1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
1:6 神から遣わされたヨハネという人が現われた。
1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。
九月十一日、アメリカの二百二十六年の歴史の中で最大の惨事が起こりました。九月十四日には、大統領の呼びかけに応じて全米の教会で祈りの時が持たれました。大統領の呼びかけの背後には私たちを祈りへ導こうとしておられる神の導きがあったと思います。あの日からもうすぐ二週間が経とうとしていますが、未だに多くの人々が傷つき、苦しみ、悲しみの中にあります。一瞬にして愛する人を、家族を失った人々、救助にあたっておられる方々のため、アメリカの復興のため、世界の平和のため、私たちはあの日の祈りで終わることなく、神が傷ついた人々の心と生活を癒してくださるその時まで祈り続けていきたいと思います。
聖書は、世の終わりが近づいている、世の中が暗くなっていくと預言しています。テロリスト・アタックの映像はまるで黙示録の世界を見ているかのようで、預言の成就かと思わせるものでした。しかし、聖書は時代が暗くなって暗黒で終わるとは言っていません。光であるイエス・キリストがすでに私たちと共におられ、暗闇の世界を光の世界に変えてくださると約束しているのです。聖書が世のやみを、暗さを指摘するのは、決して私たちを失望させるためではなく、そのやみの中に輝いている光に私たちの目をむけさせるためです。「夜明け前が一番暗い」とよく言われますが、時代が暗くなればなるほど、イエス・キリストがもういちど「義の太陽」として私たちに現われてくださる時が近づいているのです。ですから、私たちはやみのわざにくじかれることなく、キリストの光を人々に示すものとして、この暗い時代にあっても、信仰の光を輝かしていきたいと思います。
―、無知の闇と真理の光
さて、ヨハネの福音書で「光とやみ」と言われているのは、目に見える物理的な光と闇のことではありません。ここでの「光」は不信仰な人には見えないキリストの栄光のことであり、「やみ」は肉眼では見えてこない霊的な暗さのことです。古代の人々は、夜は薄暗いともしびだけで過ごさなければなりませんでしたので暗闇を恐れましたが、現代は、野球のナイトゲームなどでご覧のように、スタジアムを昼間とほとんどかわらないぐらい明るく照らすことができるようになりました。日本などでは、一晩中煌々と明かりがついて、夜通しで遊び歩くことのできる町があるそうです。私たちは暗闇を克服したと考え、それを恐れなくなりました。しかし、それで社会がほんとうに明るくなったわけでも、平和になったわけでもありません。人の心の中には、またこの社会には、どんな電灯の明かりで照らしても消えない闇がなお残っているのです。
その第一は「無知の闇」です。ものごとに通じていることを「彼はそのことに明るい」と言い、ものごとを良く知らないことを「私はそのことには暗いのです」と言いますね。今話題になっているアフガニスタンでは、新聞は人口千人あたりたったの四部、電話は人口千人あたり二台という状況です。もっとも、これは十年ほど前のデータですが、アフガニスタンは世界で一番経済成長の進んでいない国ですので、今もさして状況は変わっていないと思われます。広い世界を知らず、まことの神を知らないと、国民は一部の指導者によって簡単に操作され、間違った方向に引っ張られてしまいます。「無知」は恐ろしい闇です。
しかし、教育が普及し、書物があり、ラジオがあり、テレビがあり、情報を得る手段がいくらでもある国々にも、神に対する無知は蔓延しています。世界中の多くの人が、キリストについて何も知らないか、間違った情報を持っているのです。アメリカのように多くの人が神のことばに、福音に触れている国でも、大部分の人が福音に無関心であったり、それを否定したりして、霊的な暗闇の中にいるのです。聖書に「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ローマ一・二十一)とある通りです。私たちは、たとえ、どんなに多くの知識を持っていたとしても、もし、神を知らなかったら、キリストを知らなかったら、私たちが何のために、どのように生きるべきかという答えを得ることができず、その心に光がなく、暗闇の中を歩かなければならないのです。
