1:29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
1:31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
1:32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
1:33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
1:34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」
一、小羊イエス
イエスは、聖書でさまざまな名前で呼ばれています。イエスについての最初の預言は創世記3:15ですが、そこではイエスは「女の子孫」と呼ばれています。創世記3:15の預言は、イエスが処女マリアより生まれ、人となってくださったことによって成就しています。イエスは創世記49:9では「ユダ族のライオン」と呼ばれ、黙示録5:5や22:16でも、イエスは「ユダ族から出たライオン、ダビデの根、明けの明星」と呼ばれています。こうした呼び名は、イエスが全世界の王であり、私たちの希望であることを言い表しています。イザヤ9:6には「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」、「平和の君」という四つの呼び名があります。イエスは、まさに、そのようなお方で、どれも、イエスにふさわしい呼び名です。
ところが、バプテスマのヨハネはイエスを「神の小羊」と呼びました。イエスは「百獣の王」ライオンになぞられられているのに、ヨハネはイエスを「小羊」と呼んだのです。イエスは、ご自身がそう仰ったように、「羊飼い」であるのに、その羊飼いに飼われる「小羊」だと言うのです。これは、ずいぶん矛盾しているように思われます。けれども、こうした「矛盾」は聖書の中にいくつもあります。イエスは「神の子」と呼ばれ「人の子」とも呼ばれています。「裁判官」と呼ばれ、また「弁護人」とも呼ばれています。「主」と呼ばれ、また「しもべ」とも呼ばれています。こうした一見「矛盾」に見える呼び名は、かえって、イエスがまことの救い主であることを表しているのです。イエスは「神」であり「人」であるからこそ、神と人との間に立って、人を救うことがおできになる。世界を審くべきお方だからこそ、私たちを弁護する方法をご存知である。イエスは、あらゆるものの上に立つ「主」であるのに、人を救うため「しもべ」となってくださった。イエスのさまざまなお名前は、そうしたことを教えています。イエスが「ライオン」であり、「小羊」である。そこに私たちの救いがあるのです。
二、十字架の小羊
「見よ、神の小羊。」ここでの「小羊」は、神にささげられる「犠牲」としての「小羊」のことを言っており、これは、イエスがどのようにして救いのわざを果たそうとしておられるかを預言するものでした。旧約時代、人々は罪の赦しのために動物の犠牲を捧げましたが、人々は、犠牲をささげる時、犠牲となる動物の頭に手を置きました(レビ1:4)。それは、その動物が、その人の身代わりになることのしるしでした。罪のない動物が人間の罪を背負ったのですが、それは、私たちの罪を背負って、罪のない神の御子イエスが、身代わりとなって死んでゆかれることを予告するものだったのです。
イエスの身代わりの死は、イザヤ書53章に驚くほど詳しく預言されています。イザヤ書はイエスが世においでになる800年も前に書かれたものですが、まるで、イエスの十字架の後に書かれたもののように、イエスの身代わりの死を描いています。
まず1-3節はこう言っています。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」イエスは神の御子であるのに、貧しく育ち、人々はイエスを「ナザレのイエス」「大工の子」と呼んでさげすみました。イエスが十字架にかけられた時には、「たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(マルコ15:32)と言って嘲りました。
続く4-6節ではこう言われています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」2004年に作られた “The Passion of the Christ” という映画は、ゲツセマネの園で捕まえられ、大祭司とピラトの裁判を受け、十字架につけられ、息絶え、墓に葬られるまでの、イエスの最後の一日を描いています。イエスがローマ兵によって鞭打たれるところは、目をそむけたくなるほど残酷なシーンですが、実際も、映画の通りだったと思われます。ユダヤでは人を鞭打ちときは、四十回までと定められていましたが(申命記25:3)、ローマにはそんな決まりはなく、屈強なローマの兵士たちが、革紐に鉛を埋め込んだ鞭を思うがままにふるったのです。この映画はそれをこれでもかというほど映していますが、それは、そこに、この映画のテーマがあったからです。この映画の最初に、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というイザヤ53:5の言葉が映し出されてされています。イエスが受けたあの苦難は、私たちの罪のためであって、イエスはその苦しみによって、私たちの罪を赦し、私たちに平安と癒やしを与えてくださった。この映画はそのことを伝えようとしているのです。
