神によって生まれる

ヨハネ1:9-13

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1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 一、退けられた救い主

 "Joy to the world!" との賛美があるように、クリスマスは喜びのときです。御使いは、ナザレの村にいた母マリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(ルカ1:27)と告げました。この「おめでとう」は、直訳すれば「喜べ」です。また、ベツレヘムにいた羊飼いたちには「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」(ルカ2:10)と言っています。博士たちは、東方で見た星がイエスのおられるところに留まったとき、「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(マタイ2:10)と聖書は書いています。クリスマスは、救い主イエスをお迎えして、大いに喜ぶ日です。

 ところが、最初のクリスマスには、人々は救い主の誕生を知らず、イエスは、人々に迎えられませんでした。ベツレヘムでは、宿屋に部屋がなく、イエスは家畜小屋でお生まれになりました。おびただしい数の天の軍勢が「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」(ルカ2:14)と賛美したのに、救い主誕生の知らせを聞いてイエスを礼拝したのは、羊飼いたちだけでした。東方の博士たちがわざわざ救い主を礼拝するために来たのに、ユダヤの人々は、誰一人、イエスのところに行きませんでした。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」(ヨハネ1:10-11)とある通りでした。

 10節に、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」とある「世」は、異邦人を指しています。11節の「ご自分の民」は、ユダヤの人々のことです。まことの神を知らず、救いの約束を持たなかった人々が、救い主の誕生を知らずにいたのは、まだしも、何世代にもわたって救い主が来られることを預言されていたユダヤの人々が、その預言に聞かず、救い主を受け入れなかったとは、なんとも悲しいことです。

 「ことば」であるお方が私たちにまことの神を知らせるために世に来てくださったのに、世は、このお方に耳を貸しませんでした。神の御子が「いのちの光」となって来てくださったのに、神の民は、その光に見向きもしなかったのです。このことは、イザヤ53:1-3を思い起こさせます。「私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」ヨハネの福音書は、クリスマスを描く部分で、すでに、イエス・キリストの受難を描いています。救い主イエスは、人々に斥けられたのです。

 二、受け入れられた私たち

 では、救い主を斥けたこの世にはもう救いはなく、人々はイエスに拒まれ、斥けられてしまうのでしょうか。いいえ、人はイエスを斥けても、イエスは人を斥けません。

 イエスは、大祭司によって神を冒瀆する最大級の「罪びと」とされ、ローマ総督によってローマに反逆した「犯罪人」とされました。しかし、本当に罪があったのは、救い主を十字架に追いやった人々のほうでした。そんな人々のために、イエスは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)イエスはただ一人罪の無いお方であり、人の罪を裁くことのできるお方です。そのお方が、罪びととして罰せられました。イエスは十字架の上で人の罪を背負い、罰せられ、人の罪の身代わりとなって死なれたのです。それのことによって私たちの罪を赦してくださったのです。

 イエスは人々によって傷つけられました。神であるお方が傷つき、痛めつけられるなど、ありえないことです。けれども、そのありえないことが起こりました。イエスが傷を受けたのは、私たちのあらゆる傷を癒やすためでした。イザヤ53:4-5はこう言っています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」

 神の救いの御業はなんと不思議なことでしょう。神の御子を斥け、辱め、死に追いやる。それは罪の極みですが、それが十字架です。ところが、神は、その十字架から罪の赦しを湧き出させてくださったのです。イエスが人に斥けられることによって、私たちが神に受け入れられるようになったのです。

 神の救いは、人間の思いを超えています。多くの人は、救いは、自分の心を清め、善い行いに励んで獲得するものだと考えています。とはいえ、誰も完全ではないので、悪い思いを持ったり、間違ったことをしてしまいます。それは善行によって償うと信じていますが、その善行も足らないかもしれません。それで、その「隙間」、つまり、人間の努力の足らないところを埋めてくれるものを、神に願います。多くの人は、90%は自分の努力で、10%は神の助けを受けて救われると思っています。しかし、聖書は、人間は100%罪びとであり、救いのために自分ができることは0%だと教えています。しかし、聖書は、救いは、100%神の恵みによるもの、100%の罪人を100%の恵みで受け入れてくださる。これが、神の救いです。クリスマスは、この救いを喜ぶ時なのです。

 三、神の子として生まれる

 ヨハネは「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と、悲しい出来事を告げました。しかし、続けてこう言っています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」人々は、自分たちのために来てくださった救い主を受け入れませんでした。受け入れないばかりか、嫌い、憎み、斥けました。それでも、イエスは、人々を愛し、受け入れてくださいました。この救い主の愛を知った人々は、「この方を受け入れ」、「その名を信じ」ました。「名を信じる」とは、イエスがキリスト、神の御子、救い主キリストであると信じることを意味します。