イエス・キリストは、この神に対する無知の闇を消し去る光です。イエス・キリストは目に見えない神を私たちに見える形で示すために、この世に来てくださいました。キリストこそ実に私たちを照らす真理の光です。コリント第二、四・六にこう書かれています。「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(コリント第二、四・六)ヨハネ一・一〜五と創世記一・一〜五はとても似通っています。両方とも「初めに」ということばで始まり、神が「ことば」によって世界を造られたことが書かれています。創世記で神は「光よあれ」と最初に光をつくってくださいましたが、ヨハネの福音書ではイエス・キリストは闇の中に輝く光であると言われています。神が世界を造られた時には、世界には神を知る知識があふれていたのに、人間の罪が無知の闇を作りだしたのです。今では、神の存在すら認めない世界、神に対してまったく無知な世界になってしまいました。しかし、最初に「光よあれ」と闇の中に光を輝かせてくださった神は、もう一度、イエス・キリストを私たちのもとに送ってくださいました。私たちはイエス・キリストによってまことの神知り、霊的な闇から解放されるのです。
二、罪の闇と赦しの光
聖書はまた人間の罪を「闇」と呼んでいます。ヨハネの福音書三章十九〜二一にこうあります。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」人が神を認めないのは、神の存在を認めることが不合理なことだからではありません。神を認めないことのほうが、むしろ、理屈にあわないことなのです。神がいらっしゃることの証明はいくらでもできますが、神がおられないことはいままで誰も証明した者はないのです。キリストを信じる信仰は数々の証拠によってささえられていますが、無神論は何の根拠もなしに「神はいない」と信じることです。ある意味では無神論者はどんなクリスチャンよりも「信仰深い」のかもしれません。神を信じない人の多くは、論理的に神を否定しているのでなく、道徳的に神を否定しているのです。つまり、自分の罪が、闇が明らかにされないために光である神を避け、否定しているのだと、聖書は言っています。
すべての人には罪があります。もし、私たちの過去のすべてが映画のようにスクリーンに映し出されたら、また、私たちの心の中にあるものが、小さな心の動きも、コンピュータのようなもので分析されて表示されたら、私たちはそれを見るのが耐えられなくなるでしょうね。私たちすべては、神が私たちのすべてを知っておられ、やがてそれを明らかにされるということを、おぼろげながらも感じています。すべてを知っておられる神の前に出ることは恐ろしいことです。ですから、罪ある私たちの心には神を否定しようとする思いが働くのです。
しかし、神に造られ、神に生かされている人間はどんなに神を否定しようとしても、神から離れて生きていくことはできません。順調な時には自分の力でやっているように考えていますが、病気をしたり、仕事を失ったり、いろんな問題に巻き込まれたりするとき、私たちは、人生には自分の力ではどうすることもできないものがあるのだと気付かされます。そして、神に助けを求ようとするのですが、罪のためにきよい神のもとに近づくことができないのです。神の救いが必要なのに、神に近づくことが出来ない、このジレンマに私たちは苦しめられてきたのです。これこそ、私たちの心を覆い、この世界を覆っている暗闇です。イエス・キリストが、この罪の暗闇を打ち破るために、この世界に来て、私たちの救い主となってくださらなかったら、罪ある人間には絶望の闇しかありません。そうなら、神を否定し、罪を否定したほうが良いと多くの人が考えるのも無理はありません。
しかし、イエス・キリストは十字架で人間の罪を背負ってくださいました。罪の刑罰のすべてを引き受けてくださいました。イエス・キリストのゆえに私たちは罪の赦しをいただけるのです。私たちの罪が緋のように赤くても、それは雪のように白くなるのです。罪はどんなに暗くても、そこに光が当てられる時、光に変わるのです。私たちの罪を全部記録したフィルムがあったとしても、それをカメラから取り出して光に当てればみんな消えてしまいます。神はそのように私たちの罪を赦し、私たちを正しいものにしてくださいます。暗闇が光にさらされればそれはもはや暗闇でなく、光になるのです。聖書にこうあります。「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」(エペソ五・十三、十四)神が私たちに「罪を認めよ。悔い改めよ。」と言われるのは、このような罪の赦しが備えられているからです。治療法のない病気であれば、自分が病気であることを知らない方が、あるいは、それを否定した方が心安らかでいられるかもしれません。しかし、治療法があるのに、それを認めて治療を受けなかったら、それはなんと残念なことでしょう。罪の治療法はすでにあるのです。私たちに必要なことは、罪を赦してくださるイエス・キリストを信じ、悔い改めをもって神の前に出ることです。その時、私たちは罪の暗闇から解放されるのです。
三、死の闇と命の光
