12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
私たちは、礼拝で、イエスのご生涯の最後の一週間をたどっています。先週は、土曜日の出来事を学びました。イエスは、土曜日にベタニアに来られ、ベタニアの人々は、村中総出で大きな晩餐会を催しました。マリアはその晩餐会でイエスに香油を注ぎ、そのかおりは会場いっぱいに広がりました。私たちも、イエスを証しするかおりでありたいと心から願いました。
夜があけて、日曜日の朝、イエスはベタニアを出てエルサレムに向かわれました。過越の祭を祝うためエルサレムに来ていた多くの巡礼者たちは、イエスが来られることを知って、手に手になつめ椰子(パーム)の枝をとってイエスを迎えました。イエスは、人々が「ホサナ」と歌う中、ろばの子に乗って、エルサレムに入城されました。きょうは、この出来事から、イエスがまことの救い主であること、また、私たちの王であること、さらに神の子羊であることを学びましょう。
一、救い主イエス
イエスが世に来られる前、何人もの人たちが「自分こそ救い主だ」と名乗りました。その多くは、ユダヤの独立を願う人たちでローマへの反逆を試みましたが、すべて自滅してしまいました。使徒5:36-37には「テウダ」や「ガリラヤのユダ」といった人物の名前を見ることができます。その人たちは人間の動機、人間の計画、人間の力によってことを行おうとしました。神に選ばれ、神から遣わされた者、つまり「主の御名によって来られる方」ではなかったのです。
まことの救い主は、イエスお一人です。イエスがまことの救い主、「主の御名によって来られる方」であることは、神が救い主について約束されたすべてのことが、イエスによって成就していることによって証明できます。イエスは聖書の言葉の通り、ダビデの子孫として、ダビデの町ベツレヘムで、処女より生まれました。ガリラヤのナザレの村で育ち、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け、神の言葉を語り、悪霊を追い出し、病人を癒やし、力あるわざを次々に行われました。こうしたことはすべて聖書の預言の通りに起こりました。もし、イエスが「主の御名によって来られる方」、救い主でなかったら、イエスは聖書の預言を何一つ成就することができなかったでしょう。
イエスがろばの子に乗って、エルサレムに入城されたのも聖書の預言の成就です。けれども、このとき、そのような預言が成就するとは思えない状況でした。イエスを亡きものにしようとする計画がユダヤの指導者たちの間ですでに立てられていて、イエスの居所を知っている者は届け出よとの命令が出されていたからです(ヨハネ11:57)。西部劇流に言えば "Wanted! Jesus of Nazareth, 30 Silver Reward" というようなものです。指導者たちが、イエスがエルサレムに姿を現したら捕まえてしまおうと手ぐすねひいて待ち構えていたにもかかわらず、イエスは、人々が歓迎する中を堂々とエルサレムに入城されました。指導者たちは、群集を敵に回わすことを恐れ、イエスに指一本触れることができませんでした。彼らの計画はまったくあてが外れてしまいました。彼らは言いました。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」(ヨハネ12:19)
人から出たものは、どんなに緻密に計画したものでもやがて、神のご計画に打ち破られてしまいます。しかし、神から出たものは、人間のどんな妨げがあっても、それは成就するのです。
私たちの人生には思ってもみなかったことが起こります。計画どおりにものごとが進むことのほうが少ないでしょう。そして、思いどおりにいかないとき、私たちは「どうしよう」と慌てたり、「どうなるんだろう」と心配したり、「もっと悪いことが起こるのでは」と不安になり恐れに囚われたりします。また、「どうしてこうなったんだ」と不満を撒き散らしたり、「もうだめだ」と絶望したりします。しかし、イエスを信じる者は、イエスのご生涯が神のご計画に導かれたように、私たちの人生も、イエスにあって神のご計画によって導かれ、自分の人生に神のみこころが成就することを知り確信することができます。不安や恐れから救われ、あきらめやつぶやきに代えて希望と喜びをもって日々を歩むことができます。
イエスは聖書の預言のすべてを成就して、ご自分が救い主であることを証明されましたが、そこには、父なる神のみこころに対する信頼がありました。その信頼によってイエスは、十字架が待っているエルサレムにも堂々と進んでいかれたのです。私たちも、イエスにならい、私たちの人生に主のご計画が実現することを信じ、歩みましょう。
二、王であるイエス
イエスのエルサレム入城はゼカリヤ9:9の預言の成就でした。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」ここでは、「見よ、あなたの王があなたのところに来る」とあって、イエスは「王」と呼ばれています。イエスを迎えた人々は、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって 来られる方に。イスラエルの王に」と叫んでイエスを「王」として迎えています。イエスは、ふだんは、ご自分が救い主であることや神の御子であることを吹聴しないようにと人々を戒めておられたのに、このときは、人々がご自分を「王」と呼ぶのを許しておられます。イエスは確かに「王」だからです。
しかし、イエスはこの世の王とは違っています。そもそも、王である者は、ろばなどには乗りません。もっと大きく、強く、早く走る馬に乗り、高いところから人々を見下ろすのです。「柔和な者で、ろばに乗って」とあるように、イエスがろばに乗られたのは、「柔和さ」を示すためでした。この世の王は自分の民の上に君臨し、民を思い通りに扱おうとします。しかし、イエスは、ご自分の民をいつくしみ、民の幸いを願い、民と共に歩まれる王です。
