12:12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
12:13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、/「ホサナ、/主の御名によってきたる者に祝福あれ、/イスラエルの王に」。
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王が/ろばの子に乗っておいでになる」/と書いてあるとおりであった。
12:16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
12:17 また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。
12:18 群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。
きょうから、受難週です。レントの期間、イエスのご受難を想いながら過ごしてきましたが、この週は、グッドフライデーを目指して、さらに深くイエスの十字架を想いみる日々が待っています。「受難週」というと少し暗く、静かで、悲しみを誘うのですが、受難週の日曜日、パームサンデーは、明るく、華やかで、喜びに満ちています。この日、わたしたちは、人々の嘆きや嘲りの声の中を処刑場に向かうイエスではなく、人々の賛美の中を神殿に向かうイエスに目を留めます。多くの教会では礼拝堂がしゅろの葉をはじめ、木の枝で飾られます。鮮やかな緑と爽やかな香り、目に入るもの、五感から感じられるものもまた、わたしたちの気持ちを高めてくれます。
エルサレムの指導者たちは過越の祭の前にイエスを殺そうと企んでいました。ヨハネ11:57に「祭司長たちとパリサイ人たちとは、イエスを捕えようとして、そのいどころを知っている者があれば申し出よ、という指令を出していた」とあるように、イエスは「指名手配」中の「お尋ね者」のように扱われていました。しかし、イエスは、逃げ隠れすることなく、多くの人々を従えて、堂々と、エルサレムに乗り込んでこられました。これには、ユダヤの指導者たちも驚きました。イエスがエルサレムに来たら捕まえてやろうとしていのに、あてがはずれてしまいました。彼らは、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」(19節)と、イエスを捕まえることをいったんは、あきらめかけたほどでした。
では、このパームサンデーの出来事、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城されたことや人々がしゅろの枝を手にとりイエスを迎えたことは、わたしたちにとってどんな意味があるのでしょうか。ろばの子に乗られたイエスのお姿、そして、それを迎えた群衆がしたこと、今朝はこのふたつのことを学んでみたいと思います。
一、イエスは救い主
最初に、ろばに乗られたイエスのお姿が意味することを考えてみましょう。
ユダヤの敬虔な人々は長い間、救い主が来られるのを待っていました。神は、かつて、さまざまな助け手を送って人々を苦しみから救い出してくださいました。人々は、そうした人たちを見て、「もしかしたらこの人が救い主だろうか」と期待しました。しかし、それらの人々は、一時的な助けを与えることはできても、その助けは長く続くものではありませんでした。「主の御名によってきたる」者ではなかったのです。ユダヤがローマ帝国の属国になってから、「われこそは救い主」と名乗って、ローマに反乱を企てた人たちがいましたが、そうした人々もまた「主の名によって」来た人ではありませんでした。「主の名によって」来られる、まことの救い主は、聖書の預言のとおりのお方でなければならないのです。
そうした聖書の預言をすべて満たしたのは、後にも先にも、イエスただおひとりです。イエスはダビデの子孫であり、ダビデの町ベツレヘムで生まれ、後にガリラヤで育ちました。これは皆、聖書の預言の通りでした。イエスはヨハネからバプテスマを受け、聖霊に満たされ、悪魔の誘惑に打ち勝ち、悪霊を追い出し、病気を直し、死人さえ生き返らせました。イエスは、権威をもって人々を教えるとともに、人々の罪を赦し、疎外された者に手を差し伸べられました。イエスは聖書の預言の通りに歩み、預言をひとつ違わず成就していきました。
ろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのも、預言の成就でした。14、15節に「イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる』と書いてあるとおりであった」とあります。「〜と書いてある」というのは、預言のことです。この預言は救い主を、王であっても柔和な方、強いお方であっても平和をもたらすお方として描いています。
王は、ふつうはろばの子には乗りません。馬に乗って、高いところから人々を見下ろすのです。ところが救い主は民衆の乗り物、ろばに乗りました。ろばは背が低いですから、ろばに乗っても、まわりの人と背の高さは変わりません。子ろばだったら、それに乗った人の背丈はまわりの人より低くなるかもしれません。イエスを迎えた群衆の中には子どもも大勢いたでしょう。イエスは、子どもの背丈にまで降りて、彼らと一緒に歩まれたのです。イエスは王の王、主の主であるのに、人々の中でも低くされた人々に寄り添ってくださる柔和なお方です。
イエスはまた、平和の王です。救い主がろばの子に乗って来ると預言しているゼカリヤ書には、こう書かれています。
わたしはエフライムから戦車を断ち、エルサレムから軍馬を断つ。また、いくさ弓も断たれる。彼は国々の民に平和を告げ、その政治は海から海に及び、大川から地の果にまで及ぶ。(ゼカリヤ9:10)馬は力の象徴です。自動車などのエンジンの力は、いまだに「馬力」で表わされます。100馬力のエンジンは馬が100頭分の力があるということになります。今日では、軍事力といえば、戦艦や戦闘機、ミサイルの数などではかるのでしょうが、古代には馬の数ではかりました。たくさんの軍馬を持つ国が戦争に強いとされたのです。王たちは競って馬を買い集めました。しかし、まことの王としておいでになったイエスは、馬ではなく、ろばに乗りました。イエスはそのことによって、ご自分が、平和の王であることを人々に示されたのです。神の国は人の力や剣によってではなく、神のことばの力、聖霊の力によって建てられます。救い主は、人々の心から恐れを取り除き、平和を与えることによって、人々の口から攻撃の言葉を取り除き、人々の手から武器を捨てさせてくださるのです。イエスは預言のとおりの柔和な王、平和の王です。