 クリスチャン・シンボルの一つに「魚」のマークがあります。「イエス」・「キリスト」、「神」、「子」、「救い主」の最初の文字5つをつなげると、「イクスース」(魚)となるからです。2世紀の教父テルトゥリアヌスがキリストを「イクスース」と呼んでいますから、このシンボルは教会の始まりからあったものです。イエスを受け入れるとは、イエスを人として尊敬し、見習い、その教えに共感するということだけではなく、「イエスはキリスト」と信じることです。使徒ペテロが「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4:12)と言ったように、イエスこそ私の罪を赦し、救ってくださるお方であると信じること、それが「その名を信じる」ことです。 

 そのようにして、イエスを受け入れた者には、「神の子どもとなる特権」が与えらえています。その特権に含まれるものの第一は、私たちが永遠の命によって、生まれ変わることです。今の自分のままでいいと思っている人は、おそらく誰もいないでしょう。誰もが良く変わりたいと願い、「できれば生まれ変わりたい」と思うことでしょう。けれども、どんなに頑張っても、自分の意志や力で、自分を生まれ変わらせることのできる人は誰もいません。私たちは誰一人、自分の意志や力で生まれてきた人はありません。英語では、「生まれる」は、"I was born" で、受け身形です。自分で生まれたのではない、神によって生んでいただいたのです。最初の誕生がそうであるなら、霊的な第二の誕生、ボーン・アゲインは、なおのことです。イエスを信じ、受け入れる者は、神によって新しい命をいただき、神の子どもとして生んでいただけるのです。

 第二は、神の子どもとして愛されることです。私たちの存在の中心、霊は生まれ変わりによって全く新しいものになりますが、この内面の変化が、物の考え方や感じ方、また、言葉や態度、行動となって外側に現れてくるのには時間が必要です。そのため、「神の子どもにされたのに、私はちっとも神の子どもらしくない」と心配することもあるでしょう。たとえ、神の子としての性質が、まだ成長していなくても、生まれ変わった瞬間から身分は神の子どもです。神の子どもであるなら、父なる神に、何の遠慮もなく近づくことができるはずです。ローマ8:15に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます」とある通りです。神が私を子どもとして愛してくださる。これ以上に素晴らしい特権はありません。

 特権の第三は、神の国を相続することです。地上にある間は、「神の国を相続する」といっても、実感が湧かないかもしれませんが、何かのことで目に見える財産や、大切なもの――愛する人や、機会や、名誉などを失ったとしても、地上のものをすべて置いていかなければならない時、つまり、世を去る時が来たとしても、「神の国を相続する」との確かな希望は、大きな慰めになるのです。

 ヨハネ1:13は、「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と言って、神の子どもされることが、人の力によって達成するものではなく、神が与えてくださる恵みであると教えています。

 「血によってでなく」とは、ユダヤ人としての血筋があろうとなかろうと、イエス・キリストを信じ、受け入れた人は、すべて神の子どもになることを意味しています。神の子とされるのに血筋は関係ありません。人を神の子どもとするのは、人の血筋でなく、イエスが十字架の上で流された罪の赦しの血なのです。あなたの祖父母、両親がクリスチャンであったら、それは素晴らしい祝福です。けれども、あなたの祖父母や両親がクリスチャンだからといって、あなたが自動的に神の子どもになるのではありません。祖父母や両親がしたように、あなたもイエス・キリストをあなたの救い主と信じ、受け入れることによって、神の子どもとされるのです。

 「肉の欲求によってでなく」とは、私たちが神の子どもになるのは、人間の努力によってではないことを教えています。「人の意欲によってでなく」とは、この救いが人間の方から願い求めて、やっと与えられたものではなく、私たちが求めも、願いもしなかった前から、神によって備えられていたものであることを意味しています。神の子どもとされるのは「特権」だと言われていますが、それは言い換えれば、まったくの恵み、無代価の賜物だということなのです。

 今朝の個所には、神に対する人間の拒否と、神の人間に対する受容が描かれていました。イエス・キリストの福音が宣べ伝えられている今、イエス・キリストを知らないでいた時代は過ぎ去りました。私たちを神の子どもとしてくださる、神の大きな愛が明らかにされた今、イエス・キリストを斥けていた日々を過去のものとしましょう。"Joy to the world! the Lord is come; Let Earth receive her King; Let every heart prepare him room." (世に喜び。主は来られた。地よ、王を迎えよ。すべての心に主のための場所を備えさせよ。)クリスマスは、喜びにあずかる日です。神の御子イエスがお生まれになったので、私たちもまた、神の子どもとして生まれることができたのです。ですから、御子の誕生と、私たちの霊的な誕生を、共に喜び、祝いましょう。喜びを失っている人に、このクリスマスに、神の愛とキリストの恵みを迎え入れ、神の子どもとされる喜びを体験するよう、イエスを証ししましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちが神の子どもとされ、あなたを「父なる神さま」と呼び、あなたに近づくことができる恵みを心から感謝します。多くの人が喜びを失っている昨今ですが、このクリスマスに、この恵みを喜び、それを多くの人と分かちあうことができるよう、私たちを導き助けてください。主イエスによって祈ります。

12/17/2023