切にしまってあったものでしたが、マリアはそれを持って、イエスがいるシモンの家に急ぎました。
ところが、シモンの家に着いたときには、もう晩餐会は始まっていました。来客であるイエスの頭に香油を塗る儀礼は終わっていて、イエスはもう、食事の席についていました。けれども、マリアはどうしても自分の香油をイエスに注ぎたいと願いました。そして、イエスの頭だけでなく足にも香油を注ぎ、自分の髪でそれを拭いました。当時は、長椅子に寝そべって食事をする習わしがあり、イエスも長椅子の上に足を上げていたので、そのようなことができたのでしょう。晩餐会の客は食事の前に足を水で洗ってもらいましたが、マリアは水だけでなく、香油でもイエスの足を洗おうとしたのです。
二、イエスの価値
誰もが、マリアのしたことに驚きました。弟子たちからも、マリアに対する非難の声が上がりました。マリアに対する非難の声を最初に上げたのはユダでした。ユダは、「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)と言いました。それは、ユダが貧しい人々のことを気にかけて言ったのではなく、会計係であったのをいいことに、預かっている金入れから盗んでいたからでした(6節)。「この香油を自分のところに持ってきたら、三百デナリで売り、その中から自分が使い込んだ分の穴埋めができたのに」と思ったのかもしれません。ユダが盗みをしていたことは、このとき、他の弟子たちは誰も知らず、それは後になって明らかになったことでしたので、他の弟子たちもユダに同調しました。他の弟子たちも300デナリもの香油を「もったいない」と考えたのです。
しかし、マリアは「もったいない」ことをしたのでしょうか。イエスは300デナリの贈り物にふさわしくない方だとでもいうのでしょうか。神の御子であるイエスには、何万タラントといったものでさえ、その栄光を飾るには足りないのです。ユダはイエスを銀30枚で祭司長たちに売り渡しましたが、銀1枚は4デナリでしたから、銀30枚は、わずか120デナリにしかならないのです。「300デナリの香油はイエスにはもったいない」と考えたユダは、イエスの価値を、たったの120デナリにしか考えなかったのです。
けれども、マリアは、イエスに対してそんな計算はしませんでした。自分が持ってきた香油がいくらで売れるかなど考えてもいなかったでしょう。ただ自分の持っているものでイエスへの愛を表したい。そして、イエスへの愛を表すのに、どんなものも足らないこと、イエスが何にも勝って尊い神の御子であることを彼女は知っていました。
この晩餐会では、おそらく、マリアの献げたものが最も高額だったでしょう。けれども、それが理由でイエスがマリアをかばったのではありません。イエスは、レプタ銅貨2枚をささげたやもめの献金を「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました」(マルコ12:43)と言って褒めておられます。イエスが献げられたものの「額」で人を量られるわけがありません。イエスは献げものに込められた「愛」と「信仰」をごらんになります。イエスはマリアの捧げた純粋な愛と、イエスに対する深い信仰を喜ばれました。
三、イエスの葬り
イエスは、マリアがしたことを弁護して、「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」(ヨハネ12:7)と言われました。マリアが自分に香油を塗ったのは、ご自分の「葬りの日」のためであると言われましたが、実際、この日から一週間経たないうちに、イエスは死なれ、葬られました。金曜日の午前9時、イエスは十字架につけられ、午後3時に息を引き取られました。普通、十字架に架けられた犯罪人の死体は谷に捨てられ、野獣や野鳥の餌食になるのですが、ひそかにイエスを信じていたヨセフという有力な人物が総督ピラトに申し出て、イエスのからだを引き取ることを許されました。金曜日の日没から安息日が始まるので、ヨセフは大急ぎでイエスのからだに香油を塗り、自分のために作った新しい墓に収めました。墓は厳重に封印され、ローマ兵がその番をしました。そのためイエスが亡くなられてから、そのからだに香油を塗って別れを惜しみたいと願っていた女の弟子たちは誰一人そうすることができませんでした。しかも彼女たちが墓にやってきた日曜日の朝早くには、イエスはすでによみがえられて、墓は空っぽだったのです。女の弟子たちの中で、イエスの葬りのために香油を塗ることができたのは、マリアただ一人でした。