もし、誰かが、救い主についての預言どおりのことを実行して、自分が救い主になろうと考えたとしても、そんなことは誰にもできません。どんなにすぐれた人もイエスと同じ高潔な人格を持ってはいませんし、どんなに賢い人も、イエスのように知恵に満ちて教えることはできません。また、イエスがなさったのと同じ奇蹟を行える人など誰もいません。もし、救い主になりたければ、処女から生まれ、貧しく育ち、聖霊に満たされ、悪魔の誘惑を斥け、数々の奇蹟を行い、人々を教え、ろばの子に乗って人々の賛美のうちにエルサレムに入城し、自ら十字架で死に、三日目に復活しなければならないのです。こうしたことをひとつ違わずできる人は誰もありません。それをなさったのはイエスだけです。パームサンデーの出来事は、イエスがただひとりの、まことの救い主であることを告げ知らせているのです。
二、イエスへの礼拝
次に、群衆がしゅろの枝を手にとり、「ホサナ」と叫んで、イエスを迎えたことについて考えてみましょう。このことは、わたしたちに礼拝とはどんなものかについて教えてくれます。
礼拝とは、第一に、イエスを「主の御名によってきたる者」として受け入れることす。ヨハネ8:23で、イエスは「わたしは神から出た者、また神からきている者である」とはっきりと語っておられます。ところが人々はイエスをそのようなお方として受け入れませんでした。ことごとくイエスに反発し、イエスを斥け、最後には十字架に追いやったのです。イエスが「わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない」(ヨハネ5:43)と言われた通りです。しかし、弟子たちは、イエスが神のもとから来られたことを信じました。イエスは弟子たちに「父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである」(ヨハネ16:27)と言っておられます。礼拝は、イエスが父のもとからこられた神の御子であることを信じ、このイエスを心に迎え入れることからはじまるのです。
エルサレムの町は、王が住む町で、城壁で囲まれていました。その門は夜になると閉じ、朝になると開きました。城門が開かないと、たとえ王であっても、だれひとり出入りできません。イエス・キリストはわたしたちの心を、ご自分の王宮とされ、そこに王座を置かれました。ところが、多くの人は、心の扉をしっかりと閉めてしまって、王であるお方を締めだしているのです。王のいない町はもはや首都ではありません。王なるイエスをお迎えしてこそ、わたしたちの心は王の都としての輝きを持つのです。イエスを心に迎えてこそ、わたしたちの心に消えない希望の光が満ちるのです。毎週の礼拝は、パームサンデーのように、王であり、主であるイエスを喜びをもって心にお迎えするときなのです。
第二に、礼拝とはイエスと共に天を目指すことです。イエスは過越の祭の時エルサレムに来られました。過越の祭にはユダヤ各地をはじめ外国からも大勢の人々がエルサレムに押しかけました。「ホサナ」と歌ってイエスを迎えた人々はエルサレムへ旅してきた巡礼者たちでした。イエス・キリストを信じるわたしたちもまた、信仰の巡礼者、天の都への旅人です。イエス・キリストは、みずからが犠牲の子羊となり、十字架の上で血を流し、その血を天の神殿にささげられました。ご自分のからだを裂くことによって、天への道を切り開いてくださったのです。わたしたちは、イエス・キリストの裂かれたからだを通って、天に至るのです。イエスは、わたしたちのさきがけとして天に行き、そこでわたしたちを待っていてくださいます。そして、さらに素晴らしいことに、それと同時に、イエスはわたしたちといっしょに天への旅を歩んでくださるのです。
日本では、弘法大師(空海)にゆかりのある四国八十八箇所の霊場をめぐる巡礼があります。その巡礼者は「お遍路さん」と呼ばれ、その人たちがかぶる日傘には「同行二人」(どうぎょうににん)と書かれています。八十八箇所めぐりは、手を抜かずに回れば1400キロメートルにおよぶたいへんな距離です。そんな巡礼に「お大師さま」がいっしょに歩いてくださるというのが、「同行二人」という言葉の意味です。空海上人はいくら優れた人であったとしても、すでに亡くなった人で、実際に巡礼者と共にいることはできません。それは巡礼者が「お大師さま」を心に想って歩くということなのでしょう。しかし、復活して、今も生きておられるイエス・キリストは、わたしたちの信仰の旅に実際に伴ってくださるのです。ろばの子に乗って人々の真中を歩かれたイエスは、わたしたちと共にわたしたちのペースで歩んでくださるのです。
黙示録に、天での礼拝の姿がこう描かれています。
その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救いは、御座にいますわれらの神と小羊からきたる。」(黙示録7:9-10)「白い衣」は、イエス・キリストによる罪の赦しときよめ、「しゅろの枝」は、主イエスへの礼拝を表しています。地上で礼拝のたびごとに、心を開いてイエスを迎え入れるわたしたちに、天の門は開かれるのです。天に至るとき、地上の歩みの間、ずっとイエスがいっしょにいてくださったことを、わたしたちは見出すでしょう。そのとき、わたしたちも「白い衣」を着て「しゅろの枝」を手にとり、天の御座におられる神と小羊であるイエス・キリストを高らかにほめたたえるのです。地上の礼拝は天で完成するのです。わたしたちはその輝かしい日を待ち望んでいます。その日を待ち望み、毎週の礼拝でイエスを心に迎え、この一週の一日、一日を、このお方と共に歩んでいくのです。
(祈り)
父なる神さま、イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主、王、主であることを示してくださり感謝します。また、この主イエスへの礼拝について教えていただき、ありがとうございます。イエス・キリストを主とし、王として心に迎え、日々を主と共に歩ませてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/29/2015