ヨハネの証し

ヨハネ1:6-8, 15

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1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」

 一、証しの必要性

 皆さんは、ヨハネの福音書を1章1節から読んできて、読みにくいと思ったことはありませんでしたか。5節までずうっとイエス・キリストのことが言われているのに、6節から8節には、「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった」と、突然、バプテスマのヨハネのことに主題が変わっています。では、バプテスマのヨハネのことが続くのかと思うと、9節では「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と、もう一度、イエス・キリストのことに話題が戻り、14節まで続きます。15節ではバプテスマのことが書かれ、16節から18節までは再びキリストのことが語られています。ですから、6節から8節と15節を「括弧」に入れて、18節までを読み、それから、「括弧」に入れておいた6節から8節と15節を取り出し、19節につなげると読みやすいかもしれません。こんなふうになるでしょう。「神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。…ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。『「私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです」と私が言ったのは、この方のことです。』…さて、ヨハネの証しはこうである。…」

 けれども、聖書がキリストのこととバプテスマのヨハネのことを、行ったり来たりしているのには、意図があり、意味があるはずです。そのことを考えに入れて、この箇所を読むと、いくつかのことが見えてきます。第一のことは、私たちには、キリストご自身と共に、キリストについての「証し」や、キリストを「証しする人」を必要としており、神はそれを与えてくださったということです。

 イエスが世に来られる前にも、後にも、多くの人が「わたしこそキリストだ」と言ってはばかりませんでした。そう言う人の人物を見、言葉を聞き、していることに目を向ければ、キリストでも何でもないことがすぐ分かります。本当にキリストであれば、聖なる人格を持ち、真理を語り、力ある業を行うことができなくてはなりません。聖書の預言のとおり、ベツレヘムで処女から生まれ、十字架で死なれ、三日目に死人のうちよりよみがえらなければなりません。そんな人物は、歴史の中で、イエス以外にはおられません。ですから、イエスご自身が「わたしがキリストである」と言われるとき、本来は、それをサポートする証人など必要なかったのです。

 イエスは仮庵祭のとき、神殿で「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8:12)と言われました。すると、パリサイ人は、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません」(13節)と、いつものように、イエスに食ってかかりました。確かに、律法では、ものごとの真実を明らかにするためには二人の証言が必要だとあります。しかし、神の御子であるイエスには、そんなものは必要なかったのです。一体、神ご自身は人間の証言を必要とするでしょうか。人間が「神は存在する」と証明できなければ、神は存在されなくなるのでしょうか。決してそんなことはありません。

 しかし、神は、イエスを証しするために、バプテスマのヨハネを遣わされました。それは、神のためではなく、人間のためでした。私たちは、真理と偽りを見分けることができない者であり、多くの人たちは、偏見のため、イエスを正しく見ることができないでおり、また、ある人たちは、不信仰のためイエスがキリストであるとの確信を持つことができないでいます。イエスは、ご自身を証しするものとして、バプテスマのヨハネの証し、父なる神の証し、聖霊の証し、聖書の証し、また、イエスが行われた数々の奇跡などを挙げておられますが、神は、イエスを受け入れようとしない人々の固い心をご存知で、そうした人々がイエスに目を向け、心を向け、信じて受け入れることができるため、こうした証しを備えてくださったのです。ヨハネについて、「彼によってすべての人が信じるためであった」(7節)と言われているように、神が御子イエスとともに、バプテスマのヨハネを証し人として遣わしてくださったのは、私たちが信仰に導かれるためでした。なんとかして私たちを信仰に導き、ひとりでも多くを救いたいと願っておられる神の熱心な思いを、ここに見ることができます。

 二、証しの姿勢

 第二に、バプテスマのヨハネについて書かれていることは、私たちに、証しする姿勢を教えてくれます。4節と5節は「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と、「まことの光」であるイエスについて語っていますが、そのすぐあとで、ヨハネについて「彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである」(8節)と言われています。「まことの光」であるイエスと、その「光」を証しするヨハネとが対比されています。それは、バプテスマのヨハネが現れたとき、人々は、ヨハネがキリストではないだろうかと考えたからです。それに対して、ヨハネは、はっきりと、「私はキリストではありません」と言い切りました(20節)。また、イエスについて、「私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです」(15節)と言い、「その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません」(27節)とさえ言っています。バプテスマのヨハネは、民衆の中で圧倒的な人気がありましたが、決して自分を誇りませんでした。キリストの前にへりくだり、キリストに仕えました。自分ではなくキリストを指し示しました。それがキリストを証しするということです。