また、イエスがろばに乗られたことは、イエスが平和の王であることも示しています。ゼカリヤ9:10に「わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」とある通りです。「戦車」、「軍馬」、「弓矢」は、どれも軍事力を表します。古代には、馬の数が多ければ多いほど、その国は戦争に強いと考えられていて、どの国でも馬を数多く買い集めていました。現代でも、自動車のエンジンの力は「馬力」で表します。100馬力といえば、馬100頭分の力になります。車好きの人は、400馬力や800馬力といった車に乗りたいと思うものです。今でも「馬力」という単位が使われています。
しかし、イエスは「戦車」も「軍馬」も「弓矢」も持たず、それらを求めない王です。イエスはそのようなものが要らなくなる世界をつくる平和の王です。今、世界は軍事力のバランスの上に成り立っています。どこかの国がもっと軍事力を増やし、他の国を屈服させるようなことがあれば、そのバランスが崩れ、世界はたちまち混乱してしまいます。今年は、第二次世界大戦から80年。その間もたくさんの戦争が起こり、今もそれが続いています。平和な時代は長くは続かないのです。私たちに必要なのは、軍事力のバランスで保たれている危うい平和ではなく、長く続く平和、根本的な平和です。イエスは、そのことを、もう一度おいでになるとき、再臨のときに実現されます。そのとき、イエスはろばにではなく雲に乗って来られ、世界を平和のうちに治められます。私たちの祈りは、王であるイエスが来て、この世界に平和をもたらしてくださることです。けれどもイエスはすでに世界を治める王なのですから、今も世界のあちら、こちらで行われている戦争をやめさせ、平和を与えてくださいと祈ることができますし、また、そう祈る必要があると思います。
三、子羊であるイエス
イエスは救い主であり、王であるとともに、神の子羊でもあるお方です。ゼカリヤ書の9:11にこうあります。「あなたについても、あなたとの契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。」ここに「契約の血」という言葉があります。この言葉はイスラエルがエジプトから救われるために流された過越の子羊の血を思い起こさせます。子羊が犠牲となることによって人々はエジプトに臨む裁きから救われたのですが、この子羊はイエスを表しています。実際、イエスは、この後、十字架にかけられ、十字架の上で、そのからだを裂き、血を流し、私たちを罪と死から救ってくださったのです。イエスが過越の祭のときにエルサレムに入城なさったのは、そこで冠を受けて王になるためではありません。じつに過越の子羊となってご自分のいのちを献げるためだったのです。
人々はイエスに「イスラエルの王」と呼びかけました。イエスは確かに「王」です。しかし、イエスが天の王座に着くまでに、十字架の道を通らなければならないことを人々は知りませんでした。弟子たちはそのことをイエスから予告されていましたが、彼らは悟りませんでした。しかし、弟子たちはイエスがよみがえられたのち、イエスが神の子羊となり、十字架の上で私たちの罪を背負って死なれたことを知り、悟りました。よみがえられたイエスが、そのことを聖書から事細かに弟子たちに教えられたからです。そして、弟子たちは、イエスが天の王座につくために、天に上っていかれるのを目撃しています。
イエスが天に上っていかれるのを見送ってから10日して、つまり、過越の祭から50日目に「初穂の祭」(ペンテコステ)がありました。そのとき聖霊を受けた弟子たちは、イエスの十字架と復活を力強く語りました。それを聞いた人々の中には、過越の祭のとき、なつめ椰子の枝を手にとって、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」といってイエスをエルサレムに迎えた人々もいたでしょう。その人たちは、そのとき、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入られたことの意味を改めて悟りました。そして、その場で自分の心の扉を開いて、イエスを、まことの救い主、また王として受け入れました。
また、ペンテコステの日に集まった人々の中には、イエスが総督ピラトに裁かれたとき、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ人たちもいたでしょう。十字架にかかられたイエスを嘲った人たちもいたかもしれません。その人たちはペテロが「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と言ったとき強く心を刺されました。そして、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言って、救いを求めました。ペテロは「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と答え、悔い改めた人々も、イエスを信じ受け入れました。この人たちも、イエスを救い主、王として受け入れたのです(使徒2:36-38)。
エルサレムはもとはエブス人によって占領されていました。ダビデがそこを攻略してイスラエルの首都とし、自分の王宮を建てました。それでエルサレムは「ダビデの町」と呼ばれました。それと同じように、イエスは私たち一人ひとりの心をご自分の町エルサレムとして、そこに入城するのを望んでおられます。エルサレムに限らず、どの町の城門も夜になると固く扉が閉ざされ、出入りが禁じられます。扉が閉められれば王であっても町に入れません。王であるイエスは私たちに心を開いてご自分を迎えるよう願っておられます。ろばの子に乗られるほど柔和な王を、私たちもへりくだった心で迎え入れたいと思います。そして、平和の王であり、神の子羊であるイエスがくださる赦しと平和を体験したいと思います。
(祈り)
父なる神さま、過越祭の日曜日、イエスを迎えた人々は、イエスについてすべてを知らないでいましたが、イエスを王として迎えました。今、私たちは王であるイエスが神の子羊となってご自分を献げ、私たちの救い主となってくださったことをはっきりと聞き、知っています。イエスを、改めて、私たちの心と生活にお迎えします。イエスとともに日々を歩むことができるよう導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/9/2025