ラザロよ、出て来なさい

ヨハネ11:41-44

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11:41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。
11:42 あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
11:43 そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ、出て来なさい。」
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 きょうは、先々週に続いて、ラザロの生き返りの部分から学びます。ラザロは多くの人から愛され慕われていました。それで、彼が病気で亡くなったとき、ベタニアの町中の人々がラザロの死を嘆き悲しみました。イエスも「涙を流され」ました。しかし、ラザロの墓に来られたときには、イエスは断固とした態度で、墓の入り口の石を取り除けるよう命じました。父なる神に感謝の祈りをささげたあと、イエスは大きな声で「ラザロよ、出て来なさい」と叫ばれました。すると、葬られて4日も経っていたラザロが起き上がり、墓から出てきたのです。

 「ラザロよ、出て来なさい。」イエスの力ある言葉がラザロに働きかけ、彼に再び命を与えました。「ラザロよ、出て来なさい」と言われた言葉は、ラザロが納められた墓にこだましました。現代の社会には「死の文化」が蔓延し、世界は「墓穴」のようになっていて、人々はその中に閉じ込められていますが、そこにも「ラザロよ、出て来なさい」との言葉は響いています。「ラザロよ、出て来なさい。」この言葉は、私たちにどのように働きかけるのかをご一緒に考えてみましょう。

 一、新生

 「ラザロよ、出て来なさい。」それは第一に、私たちに「新生」(ボーン・アゲイン)をもたらします。

 聖書に「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創世記2:7)とあります。人の命は、神から与えられたものです。自分で保っているものではなく、神によって支えられているものです。それが証拠に、この時代、この場所、この家族に生まれたいと思って、その通りに生まれてきた人は誰もいません。また、人は、自分の寿命を決めることができません。大きな災害に遭って生き残った人たちは皆、口を揃えて、「ああ、私たちは、生かされているんだ」と言います。そうです。私たちは皆、自分で「生きている」のではなく、神によって「生かされている」のです。

 神は、アダムに戒めをお与えになるとき、こう言われました。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)神が、アダムに「必ず死ぬ」と警告なさったのは、人は神に生かされているものであり、神の言葉を無視し、その戒めを破り、神との関係を断ち切るなら、そのとき、命も途絶えるからです。冷蔵庫でも、テレビでも、電源コードがコンセントにつながっていなければ、どこをどんなに操作しても動かないのと同じことです。

 しかし、アダムとエバは、罪を犯したとき即座に死に絶えませんでした。もし、そうだったら、今、人類は存在しないわけです。では、神が「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのは、ほんとうではなかったのでしょうか。いいえ、アダムは930年も生きましたが、ついに死にました。創世記5章には、古代の人々が900年、800年、700年も健康で長生きしたことが書かれています。しかし、どの人についても、「こうして、彼は死んだ」とあります。確かに、罪によって死が人類を支配するようになったのです。

 聖書は、からだの死だけでなく、霊の死についても教えています。人は、罪の中にいるなら、たとえからだは生きていても、その霊は死んでいるのです。エペソ2:1-2にこうあります。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」神から離れていた私たちは、生きる意味を知らず、人生の目的を持たず、この世の流れに流されるだけの日々を送っていました。霊的に死んでいたのです。

 エペソ2:1-2は「あなたがたは…死んでいた」と言っています。けれども、続く2:4-5は「しかし」で始まっていて、こう言います。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」4節の「しかし」は小さな言葉ですが、大きな意味を持っています。1-2節の「あなたがたは…死んでいた」との言葉を、4節の「しかし」がひっくりかえして、「神は…生かしてくださいました」と言っています。この「しかし」が「救い」です。「恵み」です。5節の「キリストとともに生かし」とあるのは、イエスの死とよみがえりのことを言っています。死は罪の結果です。なのに、なぜ罪のないイエスが死なれたのでしょう。それは、イエスが私たちの罪を十字架で背負われたからです。イエスは、私たちの罪の結果を引き受け、本来は死ぬべき者をご自分の命で生かしてくださるのです。イエスの復活が霊的に死んでいる私たちを再び生かし、イエスを信じる者は、神の子どもとして、新しく生まれるのです。

 イエスは、この霊的な命、生まれ変わりについて、ニコデモにこう言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)ニコデモはイエスの話されたことが分からず、「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」(同3:4)と、的はずれな答えをしました。けれども、イエスが言われた「新しく生まれる」や、ニコデモが言った「もう一度生まれる」という言葉から、「新生」という言葉が生まれました。イエス・キリストを信じる者には、「生まれ変わり」(ボーン・アゲイン)が与えられるのです。

 イエスがニコデモと話されたのは、ラザロの生き返りの2年ほど前のことですが、おそらく、イエスは、ニコデモにも、「ニコデモよ、出て来なさい。霊的な死という墓から、出て来なさい」とおっしゃりかったと思います。そして、神を信じようとせず、イエスを受け入れようとしないで、不信仰の墓穴に、その暗闇に閉じこもっている現代の人々にも、イエスは「出て来なさい」と呼びかけておられます。皆さんは、その呼びかけにすでに答えていますか。

