わたしは、よみがえり

ヨハネ11:21-27

オーディオファイルを再生できません
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

 イエスは、ヨハネの福音書で、7回、「わたしは…です」と言われました。「わたしはいのちのパンです。」(6:48)「わたしは、世の光です。」(8:12)「わたしは門です。」(10:9)「わたしは良い牧者です。」(10:14)「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(11:25)「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)そして、「わたしはまことのぶどうの木…です。」(15:1)きょうは、そのうちの「わたしは、よみがえりです。いのちです」というイエスの言葉についてお話しします。

 一、イエスの涙

 イエスがこの言葉を語ったのは、ラザロが亡くなったときでした。ラザロはマルタとマリヤの兄弟です。ベタニアにあったラザロの家は、イエスと弟子たちがユダヤにきたときには必ず泊る場所で、ラザロは兄弟三人でイエスの働きをサポートしていました。イエスはラザロを「友」と呼ぶほどに(ヨハネ11:11)、ラザロと深い心のつながりを持っていました。ですから、ラザロの死は、イエスにとって、特別なものでした。それでイエスは、ヨハネ11:35に「イエスは涙を流された」とある通り、ラザロの死をいたんで涙を流されました。ここは英語では “Jesus wept.” と、二つの単語だけしか使われていません。聖書で一番短い節です。しかし、この言葉はじつに、多くのことを語っています。

 「イエスは涙を流された。」この言葉を読んで「イエスは神であり、救い主であるのに、人間と同じように涙を流す、泣くというのは、おかしいのではないか」と考える人がいるかもしれません。確かに、神は、私たちと違って、泣いたりわめいたり、あたりかまわず怒りちらしたりなさるお方ではなく、いつ、どんな場合でも、冷静、沈着にものごとを判断し、対処なさるお方です。しかし、神を、どんな感情もお持ちにならない鉄のようなお方、どんなことにも気持ちを表わさない石のようなお方と考えるのは間違っています。聖書を読むと、神がどんなに感情豊かなお方であるかが分かります。

 ルカ15章のたとえ話では、羊を見つけた羊飼いも、銀貨を見つけた女性も、帰ってきた息子を迎えた父親も、大喜びして、その喜びを近所の人に知らせたり、雇い人全員といっしょに祝宴を開いたりしています。これは、神が私たちの悔い改めをどんなに喜んでくださるかを教えています。また、聖書は、もし人が悔い改めなければ、神がどんなに悲しまれるかということも教えています。神ご自身が人の罪のために涙を流されます。「それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。」(イザヤ16:9)イエスは、エルサレムのために嘆きました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(ルカ13:34)また、聖霊も、私たちのために悲しむのです。「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)とある通りです。ちょうど親が子どものことで喜んだり、悲しんだりするように、たましいの親である神は、人を愛して、人の心の状態や行いに一喜一憂されるのです。

 イエスがベタニヤに来られたとき、最初にイエスを迎えたのはマルタでした。それからマリヤがやって来ました。マルタはそんなにとりみだしはしませんでしたが、マリヤはイエスの前に来て、ただ泣くばかりでした。マリヤと一緒に来た村人たちも同じでした。イエスは、そんな人々の悲しみを見て涙されました。イエスは、人々の悲しみを自分の悲しみとして、涙を流されたのです。

 皆さんの多くは、それぞれに愛する人を亡くした経験があると思います。そのような悲しみの中でいちばん支えになったのは何だったでしょうか。あなたの悲しみをいっしょに悲しんでくれた人々がいたことだと思います。「つらいこともあれば、いいこともありますよ」「わたしの場合はこうやって悲しみを乗り越えました」など、人は親切のつもりで、そう言うのですが、悲しみの中にある人には、そうした言葉が教訓めいたものや、押し付けがましいものに聞こえてしまうことがあります。悲しむ人は、ただ側にいていっしょに悲しんでくれることを願い、自分といっしょに共感してくれる人を求めているのです。

 チェスや将棋、また囲碁で、コンピュータと人間が対戦することがあります。あるとき、コンピュータと対決して勝ったチェスのチャンピオンがこう言いました。「難しい対戦だったけど、最後は、周りの人たちが大勢でぼくを応援してくれた。だが、対戦したコンピュータに声援を送るコンピュータはなかった。」ここに、人間と機械の違いがあります。機械は、互いに励まし合うことができないのです。共感がないのです。しかし、人間は、悲しみの時に慰め合い、苦しみの時に励まし合うことができ、うれしいときに一緒に喜ぶことができます。そして、その「共感」が力になるのです。もし、人間にそれが無くなったら、人間はコンピュータ以下になってしまうでしょう。神はコンピュータのようなお方ではありません。イエスが人々の悲しみに共鳴して涙してくださったように、私たちと共に涙を流してくださるお方です。このことは、いろんなことで涙を流す私たちに、神の前で泣いていいのだという安心感を与えてくれます。

 二、イエスの死

 イエスは私たちの悲しみに共感して涙を流してくださいました。しかし、それが、イエスが涙を流された理由のすべてではありません。イエスの涙には、私たちが流す涙がとうてい及ばない、もっと深い意味があります。イエスがラザロの墓に来たのはラザロを生き返らせるためでした。ナインという町のやもめのひとり息子が亡くなったとき、イエスは母親に「泣かなくてもよい」と言って息子を生き返らせました(ルカ7:11-17)。会堂司ヤイロの娘が亡くなったときも、嘆き悲しんでいる人々に「泣かなくてもよい」と言って、娘を生き返らせています(ルカ8:41-56)。ところが、ラザロを生き返らせる時には、イエスは、人々に「泣かなくてもよい」とは言われず、人々と一緒に泣いているのです。なぜでしょうか。

