1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人が現れた。その名はヨハネであった。
1:7 この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。
ヨハネの福音書は、マタイやルカと違った言葉でクリスマスを描いています。ヨハネ1:1-3では、イエスは「ことば」と呼ばれていましたが、きょうの箇所では「光」と呼ばれています。続く9節では、「まことの光が、世に来ようとしていた」、11節では、「この方はご自分のところに来られた」とあって、神の御子が「まことの光」として世に来られたのがクリスマスであると教えています。
5節に「光は闇の中に輝いている」とあるように、この「光」は、この世の「闇」と対比して語られています。「光と闇」はヨハネの福音書のテーマの一つで、この後も、繰り返し出てきます。その「光と闇」とは、もちろん、物理的な光や闇のことではありません。ここでの「光」は不信仰な人には見えないキリストの栄光のことであり、「闇」は肉眼では見えない霊的な暗さのことです。古代の人々は、夜は薄暗いともしびだけで夜を過ごしましたので暗闇を恐れました。現代は、野球のナイトゲームなどでスタジアムが昼間とほとんどかわらないほど明るく照らすことができるようになりました。どこの国にも、一晩中煌々と明かりがついていて、夜通しで遊び歩くことのできる繁華街があります。人々は暗闇を克服したと考え、それを恐れなくなりました。けれども、それで社会がほんとうに明るくなったわけではありません。むしろ、世の中はもっと暗くなり、人の心にはどんな電灯の明かりで照らしても消すことのできない闇が残っているのです。
―、無知の闇と真理の光
人の心にある闇、その第一は「無知の闇」です。ものごとに通じていることを「彼はそのことに明るい」と言い、ものごとを良く知らないことを「私はそのことには暗いのです」と言います。
アフガニスタンでは、30年ほど前、人口1000人あたりにつき、新聞は4部、電話は2台という状況でした。アフガニスタンは世界で一番経済成長の進んでいない国ですので、こうした状況は、今もさして変わっていないと思われます。広い世界を知らず、まことの神を知らないと、国民は一部の指導者によって簡単に操作され、間違った方向に引っ張られてしまいます。「無知」は恐ろしい闇です。
しかし、教育が普及し、新聞や書物、ラジオやテレビ、またインターネットなど、情報を得る手段がいくらでもある国々にも、神に対する無知は蔓延しています。世界中の多くの人々が、キリストについて何も知らないか、間違った情報を持っています。アメリカのように、いつでも神のことばに触れることができる国でも、大部分の人が福音に無関心であったり、それを否定したりして、霊的な暗闇の中に留まっています。聖書に、「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです」(ローマ1:21)とある通りです。どんなに多くの知識を持っていたとしても、もし、神を知らなかったら、キリストを知らなかったら、自分が何者であり、何のために、どのように生きるべきかについて答えを得ることができません。その心に光がなく、暗闇の中を歩かなければならないのです。
イエス・キリストは、この神に対する無知の闇を消し去る光です。キリストこそ実に私たちを照らす真理の光です。コリント第二4:6に、「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです」とある通りです。神が世界を造られた時、神を知る知識が世界にあふれていました。ところが、人間の罪が無知の闇を作り出しました。人々は神の存在すら認めず、神に対してまったく無知な者となってしまったのです。しかし、神が世界を造られたとき、最初に「光、あれ」と闇の中に光を輝かせてくださった神は、キリストを私たちの心の暗闇を照らす光として世に送ってくださいました。イエス・キリストは、私たちにまことの神を知らせ、霊的な闇から解放する「光」として世に来られたのです。
二、罪の闇と赦しの光
人が持っている「闇」の第二のものは「罪の闇」です。ヨハネ3:19-21にこうあります。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」人が神を認めないのは、神の存在を認めることが不合理だからではありません。神を認めないことのほうが、むしろ、理屈にあいません。神がいらっしゃることの証明はいくらでもあります。この世界のありとあらゆるもの、大宇宙から微生物にいたるまでが、神の存在を証ししています。しかし、神がおられないことを証明した人は、今まで誰もありません。キリストを信じる信仰は数々の証拠によって支えられていますが、無神論は何の根拠もなしに「神はいない」と信じ込むことで成り立っています。神を信じない人の多くは、論理的に神を否定しているのでなく、道徳的に神を否定しているのです。つまり、神がいると、自分の罪の闇が明らかにされるので、都合が悪いからなのです。
最近、脳からの信号を AI で分析して、人が頭の中で思い描いた風景や状況などを言い当てるのに成功したとの報道がありました。そんなふうにして、私たちの心の動きが瞬時に画面に映し出され、それが全世界に公表されるようになったら、どんなに恥ずかしいことでしょう。私たちは誰も罪を持っており、それが明らかにされるのを恐れています。それで、神を否定しようとするのです。
しかし、神に造られ、神に生かされている人間はどんなに神を否定しても、神から離れて生きていくことはできません。神は創造主であり、人は神に造られた存在です。誰一人、神と関わりなく生きている人はありません。私たちは、順調な時には自分の力で生きているように考えるのですが、病気になったり、仕事を失ったり、いろんな問題に巻き込まれたりするとき、人生には自分の力ではどうすることもできないものがあることに気付きます。そして、神に助けを求めようとするのですが、罪のためにきよい神のもとに近づくことができないのです。神の救いが必要なのに、神に近づくことが出来ない、このジレンマに私たちは苦しめられてきました。
