10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10:10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
聖書は、神と人との関係をさまざまに描いています。どんなふうに描いているでしょうか。みなさんは何をまず思い浮かべますか。おそらくは、神が「父」で、私たちがその「子ども」だということではないでしょうか。教会でいつも祈る「主の祈り」でも、神を「天にいらっしゃる私たちのお父様」と呼びました。神は、神にさからっている人々に対しても、「背信の子らよ。帰れ。」(エレミヤ3:14)と呼びかけています。聖書はまた、神が「夫」で私たちがその「妻」であると言っています。「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。」(イザヤ54:5)とあります。聖書は、父と子、夫と妻という家族の関係を使って、神と人間との深いかかわりを示し、神がどんなにか私たちを愛してくださっているかを教えようとしています。
しかし、神と人間との関係を表わしている表現で、人々が一番親しみを感じていたのは、神が「羊飼い」で私たちがが「羊」であるという表現でした。ユダヤの人たちはもともと羊を飼う人々でしたから、神が羊飼いで、人間が羊であると聞けば、そこから神と人間との関係を身近かに感じることができたのえす。それでイエスも、ご自分を「羊飼い」、イエスを信じイエスに従う人々を「羊」と呼び、人々に一番身近な関係からイエスとイエスを信じる者たちの関係を教えようとされたのです。
しかし、羊の群れを身近に見ることのできない私たちには、羊飼いと羊の関係がどんなものかを知るには少し、説明が必要だと思います。イエスの時代、羊がどのように飼われていたかに触れながら、この箇所を学ぶことにしましょう。
一、羊飼いは羊を知っている
まず、第一にイエスは、「羊飼いは羊を知っている」と言いました。羊飼いは、羊が百匹近くいても、羊の一匹一匹に名前をつけてその名を呼ぶのだそうです。動物園や牧場で羊を見た人も多いと思いますが、私たちが見ると、どの羊もみな同じに見えますね。しかし、羊の世話をしている羊飼いは、一匹一匹の特徴を良く知っています。たとえば、この羊は耳に斑点がある、この羊は足の先が黒い、この羊は歩くのが遅い、鳴く声が甲高いなどということを、ちゃんと知っています。そして、斑点のある羊には「斑点くん」、足の先の黒い羊には「足黒ちゃん」、歩くのが遅い羊には「のろまくん」、鳴き声の甲高い羊には「甲高ちゃん」というように、一匹一匹に名前をつけるのです。
イエスの時代のユダヤでは、羊飼いたちが何人かで一つの羊の囲いをいっしょに使っていました。その囲いは、獣や強盗に襲われないように石垣で囲まれており、頑丈な扉がついていました。朝、羊飼いはこの囲いにやってきます。すると、羊飼いを良く知っている門番は、羊飼いのために扉を開けます。羊飼いはその中に入って「斑点くん」、「足黒ちゃん」、「のろまくん」、「甲高ちゃん」と呼ぶと、羊は羊飼いのところに集まってきます。羊飼いは羊を良く知っていますが、羊も羊飼いの声をよく知っていて、自分の羊飼いにだけついて行き、他の羊飼いのところには行きません。3節に「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」とあるのは、そのような状況を描いています。
イエスは「わたしは羊飼いです。」と言われました。羊飼いが羊の名前を一匹一匹知っているように、イエスは私たちひとりひとりの名前を知っておられます。アフリカの奥地のある部族では、数字が1から12までしかなく、それ以上数える時は、「ひとつ、ふたつ、みっつ、…じゅういち、じゅうに、たくさん」と言うのだそうですが、イエスが、私たちをごらんになる時は、世界に何十億の人がいようと、「ひとり、ふたり、さんにん、…その他、大勢」とはおっしゃらないのです。イエスは私やあなたのすべてを知っていてくださり、その名前で呼んでくださいます。人はみな同じように生きているように見えますが、実際は、それぞれに違っています。私たちが誰かに自分の悩み事を相談した時、「あなたの抱えている問題は、誰しも持っている問題ですよ。」と言われることがあります。そう言われて、『悩んでいるのは私ひとりではないのだ。』と励まされることもあれば、『私の問題は、他の人とは違うのだ。いっしょにされてたまるものか。』と、がっかりすることもあります。確かに問題は一般的なことでも、それと取り組んでいる状況は、ひとりびとり違うわけですから、問題を一般化されても、解決にはならないことがあります。しかし、イエスは、人それぞれに違う痛みや悩み、課題や戦いを、細部にいたるまで知っていてくださいます。自分も気づいていないことまでも、イエスは知っていてくださり、ひとりびとりに個人的に語りかけ、導き、助けてくださるのです。イエスは、私たちひとりひとりに目をかけ、声をかけ、手をかけてくださいます。このイエスに「主は私の羊飼い」と言うことができる人はさいわいです。