 私がアメリカで牧師として働きはじめた1991年、日本で、いわゆる「有名な」伝道者が、ほとんど予告なしに、「伝道集会を開いてあげる」と言って、教会に来ることになりました。日曜日にそのことを聞いて、同じ週の土曜日に、集会を開きました。それでも、結構人は集まったのですが、その伝道者が「私が来てやったのに、これだけしか人を集められなかったのか」と言ったので、とても驚き、また残念にも思いました。伝道者、説教者は、大勢の人の前で話します。それで、いつしか、どんな話をしたら人は感動するだろうかなどと、自分のパフォーマンスに心が向いてしまいます。話術の巧みな人ほど、集会の中で自分が主役になってしまうのです。しかし、それは主のしもべの姿、御言葉を語る者の姿勢ではないと思います。

 使徒パウロには、自分を誇ろうと思えば誇ることができるものがいくらでもありました。しかし、彼は、キリストに逆らい、教会を迫害してきた自分の罪深さを語りこそすれ、自分を誇るようなことは口にしませんでした。自分を「使徒と呼ばれるに値しない者」(コリント第一15:9)、「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私」(エペソ3:8)と言い、「罪人のかしら」(テモテ第一1:15)とさえ呼んでいます。そして、そんな自分を赦し、受け入れ、キリストの使徒として信任してくださった主の恵みをあがめ、証しました。パウロは言いました。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20)「私でなくキリスト。」これがキリストを証しするうえで、一番大切な姿勢です。

 三、証しの光

 最後に、バプテスマのヨハネについて、「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである」(8節)と言われていることをもう一度考えてみましょう。

 8節で「彼は光ではなかった」とありますが、では、バプテスマのヨハネは輝いていなかったのでしょうか。いいえ、ヨハネ5:35で、イエスは「ヨハネは燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました」と言っておられます。バプテスマのヨハネは、確かに暗い時代のユダヤを照らす光でした。そうなのに、「彼は光ではなかった」と言われています。このことは、バプテスマのヨハネが輝かした光がどこから来ているのかを教えてくれます。キリストだけが「まことの光」、「光よりの光」です。バプテスマのヨハネも「光」でしが、その光は彼自身のものではなく、キリストの光の反射だったのです。

 今では、町は夜も明るく、よほどの場所に行かなかいかぎり、星空を見ることができなくなりましたが、私の子どものころ、夜道は真っ暗で、おじさんの家にお使いに行ったとき、帰りがとても暗かったので、提灯を借りて帰った記憶があります。でも、満月のときはとても明るく、夜道でも大丈夫でした。創世記に「神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた」(創世記1:16)とあって、昼は太陽が、夜は月が地を照らすようにされました。けれども、月は、自分で光って、夜道を照らしているのではありません。月の光は、太陽の光の反射です。そのように、ヨハネの証しの光は、ヨハネ自身から出たものではなく、キリストから出た光だったのです。

 イエスは信仰者たちに、「あなたがたは世の光です。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と言われましたが、その光もまた、キリストの光です。イエスは「人々があなたがたの良い行いを見て…」と言われましたが、聖書は、信仰者の良い行いもまた、神が備えてくださったものだと教えています(エペソ2:10)。証しの光は、その人自身の善良さや、魅力、また能力などではありません。神がその人の内に与えてくださったキリストの光です。キリストの光でないものは、いつかしぼみ、消えてしまいます。しかし、内にキリストの光を持つ人は、誰もが、生涯を通して、どんなときも、キリストを証しすることができるのです。

 聖書は、私たちにこう言って励ましています。「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。」(ピリピ2:15-16)この御言葉を覚え、身近な人々にキリストの光を輝かせたいと思います。証し人を求めておられる神のお心を知って、何事に対しても誠実に取り組み、主の愛、恵みを、証しすることができるよう、祈り、求めたい、心からそう願います。

 (祈り)

 父なる神さま、新しい年、あなたが、私たちの証しを必要としておられること、私たちの証しの光は、イエス・キリストの光であることを教えてくださり感謝します。時代の暗さに押しつぶされたり、世の中の不正を嘆くだけで終わらず、それぞれが自分の置かれた場所で、「一隅を照らす光」となれますよう、助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/7/2024