そんな私たちのために、イエス・キリストは罪の闇を追い払う光となって、世に来てくださいました。私たちの罪を全部記録したフィルムがあったとしましょう。でも、それをカメラから取り出して光に当てればみんな消えてしまいます。神はそのように私たちの罪を赦し、私たちを正しいものにしてくださるのです。暗闇が光にさらされれば、それはもはや暗闇ではなく、光です。聖書にこうあります。「しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。』」(エペソ5:13-14)心の闇は、その闇の中で、どんなに格闘しても追い出せるものではありません。闇を追い払うただひとつの方法は、心の扉を開いてイエス・キリストを受け入れることです。まことの光であるイエスが闇を追い払ってくださいます。イエスを迎え入れた心は、光となるのです。
三、死の闇と命の光
そして、第三に、この暗闇は「死」です。草や木はその葉に光を受け、養分を作り出して成長します。人間も、他の動物も光を受けてからだに必要なものを作り出します。日の光の弱いところではビタミンDを作り出すことができず「くる病」になることは良く知られています。これは、霊的にも同じです。4節に「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあるように、イエス・キリストは、人を生かすお方、私たちの命の光です。
聖書で「死」という場合、それは三つのことを意味します。「肉体の死」、「霊的な死」、そして「永遠の死」です。「霊的な死」というのは、肉体の命があっても、生きる目的やよろこびを失っている状態のことです。生活はしていても、本当の意味では生きていないのです。そのような人が何と多いことでしょう。人生の意味や目的は、私たちを造られた神のもとに行くまでは得ることができません。「霊的に死んだ人」とは、神について無知であるだけでなく、神に対して無感覚な人のことです。そういう人は世の中のことは何でも良く知っており、それに敏感に反応するのですが、神のことに無関心であるばかりか、神の愛に感動したり、感謝したり、喜んだりすることがないのです。キリストは、そんな私たちに、いのちの光となって世に来てくださいました。イエス・キリストを受け入れる者は、肉体の命に加えて、霊的な命、つまり「永遠の命」を受けて生まれ変わり、いのちの光に照らされ、神の子どもとして成長していくのです。
「永遠の死」とは、死後のさばきのことです。永遠の命を持つ者にとって「永遠の死」は、もはや力を持ちません。イエスは私たちの代わりに神のさばきを引き受けてくださいました。そして、ご自分を信じる者の罪を赦してくださいました。罪赦された者は死から命へと移っているのです。
「肉体の死」ですが、これは永遠の命を持っている者にも、持っていない者にも平等に訪れます。すべての人には一度死ぬことが定まっているのです。クリスチャンにも肉体の死を迎えるときが来ます。しかし、クリスチャンは、すでに死に勝っています。私は多くのクリスチャンの臨終に立ち会ってきましたが、キリストを信じる人々はみな、死を迎えるときも、神のくださる平安に包まれていました。キリストのいのちの光を持つ者は、死の暗闇の向こうにある天の光を見ることができ、それによって死にも打ち勝つのです。
ほんの一筋ほどの光でも入ればそこはもう闇ではありません。いのちの光・キリストはすでに世に来てくださいました。キリストは無知の暗闇、罪の暗闇、そして死の暗闇を打ち破ってくださいました。「光はすでに輝いている」のです。私たちが心の窓を開け、信仰のドアを開けるなら、そこからいのちの光が入ってきます。あなたの心の暗闇がどんなに深くても、ひとたび光に照らされるなら、それは光となります。闇は決して光に勝つことはできません。5節に「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とある通りです。
この時期、人の集まるところでは、ツリーや建物を盛んにライトアップします。地域によっては、ストリートに面した家々が競い合って自分の家をライトで飾り立てるところもあります。そのために、電気代も含めて何千ドルもかける人もあります。しかし、どんなに豪華に家をライトで飾りたてても、そうした光によっては、心の闇やこの世界の闇を追い払うことはできません。ただキリストだけが、私たちの闇を追い払ってくださるお方です。私たちも、この季節には、ささやかでもライトアップをしたり、キャンドルを灯したりします。そのとき、イエス・キリストが、私たちのいのちの光であることを覚えたいと思います。クリスマスの賛美に「この世の闇路を照らし給う 妙なる光の 主は来ませり」とあります。私たちは、このクリスマスをイエスが、私たちのいのちの光となって来てくださったことを大いに感謝する時、もっと心を開いて、もっと多く、主の光を迎え入れる時としたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、いのちの光、イエス・キリストを遣わしてくださったあなたに感謝を捧げます。世はますます暗くなり、人の心の闇も深くなっています。このような時こそ、いのちの光であるイエス・キリストを迎え入れる人が多く起こされるようにと切に願います。クリスマスをたんなる行事にしてしまっている人々に、クリスマスの本当の意味を知らせることができるよう、私たちを助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/10/2023