11:32 マリアはイエスがおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、
11:34 「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
聖書は、もともと章や節に区分されていませんでした。それでは不便なので、後になって章や節に区分されました。その中で、一番短い節が、ヨハネ11:35です。英語では "Jesus wept." ですから、たった2つの単語しか使われていません。それなのに、ここは、独立した一つの節に区分されています。それは、この短い言葉に深い意味が含まれているからです。
一、涙される神
「イエスは涙を流された。」この言葉を読んで「イエスは神であり、救い主であるのに、人間と同じように涙を流す、泣くというのは、おかしい」と考える人もいるかもしれません。確かに、神は、私たちと違って、泣いたりわめいたり、あたりかまわず怒りちらしたりなさるお方ではなく、いつ、どんな場合でも、冷静、沈着にものごとを判断し、対処なさるお方です。しかし、神を、どんな感情もお持ちにならない方ではありません。聖書は、神が豊かな感情を持っておられる方であることを教えています。
イエスは、いなくなった羊のたとえ話で、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」(ルカ15:7)と言われました。天で、神が大喜びをしておられるというのです。放蕩息子の父親は、いなくなっていた息子が帰ってきたとき、自分のほうから息子に走りより、ハグし、キスし、家に迎え入れ、息子が帰ってきたことを喜んで宴会を始めたとあります。放蕩息子の父親は、父なる神をたとえています。神は私たちの悔い改めを大いに喜んでくださるのです。
神は、私たちが神に立ち返り、従うなら、それを大喜びしてくださいますが、もし、神から離れ、逆らうなら、それをとても悲しまれます。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません」とあります。クリスチャンが罪を犯す時、クリスチャンのうちに宿っていてくださる神、聖霊はそれを悲しまれるのです。神は、このように喜んだり、悲しんだりされる、感情をお持ちの方です。
神がこのように喜んだり悲しんだりしておられる箇所を読んで、「聖書は神を人間になぞらえて描いている。これは神を擬人化しているのだ」と言う人がいますが、そうではありません。神が人間に似ているのではなく、人間が神に似ているのです。人間に「喜怒哀楽」の感情があるのは、神が「喜怒哀楽」の感情をお持ちだからです。私たちは「神のかたち」に、「神に似せて」つくられました。神が知性を持ち、感情を持ち、意志をもったお方であるように、人間も、神のように完全ではありませんが、知性を持ち、感情を持ち、意志を持つ人格とされたのです。私たちに感情があるのなら、神にはもっと豊かな感情があるのは当然です。
イエスは、父なる神に祈る時、多くの場合、「喜び」にあふれて祈りました。イエスは、神の宮を商売の家にしているのを見て「怒り」、両替の台をひっくり返し、縄で鞭をつくって、商売人を追い出しました。また、イエスは、大勢の病人を見て、彼らを「深くあわれんで」、ひとりひとりに手を置いて癒やしを与えました。イエスは哀れみに満ちたお方です。さらに、イエスは、悔い改めた人々と食事をいっしょにして「楽しんで」おられます。イエスは「喜怒哀楽」に豊かなお方です。
イエスは、神の御子として、神がどのようなお方であるかを示すとともに、人間のあるべき姿を示してくださったお方です。人間らしさとは、泣いたり、笑ったり、あるいは怒ったりすることの中にあるのだと、イエスは身をもって教えておられるのだと思います。
多くの問題は、私たちの感情に深く根ざしています。人生の問題は、理屈だけで解決できるものではありません。理屈の上で納得したとしても、理論どおりに生きられる人など誰もいません。私たちが自分を愛せなかったり、人を愛せなかったりするのは、感情の癒やしや解放がないためであることが多いのです。そのため、せっかく与えられた良いものをマイナスに作用させたり、頭では分かっていても、それとは逆のことをしてしまうようになるのです。私たちは、イエス・キリストを信じることによって真理を知り、それによって知性を明らかにされるのですが、それとともに、イエス・キリストとの交わりによって、感情の面での癒やしも受ける必要があります。感情のいやしは、私たちが人生の問題を乗り越えていくための鍵となります。神は感情豊かなお方です。この神と交わることによって、私たちの感情も解放され、豊かなものにされていくのです。そのことをイエスの涙から学ぶことができると思います。
二、共に涙される神
イエスが涙されたのは、イエスが親しくしていたラザロが死に、その墓に向かわれる時でした。ラザロにはふたりの姉妹がいました。マルタとマリアです。イエスはまず、出迎えにきたマルタに会いました。その時家にいたマリアは、マルタから、イエスが来られたことを聞いて、イエスのもとにやってきました。マルタはすこしは冷静にイエスとやりとりができましたが、マリアは、イエスを見ると、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って、その場に泣き崩れるばかりでした。マリアが泣き、他の人々も泣いているのを見て、イエスは「涙を流され」ました。「もらい泣き」という言葉がありますが、イエスは、この時、人々の悲しみに心から同情し、人々と一緒に同情の涙を流されました。
