神によって生まれる — ヨハネ1:9-13

神によって生まれる

ヨハネ1:9-13

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 九月十一日以来、アメリカも、また世界中が大変な状況に巻き込まれています。私はこの事件のことを考えている時、第二次大戦を体験してこられた方々のことを思いました。日米戦争がはじまって、日系人は強制収容所に入れられましたが、同時に多くの二世の若者がアメリカ軍人としてヨーロッパ戦線に行きました。命をかけて世界の平和のためにってこられた二世の方々が、もし、もう一度戦争の苦しみを味わうとしたら、それは本当に残酷なことだと思いました。「神さま、この人たちが元気でおられるうちは、彼らに平和を楽しまさせてください。」と思わず祈りました。第二次大戦を通ってこられたある二世の人が「わたしは長生きしすぎましたね。ひと昔前のアメリカは良かったですよ。」と話しておられました。しかし、私たちは誰も、時代を選んで生まれてくることはできません。どの時代に生まれても、その世代に戦争のない時代はないでしょう。「平和とは戦争と戦争の間のほんのわずかな期間のこと」という皮肉な定義があるように、人類の歴史はまさに戦争の歴史かもしれません。イエス・キリストによって永遠の平和がもたらされる時を本当に、心から待ち望み、今の時代の平和のため祈り続けたいと思います。

 一、世に来られたキリスト

 「古き良きアメリカ」という言葉がありますように、もっと昔に生まれていれば良かったと思われる方もあるかもしれませんが、しかし、神の救いという観点から見るなら、今の時代は素晴らしい時代であり、この時に生きていることは、大きな特権だと思います。なぜなら、今の時代ほど、福音が全世界に宣べ伝えられている時代はないからです。かっては宣教師が何ヶ月もかけて旅行しなければならなかった未開の地にも、今では数日で行くことができます。世界におよそ二千の言語があると言われていますが、そのほとんどの言葉に聖書が翻訳されています。クリスチャンのラジオ放送が全地球をカバーしており、すべての人に神のことばを聞く機会が与えられています。福音が伝えられるための物理的な壁はすべて取り除かれたのです。残されているのは、人間が作っている心の壁だけです。このようなことは、今までなかったことで、聖書に「今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント第二、六・二)と言われていることばは日々成就しているのです。

 ヨハネ一・九は、現在の恵みの時、救いの日の幕開け、新約の時代を暗示することばです。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ一・九)ここでいう「光」とはもちろん、イエス・キリストのことですね。イエス・キリストは、永遠のはじめからおられたお方で、旧約の時代も救い主であり、旧約時代にもイエス・キリストの救いの光はまったくなかったわけではありません。

 たとえば、創世記三・十五には「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」という預言があって、救い主が「女の子孫」から、つまり、私たち人類のひとりとしてお生まれになるということが約束されていました。それから何千年もたってから、神はひとりの人物アブラハムを選んで、彼に「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記十二・二〜三)と約束されました。アブラハムからおよそ千年が経って、神はダビデに「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(サムエル第二、七・十六)と、ダビデ王の子孫から救い主が生まれることを明らかにされました。救い主はアブラハムの子孫から、ダビデの血筋をひく者の中から生まれるのです。

 イエス・キリストはその預言どおりにアブラハムの子孫であるユダヤ民族の中から、ダビデ王の末裔であるマリヤから、おなじくダビデの家系につらなり、世が世であればユダヤの王となっていたかもしれないヨセフを養い親としてお生まれになりました。それで、マタイの福音書ではイエス・キリストを「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」(マタイ一・一)と呼び、その系図を示して、イエス・キリストが約束された救い主であることを証明しているのです。