暗闇はまた「死」を表わします。私たちは、自然界で光の届かないところに生命が育たないことを見て知っています。草や木はその葉に光を受け、養分を作り出して成長していきます。人間も、他の動物もまた光を受けてからだに必要なものを作り出します。日の光の弱いところではビタミンDを作り出すことができず「くる病」になることは良く知られています。光は命のみなもとであり、命の光の届かないところ、闇は、死を表わすのです。
ところで聖書で「死」という場合、それは三つのこと「肉体の死」、「霊的な死」、そして「永遠の死」を意味します。「霊的な死」というのは、肉体の命があっても、生きる目的やよろこびを失っている状態のことを言います。生活はしていても、本当の意味では生きていないのです。そのような人が何と多いことでしょう。人生の意味や目的は、私たちを造られた神のもとに行くまではつかみとることができません。「霊的に死んだ人」というのは、神に対して心を開き応答しようとしない人のことで、そういう人は人間世界のことには敏感に反応し、何でもわかり、いろんなことができても、神のことばを理解し、それにこたえることができないのです。イエス・キリストはそのように霊的に死んでいる者たちに命の光を与えるために来てくださったお方です。私たちはイエス・キリストを信じる時、肉体の命に加えて新しい命を受けます。それは霊的な命で「永遠の命」とも呼ばれます。この新しい命が私たちのうちに始まる時、私たちは神に対して生きたものとなり、神の子として成長していくことができるのです。
「永遠の死」とは、死後のさばきのことです。永遠の命を持つ者にとって「永遠の死」は、もはや力を失いました。イエス・キリストは私たちのかわりに神のさばきを引き受けてくださり、イエス・キリストを信じる者の罪をゆるし、キリストを信じる者を死から命へと移してくださったからです。「一度しか生まれなかったものは二度死に、二度生まれたものは一度しか死なない」ということばがあります。なぞなぞのようですが、キリストから霊的な命、永遠の命を受けなかった者は、肉体の死の後、神のさばきを受けなければならない、しかし、イエス・キリストを信じ生まれかわった者は、すでに永遠の命を持っており、死後のさばきにあうことがないということを言おうとしたものです。私たちが死を恐れるのは、死後、神のさばきがあるからです。死は、私たちから名誉も地位も財産も、すべてのものを取り去ります。私たちはどんな隠れ蓑も奪われて、裸で神の前に出なければなりません。私たちのすべてを知っておられる神の前に出ることは恐ろしいことです。私たちは生きている間に、この神の前に悔い改め、キリストを信じて罪のゆるしを受けなければなりません。
さて、肉体の死ですが、これは永遠の命を持っている者にも、持っていない者にも平等に訪れます。すべての人には一度死ぬことが定まっているのです。死は人類にとって最後の敵です。キリストがもう一度来て死を滅ぼしてくださるまで、肉体の死はクリスチャンにも訪れます。死も涙も悲しみもない新しい世界がやってくるまでは、死は力をふるい続けます。しかし、キリストの復活を信じる者、永遠の命を確信している者は「肉体の死」に打ち勝つことができるのです。身近な人々の死に接して私たちは打ちひしがれます。医者からあと数ヶ月しか命がないと宣告されて心乱れない人はいないでしょう。怒りや悲しみ、落胆やあきらめ、残される人々に対する心配などが心を占領するでしょう。しかし、罪のゆるしと永遠の命を確信する者たちにはやがて平安が訪れます。私は多くの人の臨終の床に立ち会ってきましたが、キリストを信じる人々はみな、神のくださる平安に包まれて死を迎えています。キリストの命の光を持つものは、死の暗闇の向こうにある天国の光を見ることができ、それによって死にも打ち勝つのです。
五節に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」とあります。ほんの一筋ほどの光でも入ればそこはもう闇ではありません。私たちの命の光キリストはすでに世に来てくださいました。キリストは十字架の死によって、復活によって無知の暗闇、罪の暗闇、そして死の暗闇を打ち破ってくださいました。光はすでに輝いているのです。私たちが心の窓を開け、心のドアを開けるなら、そこから光が、命の光が入ってきます。あなたの心の暗闇がどんなに深くても、ひとたび光に照らされるなら、それは光となるのです。キリストの知識の光、ゆるしの光、命の光にやみは打ち勝つことはできません。やみから光へ、そして、この光を人々に示すわたしたちとしていただきましょう。
(祈り)
父なる神さま、御子イエス・キリストを命の光として送ってくださり感謝いたします。私たちは世の光であるイエス・キリストにより、あなたを知り、救いの道を知り、永遠にいたる道筋を歩くことができます。しかし、なお闇の中にいる人々が大勢います。あなたは私たちをも世の光とし、それらの人々にキリストの光を持ち運ぶものとしてくださいましたから、私たちを用いて人々にこの光を届けるものとしてください。命の光、イエス・キリストの御名によって祈ります。
9/23/2001