イエスはたびたびご自分の死を予告してこられましたが、弟子たちはそれを理解しませんでした。けれども、マリアはイエスの身にただならないことが起こることを直感しました。長椅子に横たわっているイエスの姿が、埋葬のために横たえられている姿に見えたのかもしれません。女性が人前では髪の毛を結っておかなければならかったから時代に、イエスの足に香油を注ぎ、自分の髪の毛でそれを拭うなどといったマリアの行為は、普通のことではありませんでした。けれども、これから普通でないことがイエスの身に起ころうとしているのです。聖く正しいお方が罪を着せられる。しかも、父なる神に従い通し、その栄光を表したお方が、なんと冒瀆罪で裁かれる。いのちの主が十字架という歴史の中で最も残酷な処刑によって命を奪われる。そんな普通でないことが起ころうとしているときに、それを悟って行ったマリアの行為は、たとえ常識的なことでなかったとしても、決して非難されるものではありませんでした。非難されるのは、イエスの死と復活の予告を何度も聞いていながら、それを悟らなかった弟子たちのほうでした。
マリアがしたことについてイエスはこう言われました。「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(マルコ14:9)
ここでいわれている「福音」とは何でしょうか。それは、イエスが私たちの救いのためにしてくださったことをさします。どの宗教もみな、「救われたいなら悟りを開きなさい」、「悟りを開くために、これこれの修行をしなさい」、「過去の罪を償うために善い行いを積みなさい」など、私たちがしなければならないことを教え、要求します。しかし、福音は違います。人がしなければならないことではなく、神が人のためにしてくださったことを告げます。私たちはみな、自分がしなければならないことをほぼ知っています。しかし、知っていてもそれを守れない、行うことができないでいます。そこに私たちのジレンマがあります。しかも、そのジレンマから自分で自分を救い出すことができないでいます。私たちは、神が私たちの救いのためにしてくださったこと、つまり、「福音」を聞いて、信じることによってしか救われないのです。そして、その福音の中心はイエス・キリストの死と葬りと復活です。コリント第一15:3-5にこうある通りです。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」
マリアは香油を注ぎましたが、イエスはその血を、つまり、ご自分のいのちを注ぎ出されました。イエスはその貴い血を、私たちを罪と死から救うために、惜しみなく注ぎ出してくださったのです。この福音が宣べ伝えられるところではマリアのしたことも語られるというのは本当のことで、現に今、私たちはマリアがイエスに香油を注いだことを通して、イエスの死と葬りと復活の福音を聞いています。
香油を注いだときマリアは一言も語っていませんが、その行いによってイエスの死を予告しました。マリアは香油を注ぎ終わったあとは、静かにその場を離れたことでしょう。大勢の人がいた晩餐会では、マリアが香油を注ぐのを見た人はそんなに多くはなかったでしょう。しかし、香油の香りは家いっぱいに広がりました。マリアが無言のうちに隠れてしまっても、彼女が注いだ香油の香りは家いっぱいに広がり、マリアが香油を注ぐのを見なかった人にも届きました。私たちは、自分がそれによって救われた福音を人々に伝えたいと願い、証しします。ときには語っても聞いてもらえないこともあります。聞いてもらえないなら、行いで証ししようとしますが、それも認めてもらえないこともあります。しかし、言葉が人の耳に残らず、行いが目にとまらなくても、福音を証しするためにしたことから放たれる香りは消えることはありません。それは人々のたましいに何かの感化を与え、その感化は残るのです。
それが霊的な香りなのですが、それは、人間の力で合成して作りだせるものではありません。それは、イエスへの純粋な愛と信仰に生きることによって、神が私たちの内に生み出してくださるものです。このレントの期間、私たちもキリストの香りとなれるよう願い、求めて過ごしたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、レントが始まる週のはじめ、マリアが献げた香油について考えることができました。この一週、一人ひとりに、自分にとっての香油が何であるのかを教えてください。そして、私たちもキリストの香りを持つものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/2/2025