 すべての人を照らすまことの光であるイエス・キリストが世においでになるまでも、人々はごくわずかな光ですが、自然が示す神の栄光、あるいは、人の心に宿る良心の光をともしびにして、歩んできました。神はユダヤの人々には律法や預言者を与え、救いを示し続けてこられました。けれどもそれら旧約時代に与えられていた光は限られた光でしかありませんでした。しかし、今は、イエス・キリストによって救いの道は、全世界のすべての人に、はっきりと見える形で、誰にも理解できるように明らかにされているのです。旧約時代には、動物の犠牲の血を祭壇に注ぎかけることによっておぼろげにしか罪の赦しを感じ取ることができませんでしたが、今は、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血により、はっきりと罪の赦しを確信することができるのです。旧約時代の人々はやがて来られる救い主を待ち望んで救われましたが、私たちはすでに来られた救い主とその救いの十字架を仰ぎ見て救われるのです。これは、今の時代に生きる私たちの大きな特権です。ヘブル人への手紙は、旧約の時代と新約の時代の違いを次のように語っています。「神は、むかし<旧約の時代>先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時<新約の時代>には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル一・一〜三)旧約の時代は、真っ暗闇の中を月の光、星の光だけをたよりに手探りで歩くようなものでしたが、新約の時代は、昼間、太陽の光の中を堂々と歩くようなものです。今は、私たちの光であるイエス・キリストはすでに私たちのところに来てくださっているのです。

 二、世から斥けられたキリスト

 「すべての人を照らすそのまことの光が…来ようとしていた。」どこに来ようとしておられたのでしょうか。この世にです。神が造られ、それを愛され、それを守り導いてこられたこの世界です。では、この世は神の御子イエス・キリストを心から待ち望んでいたのでしょうか。いいえ、この世界は、そこに住む人々は、自分たちが神に造られ、神によって生かされているのに、まことの神を退けました。しかし、人間は神を否定しては生きていけないので、まことの神にかわる偽の神々を作り、さまざまな宗教を作りあげてきたのです。

 日本にもさまざまな神々があります。「八百万(やおよろず)の神」というくらいですから、一万、二万の神々ではなく、八百万もあるのでしょう。アメリカは、日本語では米の国、「米国」と呼びますが、中国語では美しい国、「美国」と書きます。アメリカは美しい国ですが、日本もまた美しい国です。この美しい国に偶像が満ちているというのはなんとも残念なことです。数々の偶像、偽の神々を作る事は、まことの神を侮辱した行為ですが、偽の神々があるということは、とりもなおさず、本当の神がいらっしゃるということの証拠でもあるのです。真似ることのできる本物があってこそ、偽者が存在できるからです。そして、日本にこんなに数多くの偶像があるということは、それだけ、人々の心が不安で、光を持っていないということを表わしているのかもしれません。

 ヨハネ一・十に「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」というのは、日本をはじめ、まことの神から遠く離れ、神の真理の光を受け入れようとしなかった人々、特にまことの神を斥け、偶像を拝んできた「異邦人」の姿を表わしています。

 では、律法や預言の光のあったユダヤ人、まことの神を知っていた「神の民」は、イエス・キリストを受け入れたのでしょうか。いいえ、十一節には「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」とあります。「ご自分のくに」とは、イスラエルの国のことで、「ご自分の民」というのはユダヤの人々のことです。イスラエルは神に選ばれた国であり、ユダヤの人々は「神の民」でした。イエスは、ご自分の国に王としていらっしゃったのに、その国民から斥けられ、捨てられたのです。

 まるで、革命やクーデターによって斥けられた王様のようにです。王族や貴族があまりに横暴なことをして人々を苦しめたために、近代になってから、世界の多くの国々では、王様が殺害されたり、追放されたりしました。王様が、外国を旅行中、本国でクーデターが起こり、やっとの思いで国に帰ってきたのに、自分の国の人々に拒否され、処刑されてしまうということも起こりました。イエスは、ご自分の民を愛し、まずイスラエルを救うために、イスラエルの王としてご自分の国に来られたのに、人々に斥けられ、ご自分の民に捨てられ、十字架にかけられたのです。

 イエス・キリストはユダヤ人に斥けられれ、異邦人にも受け入れられませんでした。ヨハネの福音書には、その初めから、イエス・キリストの受難が描かれているのです。十一節の「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」ということばは、私たちにイザヤ書五三章を思い起こさせます。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ五三・一〜三)このように、人間は昔も今もまことの神、まことの救い主を受け入れてきませんでした。自分の救い主を拒否することは、自分の救いと祝福を拒否するのと同じなのに、残念なことに多くの人がそれに気付かないでいるのです。