イザヤ53は「苦難のしもべ」の章と呼ばれていますが、7節で、この「苦難のしもべ」がまるで「小羊」のようであったと言っています。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」イエスは、この言葉通り、黙々と苦難に耐え、十字架を背負い、救いのみわざを成就していかれました。
「神の小羊」とは、「神ご自身が備えてくださった小羊」という意味です。普通、犠牲は、人間から神に捧げるものです。しかし、人間の側に、罪のための完全な犠牲などありません。何万匹の犠牲の動物であっても、何十億という財産であっても、あるいは、だれもが褒めるような善行、ごく少数の人しか成し遂げられない難行苦行であっても、それによって自分を救い、他の人をも救うことはできません。ただ神が備えてくださった犠牲、「神の小羊」であるイエス・キリストだけが私たちに完全な救いをもたらすのです(ヘブル10:10)。聖書は「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(ペテロ第一1:18-19)と言っています。
三、天の小羊
イエスは神の小羊となって、ご自分を神への供え物としてささげ、十字架の上で死んでゆかれました。しかし、三日目に「死人のうちよりよみがえり」、四十日して「天に昇り」、今、「全能の父なる神の右に座して」おられるます。では、天におられるイエスは、もう「神の小羊」ではなくなったのでしょうか。いいえ。黙示録5章には、天での礼拝が描かれているのですが、イエスはそこで、父とともに礼拝をお受けになる「小羊」、しかも「ほふられた小羊」と呼ばれています(黙示録5:6, 8)。イエスは、天においても「神の小羊」です。黙示録は、最後の22章まで、イエスをずっと「小羊」と呼んでいます。
それは、イエスが何度も、ご自分を犠牲として捧げておられるという意味ではありません。聖書が言うように、イエスはただ一度だけ、ご自身を捧げ、完全に救いを成し遂げてくださいました。それは何度も繰り返されなければならないような不完全なものではないのです(ヘブル7:27, 9:12, 9:26-28, 10:10、ペテロ第一3:18)。
けれども、イエスが天においても「小羊」と呼ばれているのは、私たちが小羊イエスによって救われていることを覚えるためです。イエスが小羊となって私たちの罪を贖ってくださったことは、私たちが地上にいる間に感謝することだけではないのです。私たちが天に行ったときには、もっとそれに感謝し、そのことのゆえに父なる神と主イエスをほめたたえるのです。
「子羊をば」という賛美(新聖歌4)の第2節はこう歌っています。
み使いらも うち伏すまでイエスは復活ののち、弟子たちに、ご自分の手にある釘跡や、槍で刺し通された脇腹の傷跡を見せましたが、そうした傷跡は、復活のからだに残されていたのです。そして、それは今も、主の栄光のからだに残され続けていることでしょう。この賛美のように、天使たちも、その傷跡に輝く栄光にひれ伏して、小羊イエスを崇めていることでしょう。
わが主の御傷は 照り輝く
いざみ民よ 救いの主に
栄えの冠を 捧げまつれ
この他にも、「小羊イエス」を歌った賛美は、いくらもあります。そうした賛美を聞いたり、歌ったりするたびに、イエスが、犠牲の小羊となってくださったこと、十字架で流してくださった血潮によって私たちの罪が赦され、その打ち傷によって私たちが癒やされていることを心から確信し、そのことのゆえに、もっとイエスに信頼していきたいと思います。
私たちの贖いは、霊的にはすでに成就していますが、私たちのからだの贖いや、世界の回復は、まだ成就していません。近年、自然破壊が進みました。今までなかった病気が各地で発生し、世界に広がるようになりました。物質的に豊かになった分だけ、人々のたましいはやせおとろえています。私たちは、そうした状況を嘆くだけでなく、少しでも改善されるようにと祈り、また努力していますが、罪も死も病いもない世界は、主イエスによらなければ達成できません。その血によって私たちを贖ってくださったイエスは、今も、世界の回復、救いの完成のために働き続けてくださっている「神の小羊」です。誰もが、回復の時、救いの完成の時が近づいていることを感じています。この困難な時こそ、天の御座におられる「小羊」イエスを仰ぎましょう。そして、主がもう一度来られることを、忍耐をもってち望みましょう。
(祈り)
父なる神さま。あなたは、あなたの御子を、私たちの救いのため、犠牲の小羊として世に送ってくださいました。御子イエスは今も、天で「小羊」と呼ばれ、私たちの救い主として、あなたと私たちとの間にいて、私たちのためにとりなしておられることを感謝します。「見よ、神の小羊」との言葉の通り、預言者が示し、使徒たちが証しした「小羊イエス」を、仰ぎ見ることができるよう、聖霊の助けを与えてください。私たちの心が、この世のものに惹かれたり、この世に起こる出来事で重く沈むとき、よりいっそう目をあげて「小羊イエス」を仰ぎ見ることができますように。主イエスのお名前で祈ります。
4/26/2020