羊飼いであるイエスがそのように羊である私たちを知っていてくださるのだとしたら、私たちも、もっとイエスのことを知りたいと思うようになりませんか。羊が羊飼いの呼びかけを毎日聞いていると、そのうち、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いが何を言おうとしているかさえ分かるようになって来ます。そのように、私たちも、聖書のことばによって、また、祈りによって、イエスの声をたえず聞きつづけ、どれが私たちのたましいの羊飼いの声で、どれが盗人や強盗の声かを聞き分けることができるようになれるのです。イエスの声を聞き分け、その声に従う私たちでありたく思います。
二、羊飼いは羊を導く
第二に、イエスは「羊飼いは羊を導く」と言いました。4節に「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。」とあります。羊飼いは群れの先頭に立ち、羊を導くのです。羊飼いは、羊の群れの先頭を歩き、その道が安全かどうかを確かめます。羊はあまり賢い動物ではありませんので、どこに行けば牧草にありつけるのか、どこに行けば水が飲めるのか知りません。羊は、また、遠くまで見ることができませんし、自分たちを襲ってくる獣の気配を敏感に感じることができません。ですから、羊飼いは羊の先頭に立って羊を導かなければならないのです。羊もまた羊飼いに従っていかないと、食べ物を得られないばかりか、危険を避けることができずに、道に迷って命を落とすことにもなりかねないのです。
私たちの羊飼いであるイエスも、常に私たちの先頭を歩いてくださり、私たちを導いてくださいます。私たちは、きのうを変えることができず、明日のことが分かりません。そのために過去を悔やみ、将来に不安になります。主は、そんな私たちのために、私たちの人生を前に立って導いてくださいます。イエスは、神の子でありながら、私たちと少しもかわらない人生を、いいえ、私たちよりももっと過酷な人生を歩みました。幼くしていのちを狙われ、難民となって外国に暮らし、「田舎育ち」と軽蔑され、経済的な苦しみを知り、長男として父親亡き後の家族をささえる重圧などを体験してこられました。神の子だからといって、どんな試みにもあわなかったのではありません。むしろイエスは神の子であるゆえに、サタンからも人々からも激しい攻撃にあい、憎しみの対象となったのです。しかし、それらはすべて、私たちの助け主、救い主となるためでした。ヘブル人への手紙に「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)とあるとおりです。
イエスは、私たちが人生で通るかもしれないさまざまな苦しみに、先頭をきって歩いてくださいました。イエスはまごころを込めて語りましたが、人々はそれを聞きませんでした。イエスはそのきわみまで弟子たちを愛しましたが、弟子たちはイエスを裏切りました。罪のないきよい生活を送りましたが、その報いは残酷な十字架の死でした。私たちの人生にも、イエスほどではありませんが、そんな苦しみを味あわなければならないことがあります。しかし、そのような時こそ、イエスが私たちの行くべき道を先に歩いていてくださるということを心に留めましょう。イエスは私たちに語ってくださいます。「わたしについてくれば大丈夫。あなたが歩こうとしているこの道は、わたしがすでに歩いた道。わたしはそれを良く知っているのだから。」
私たちが人生の最後に迎える「死」も、イエスはすでに通っていかれました。私たちの先にそこを通り、天国への道を開いてくださったのです。ですから、私たちも、詩篇23篇にあるように、「主は私の羊飼い。…たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」と言うことができるのです。羊飼いであるイエスに従いましょう。
三、羊飼いは羊を守る
イエスは、第三に、「羊飼いは羊を守る」と言いました。9節でイエスは「わたしは門です。」と言っています。これは、羊のかこいの門のことです。最初に話しましたように、ユダヤでは、羊を囲う石垣が、町のあちらこちらにあって、その囲いには頑丈な門がついていました。しかし、町から遠く離れた囲いには、門がありません。羊飼いは、町から遠く離れて羊を連れ出した時には、羊といっしょに野宿をするのですが、その時、羊飼い自身が囲いの出入り口に陣取って、羊を奪うものが来ないように見張りをするのです。門のない囲いでは、羊飼い自身が門になるのです。