 このイエスの涙と嘆きの意味を知るには、ゲツセマネでのイエスの姿を思い浮かべる必要があるでしょう。十字架にかかられる前、イエスはゲツセマネの園で額から血の汗が流れ出るほどに悲しみもだえて祈り、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました(マタイ26:37-38)。死を見るはずのない神の御子が、これから死を味おうとしておられる。罪も汚れも知らないお方が、十字架の上で罪人となって神から見放されようとしている。人間の罪と、その結果である死と刑罰は、神の御子をそれほどに苦しめるものだったのです。神からまったく離れてしまった人間は、自分の罪のがどんなに重く、大きいかさえも気に留めず、そのことに嘆こうともせず、神の正義の審判を恐れなくなっていますが、イエスは、そのような人間の罪と、神への叛逆、また不信仰の一切を引き受け、ゲツセマネで苦しみ、十字架で死なれたのです。イエスのこの苦しみは、私たちのための苦しみでした。私たちが苦しまなければならない苦しみを、イエスは、私たちに代わって苦しんでくださったのです。そして、その苦しみなしには、あとに続く復活はなかったのです。

 ラザロが亡くなったのは、十字架が間近に迫った時であり、ラザロの死と葬りはイエスの死と葬りを示すものでした。イエスはラザロの墓に向かうとき、ご自分もまた、十字架の苦しみと死を通り、墓に葬られることを全身で感じ取ったのです。ラザロの死の中に、ご自分の死を重ね合わせて見たのです。人間の罪と、罪がもたらす死の現実を思い、それに対して涙したのです。イエスの涙、それは、イエスが私たちを救うため背負ってくださった苦しみを言い表しています。イエスは、私たちの悲しみをともにしてくださるだけでなく、その悲しみの元になっている罪を解決してくださるお方です。だからこそ、イエスは私たちの涙をぬぐうことができるのです。イエスを信じて救われましょう。イエスが私たちのために受けてくださった十字架の苦しみ、私たちのために流してくださった涙を、私たちは無駄にしてはならないのです。

 三、イエスへの信仰

 ラザロの墓に着いたとき、イエスは墓を塞いでいる石を取り除けさせ(39節)、「ラザロよ。出て来なさい」と命じました(43節)。すると、死んで四日も経っていたラザロが生き返って墓から出てきました。

 イエスは、ラザロを生き返らせる前に、マルタに言われました。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23節)すると、マルタは、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております」(24節)と答えました。話がかみ合っていません。イエスは、ラザロが今、生き返ると言っているのに、マルタは、それを遠い将来に実現することと考えていました。マルタは「終わりの日のよみがえり」を信じていました。しかし、イエスご自身が死からよみがえるお方であり、また、人々をよみがえらせるお方であることを、まだ知らないでいました。彼女は「よみがえり」を信じていましたが、その「よみがえり」を実現するお方が、今、目の前にいるイエスであることが分かっていなかったのです。信仰には、歴史上の事実や、確かな真理、間違いのない教えを信じるという面と、歴史の中に働き、ご自分を現してくださっている神ご自身を受け入れ、神に信頼するという面があります。マルタは、イエスの教えを知り、理解していましたが、彼女には一歩進んで、イエスご自身を受け入れ、信頼する信仰が必要だったのです。

 それで、イエスはマルタに「わたしは、よみがえりです。いのちです」(25節)と言われました。この言葉は、他の「わたしは…である」という言葉と同じように、「わたし」という言葉が強調されています。続く言葉、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(26節)でも、「わたし」という言葉が強調されており、これは、イエスを信じる者に、今、この世で永遠のいのちが与えられることを言っています。

 イエスはラザロを生き返らせ、ご自分が復活することによって、「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われたことが、そのとおりであり、イエスが生ける神の御子キリスト、永遠のいのちの与え主であることを実証しました。イエスがマルタに「このことを信じますか」と問われたのは、ご自分の復活以前でしたが、マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と答え、イエスご自身への信仰を言い表しています。マルタがそう答えることができたなら、イエスの復活の後に生きる私たちは、マルタ以上に、もっと確かに、「はい。主よ。私は、あなたがよみがえりであり、いのちであることを信じます」と答えることができるはずです。

 復活の力なしに、私たちは、新しい人生を歩むことはできません。私たちの救いと、力づよい人生が「わたしはよみがえり、わたしはいのち」と言われるイエスにあることを知り、信じて、この週も、確かな一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、日曜日、イエスの復活の日に、イエスが私たちの涙を拭い、私たちを悲しみ、痛み、苦しみから回復させてくださる「よみがえり」の主であり、私たちを生かす「いのち」の主であることを確認することができ、感謝します。さまざまな悲しみや困難に出会うとき、イエス・キリストが「わたしの」よみがえりであり、「わたしの」いのちであることを覚え、主イエスから癒やしと力を受けることができるよう、導き助けてください。あなたの御子、私たちの救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/27/2020