 二、回復

 「ラザロよ、出て来なさい。」この呼びかけは、第二に、私たちに「回復」(リバイバル)をもたらします。

 イエス・キリストを信じ、受け入れるとき、私たちは、永遠の命を受け、神の子どもとして生まれます。一度、神の子どもとして生まれ変わったなら、生涯、また、永遠までも神の子どもです。神の子どもの身分は変ることはありません。神の子どもを生かす命は「永遠のいのち」ですから、無くなることも、取り去られることもありません。けれども、この命は神との信頼の関係によって与えられ、神との交わりの中で育つものです。ですから、もし私たちが、一時的であっても、神との交わりから離れてしまうと、永遠の命を受けていても、その命を感じることができなくなります。

 その一つの例は、詩篇51:10-12にあります。詩篇51篇は、ダビデが大きな罪を犯したとき、悔い改めて祈った祈りです。「神よ 私にきよい心を造り/揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。私を あなたの御前から投げ捨てず/あなたの聖なる御霊を/私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを私に戻し/仕えることを喜ぶ霊で 私を支えてください。」ダビデは、神に対して素直な信仰を持っていました。イスラエルの王になっても、驕り高ぶらず、謙虚に神の恵みを感謝し、それを喜び、神に仕えていました。しかし、罪を犯したとき、今まで持っていた喜びも、平安も、感謝も、また、素直な神への信頼もなくしてしまいました。ダビデは依然として神に愛され、イスラエルの王として選ばれ、また、霊的な命を保っていました。しかし、罪のために、その命が彼のうちに十分に働かなくなっていたのです。ダビデは、神の前に死んだようになっている自分を見て、悔い改め、「私をもう一度、生かしてください」、「新しくしてください」と願いました。その祈りは神に届き、彼は、罪の赦しを確信し、もう一度、救いの喜びを取り戻しました。

 今日のクリスチャンも、ダビデと同じような経験をします。誰かに躓き、その人を赦せないでいると、自分も神の赦しを体験できないことがあります。小さな思い煩いであっても、やがて失望や落胆に変わり、不信仰になることもあります。また、あまりにも多くの重荷を抱え込んでゆとりがを失くし、神のくださる命の豊かさが感じられず、霊的に死んだようになることがあります。それは、からだで例えれば、病気になるようなものです。病気になれば、健康な時に持っていた力を失います。そのように、霊的な病気になるとき、永遠の命を持っていても、そこから来る愛、喜び、平安、希望、意欲、情熱、また力などをなくすのです。しかし、そんなときも、神は私たちのたましいを癒やし、もう一度、いや何度でも、私たちに豊かな命を味わうことができるようにしてくださいます。詩篇23:3に「主は私のたましいを生き返らせ/御名のゆえに 私を義の道に導かれます」とある通りです。「わたしは良い牧者」と言われるイエスは、「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」(ヨハネ10:10)と言っておられ、豊かないのちと、その回復を約束しておられます。

 神の、この回復のみわざが大きな規模で起こるのが「リバイバル」ですが、「リバイバル」は、個人のレベルでも、「信仰の回復」や「たましいの癒やし」といった形で起こります。神の回復のみわざは、私たちを元の状態に戻すだけでなく、より良い状態へと引き上げてくれるものです。もし、神との親しい交わりが途絶えていると感じることがあれば、神の回復のみわざ(リバイバル)を願い求めましょう。そして、それによって、「豊かないのち」を体験する者となりましょう。

 三、復活

 「ラザロよ、出て来なさい。」この呼びかけは、第三に、私たちに「復活」をもたらします。使徒信条で、「身体(からだ)のよみがえりを…信ず」と言われているものです。

 生涯を終えるとき、私たちの「霊」は神に帰りますが、「からだ」は、それが取られた塵に返ります。しかし、いつまでもそうではありません。私たちのからだもよみがえるのです。それは、イエスがもう一度来られる日に起こります。コリント第一15:51-52にこうあります。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」ラザロの場合は、生き返っただけで、やがて、また亡くなりました。しかし、イエスが再び来られるときには、私たちのからだは土の塵となっていても、完全な、栄光のからだとなります。もう死ぬことのないものとなってよみがえるのです。ちょうど、イエスがよみがえられたのと同じようになるのです。

 どのようにしてそれが起こるのか、詳しいことは、私たちに分かりません。しかし、私たちの復活は、イエスが復活されたことによって、約束され保証されています。やがて、私たちもまた、「ラザロよ、出て来なさい」との声を聞きます。よみがえって、主のもとに集められ、永遠に主とともに生きるのです。イエスの復活を祝うこのシーズンに、私たち自身の復活にも思いを馳せ、その希望に生かされ、歩みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエスをよみがえらせることによって、罪の中に死んでいた私たちをも霊的によみがえらせてくださいました。また、地上での生涯の間、イエスがくださる豊かな命を体験できるようにしてくださいました。そればかりでなく、イエスが再び来られるとき、「身体(からだ)のよみがえり」をいただく者としてくださいました。私たちをこれらの恵みにあずかる者とし、その希望に生きる者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/7/2024