人は多くの悲しみを経験しますが、皆さんがそのような悲しみの中でいちばん支えになったのは、何だったでしょうか。その悲しみを一緒に悲しんでくれた人々がいたことだったと思います。こんな話を聞きました。ある人がご主人を事故で亡くしました。親しい人がやってきて、いろいろと慰め、また、「つらいこともあれば、いいこともありますよ」、「わたしの場合はこうやって悲しみを乗り越えることができました」と言って助言もしてくれました。けれども、その時の彼女には、そうした言葉は少しも心に残らなかったばかりか、かえって苦痛でした。そんなとき、近所の果物屋さんが、かごに果物を入れ、「奥さん、これ」とだけ言って、それを置いて帰りました。彼女は、言葉はなくても、心からの同情、共感を示してくれたその人に、一番慰められたと話していました。
チェスや将棋、囲碁などで、コンピュータと人間とが対戦することがあります。あるとき、接戦のすえ、コンピュータに勝ったインドのチェスのチャンピオンがこう言いました。「最後は、周りの人たちが大勢でぼくを応援してくれた。だが、対戦したコンピュータに声援を送るコンピュータはなかった。」ここに、人間と機械の違いがあります。機械には、互いに励まし合うことがありません。しかし、人間は、悲しみの時に慰め合い、苦しみの時に励まし合うのです。私たちのまわりに、そのように励ましを与え、共鳴してくれる人々がいることは本当にありがたいことです。けれども、誰よりも、イエス・キリストが、私の悲しみを悲しみとしてくださること以上に心強いことはありません。「イエスは涙を流された。」この言葉は、いろんなことで涙を流す私たちに、安心を与えてくれます。私たちも、マリアのように、イエスの前で思いっきり泣いていいのだという気持ちになれます。イエスが、私たちの涙の意味を知っていてくださる、それは、大きな慰め、励ましです。
三、涙の意味
イエスは私たちと共に涙を流してくださいました。しかし、それが、イエスが涙を流された理由のすべてではありません。「同情者イエス」しか語らないなら、それは本当の福音ではありません。イエスはそれ以上のお方です。イエスの涙には、私たちが流す涙がとうてい及ばない、もっと深い意味があります。
ナインの町で、ご主人に先立たれ、一人息子も亡くし、息子の棺(ひつぎ)のそばで泣いていた母親に、イエスは、「泣かなくてもよい」と言って、息子を生き返らせました(ルカ7:11-17)。また、会堂司ヤイロの一人娘が亡くなったときも、「泣かなくてよい」とおっしゃって、少女を生き返らせておられます(ルカ8:41-56)。ところが、ラザロを生き返らせる時には、イエスは涙を流しておられます。娘が死んだことを聞いて動揺しているヤイロに、イエスは「恐れないで、ただ信じなさい」と言われたのに、この時には、「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」おられます。イエスは弟子たちに「あなたがたは心を騒がせてはなりません」(ヨハネ14:1)と言われたのに、ご自身が心を騒がせ、激しい感情の起伏を体験しておられるのです。それは、なぜでしょうか。
このイエスの涙と嘆きの意味を知るには、ゲツセマネでのイエスの姿を思い浮かべる必要があります。十字架にかかられる前、イエスはゲスセマネの園で祈りました。「ゲツセマネ」という名前には「油絞り」という意味があります。そこはオリーブ畑で、オリーブ油を絞るところでした。イエスは、そこで、オリーブが砕かれるように、ご自分の心を砕き、オリーブが油をしたたらせるように、その額から血の汗を流して祈られました。イエスはその時、悲しみもだえ、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とさえ言われました(マタイ26:37-38)。死を見るはずのない神の御子が、これから死を味あおうとしておられる、罪も汚れも知らないお方が、十字架の上で罪人となって神から見放されようとしている。人間の罪と、その結果である死と刑罰は、神の御子をそれほどに苦しめるものだったのです。神からまったく離れてしまった人間は、自分の罪がどんなに重く、大きいかさえも気に留めず、そのことに嘆こうともせず、神の正義の審判を恐れなくなってしまっています。イエスは、そのような人間の罪と、神への叛逆、また不信仰のいっさいを引き受け、ゲツセマネで苦しみ、十字架で死なれたのです。イエスのこの苦しみは、私たちに代わっての苦しみ、私たちのための苦しみでした。私たちが苦しまなければならない苦しみを、イエスは、私たちに代わって苦しまれたのです。
ラザロの死とよみがえりは、イエスがエルサレムで最後の一週間を過ごす過越の祭が目前に近づいている時のことでした。イエスはその生涯のすべてをもって私たちのための苦しみを背負ってくださいましたが、十字架はその頂点でした。その十字架が間近に迫ったこの時、イエスはラザロの死の中に、ご自分の死を重ね合わせてご覧になったのです。人間の罪と、罪がもたらす死の現実に対して「霊の憤り」を感じ、人間の罪を背負って死を味わうという、今だかってなかった大きな犠牲の死を遂げることを思って、イエスは「心を騒がせ」たのです。ヘブル5:7-9に「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、…」(ヘブル5:7-9)とあります。イエスの流された涙は、決して、ご自分をあわれんでの涙ではありませんでした。それは、私たちのための涙、私たちの救いのための涙でした。「イエスは涙を流された。」私たちの救いのために流された涙と、その後に流された尊い贖いの血潮を無駄にすることのないように、イエスのお苦しみが私の救いのためであったと信じ、その救いを受け入れ、そこに堅く立つ、私たちでありたいと願います。
(祈り)
父なる神さま、イエスは私たちへのあわれみのゆえに、私たちの救いのために涙を流されました。それによって、私たちは、世にあって涙を流すときも、励ましを得、永遠の御国で、あなたにその涙をぬぐっていただけます。この受難の週、イエスのお苦しみによって与えられた私たちの救いを深く感謝し、そこに憩うことができますよう導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/24/2024