イエスが「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」と言われたのは、そんな意味だったのです。イエスを通って囲いの中に入るとき、私たちは、そこに本当の平安を見つけることができます。そこにたましいの安らぎがあります。現代社会は競争につぐ競争で、他の人よりももっと成果をあげ、成績をあげ、多くのものを手に入れるよう要求します。ここ、シリコンバレーでは特にそうで、人々はラットレースに乗せられ、労働の結果である報酬は得られても、働く喜びを失いかけています。イエスは次の10節で「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。」と言っていますが、この「盗人」というのは、現代では、モノやカネだけの世界に、私たちを引き込もうとする力のことをいうのかもしれません。多くの人がそうしたものに誘われ、イエスの囲いのところに来ようとはせず、最後には、そのたましいが飢え、渇き、疲れ果ててしまうのです。実際、自分も幸せになり、家族も幸せにしようと、肉体的にも精神的にも過酷な労働を続け、そのために、精神を病んで廃人のようになったり、突然、倒れていのちを落とすというなことを少なからず見聞きします。しかし、イエスを通って、神の囲いの中に入るなら、私たちはそこに休みを得ることができ、豊かないのちを味わうことができるのです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」「イエスを通る」とは、イエスを「私の羊飼い」として受け入れることを意味します。あなたは、もうそのことをなさったでしょうか。
11節でイエスはさらにこう言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ユダヤには、羊を守るために命がけで野獣や強盗と戦った人がいました。そのために死んだ人もいたそうです。本物の羊飼いは、報酬のためにではなく、羊をかわいがり、羊を守ることを使命として働くのです。本物の羊飼いは、羊を守るために命をかけますが、雇われ者は、身の危険を感じると、羊をおいてさっさと逃げ出してしまいます。「盗人」、「強盗」、「雇われ者」などの言葉は、ユダヤの指導者たちを批判した言葉です。ユダヤでは、政治や宗教の指導者は「羊飼い」と呼ばれました。しかし、イエスの目から見れば彼らは本物の「羊飼い」ではなく、羊を食い物にする「盗人」、「強盗」のたぐい、良くても、無責任な「雇われ者」にすぎないというのです。とても厳しい評価ですが、イエスには、そのような厳しい評価をくだす資格がありました。なぜなら、イエスは、羊のために本当に命を捨られたからです。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」このことばは、イエスの十字架を預言している言葉です。罪のないイエスは、私たちの罪がゆるされるために、十字架で私たちの罪を背負ってくださいました。永遠不滅の神の子が、私たちにいのちを与えるため、そこで死んでくださったのです。イエスは、私たちのための身代わりの死によって、私たちを救ってくださいました。私たちは、イエスのこの犠牲によって救われているのです。
イエスのように、人々を心から愛して自分の身を犠牲にした人々は数多くいます。「みえますか愛」でお話ししましたジョン・ハーパー牧師がそうですし、洞爺丸で女の子に救命具をゆずった、YMCAのディーン・リーパー宣教師、また塩狩峠で暴走する客車の下敷きとなってそれを止めた長野政夫さんもそうです。私たちは、そうした話を聞くたびに感動するのですが、果たして、イエスが私のために死んでくださったことにどれほどの感動を覚えているでしょうか。人々のために命をささげた人々の多くは、イエスが自分のために死んでくださったことを、感謝と感動をもって受け止めていた人々でした。イエスの愛が彼らを動かしたのです。私たちは、そのような大きなことはできなくても、イエスのしてくださったことにどのように答えることができるかを真剣に考え、小さな犠牲であっても、それを喜びとしていきたく思います。イエスが私たちのためにしてくださったことをもう一度こころに刻み、イエスが私の羊飼いであることを深く感謝しましょう。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23篇)
(祈り)
父なる神さま、私たちは、人生に迷いやすく、誘惑や試練に無防備な羊のようです。羊には羊飼いが必要なように、私たちにもたましいの羊飼いが必要です。あなたは、私たちの必要のすべてを知り、イエスを私たちの羊飼いとして与えてくださいました。心から感謝します。羊が羊飼いに従うように、私たちも、羊飼いであるイエスに従う者としてください。私たちの大牧者、イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/13/2002