 三、信じる者を受け入れるキリスト

 では、神も、キリストも、その民を、この世界に住む私たちを斥けてしまわれたのでしょうか。そうではありません。イエス・キリストは十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」イエス・キリストは人々に斥けられました。しかし、キリストは自分を斥けた人々を斥けませんでした。キリストは人々に傷つけられました。しかし、彼は、むしろ、その傷によって人々をいやしてくださいました。イザヤ五三章は続けてこう言っています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ五三・四〜五)

 イエス・キリストは、今まで光を避け、暗闇の中にいた異邦人の罪も、神の御子を斥けたユダヤ人の罪も、全世界の人々の罪を十字架の上で引き受けてくださったのです。イエス・キリストは、神の民からばかりか、父なる神からも斥けられることをいとわないで、人間のすべての罪をその身に負われたのです。イエス・キリストはご自分の死によって私たちに命を与えてくださいました。私たちは、イエスから受けた命によって神の子どもとして、生まれることができるのです。ヨハネ一・十二〜十三には、神の御子を拒否し続けてきた人々、斥けた人々さえも、神の子どもとなることができるという、驚くべき神の約束のことばが書かれています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

 「血によってでなく」というのは、ユダヤ人としての血筋があろうとなかろうと、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、人生の主として従う人はすべて、どの民族も、神の子どもになれるということを意味しています。あなたの家系がクリスチャンの家系でなくても問題はありません。あなたの家系にクリスチャンがいたから、それであなたも自動的にクリスチャンになるわけではありません。けれども、あなたのご両親や祖父母がクリスチャンであったとしたら、それは素晴らしい祝福です。その祝福をぜひ用いてください。あなたには、イエス・キリストを受け入れる準備が出来ているのです。あなたのご両親が、祖父母がしたように、あなたもイエス・キリストをあなたの救い主と信じる時、あなたも神の子ども、クリスチャンとなることができるのです。

 「肉の欲求によってでなく」というのは、私たちが神の子どもになるのは、人間の努力によってでなく、ただ神の力によって、神から生んでいただくことによってだということを意味しています。私たちが神の子どもらしくなっていくには、私たちの側の努力も、また長い年月も必要でしょうが、神の子どもという身分を与えられるためには、イエス・キリストを信じるとこと以外に私たちの側で出来ることは何もないのです。しかも、神の子の身分は、イエス・キリストを信じたその瞬間に即座に与えられ、私たちが神の子であることは、神がキリストを信じる者のうちに住まわせてくださった聖霊ご自身があかししてくださるのです。

 「人の意欲によってでなく」というのは、この救いは人間の方から願い求めて、やっと私たちに与えられたものではなく、私たちが求めも、願いもしなかった前から、神によって備えられていたものだということを意味します。私たちが神の子どもとされるのは、まったくの恵みであり、無代価の賜物であり、驚くべき特権です。私たちは創造者なる神から見れば被造物にすぎません。きよい神から見れば罪人にすぎません。そんな私たちにとって、存在を許されるだけでもすごいことであり、罪が赦され、神に受け入れられるということは、本当に感謝なことです。そしてさらに、キリストを信じる者は、神の子どもという身分も与えられ、神の愛を存分に受けることができるというのです。こんなに大きな特権はどこにもありません。

 今朝の個所には、神に対する人間の拒否と、神の人間に対する受容が描かれていました。イエス・キリストの十字架が宣べ伝えられている今は、イエス・キリストを知らないでいた時代は過ぎました。私たちを神の子どもとしてくださる、神の大きな愛が明らかにされた今、イエス・キリストを斥けていた日々を過去のものとしましょう。「今は恵みの時、今は救いの日です。」イエス・キリストを、あなたの心に、あなたの人生に受け入れ、この日から神の子どもとして歩みはじめようではありませんか。すでに神の子どもとされた者たちは、私たちを神の子どもとしてくださった神の大きな愛にとどまり、その愛にこたえようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま。今、ここに集ったおひとりびとりを、イエスはキリスト、救い主と信じる者、その名を呼び求める者、キリストを心に、その人生に受け入れる者としてください。赤ちゃんが生まれた時、産声をあげるように、神の子どもとされた者たちを信仰の告白へと導いてください。すでに神の子どもとされている人々に、御霊のあかしと確信を与え続け、あなたの愛のうちにとどまらせてください。私たちを救うただひとつの名、イエス・キリストの名で祈ります。

9/30/2001